第18回
眠りとも呼べない短い眠りから覚めると、私たちはどちらともなく互いに背中を向けて部屋服を着こんだ。それから奇妙なほどの厳粛さで洗濯を行った。それぞれの服を別のネットに入れて洗い、それぞれにハンガーにかけて干した。あらかじめ手順の定められた儀式のようだった。
「今日は遅くまで帰ってこないから」
と今さらのように伝えると、ひまわりは小さく頷いて、安心した、とだけ言った。
すぐに練習に戻ろうと提案する気が起きず、私たちはしばらく、ベッドに座ったままでいた。私の部屋に面したベランダは西日が差し入るが、洗濯物が乾くまではもう少しかかるだろうと思った。様子を見る素振りで立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。強い陽光に目を細める。
部屋を振り返ると、ひまわりは本棚のそばに屈みこんでいた。これ、と一冊の背表紙を指差す。近づいて手に取った。今から十年前の夏休み期間に開催された、展示会の図説だった。名称は「生命の躍進」。
「家族旅行で行ったんだ。一日目が東京で、上野の科博。二日目以降は北海道」
頁を捲った。第一章、カンブリア大爆発。アノマロカリスやハルキゲニアの化石、実物大の模型。そしてオパビニア。今ならば分かる。五つの目、ノズル状の口、体の側方に付いた櫂のような鰭。
「五億年ぶりだね」
ぬいぐるみを持ち、写真と対面させた。オパビニアOpabinia regalis(節足動物門)。ロイヤル・オンタリオ博物館所蔵。一九〇九年、チャールズ・ウォルコットにより、カナダのブリティッシュコロンビア州にあるバージェス頁岩から発見されたカンブリア紀の動物群を、バージェス頁岩動物群と呼ぶ、と解説が添えてある。
「チャールズ・ウォルコットだって。バージェス博士じゃなかったね」
「ウォルコットの専門は三葉虫だった。鉄道を通す計画が当時あって、現地を調べたら、三葉虫の化石が出たの。で、改めてウォルコットが発掘調査を行った」
「それで見つけたんだね」
「うん。当時は知られてなかった動物の化石が、軟体組織まで残った状態で出た。骨以外の部分っていうのは、だいたい腐敗しちゃうものなんだけど、その一帯はきっと、瞬時に土砂が降り積もるような事故があったんだね。おかげで真空パックみたいに保存された」
「タイムカプセルだね」
ひまわりは頷いた。
「今ではウォルコット採石場って呼ばれてる。カンブリア大爆発は伊達に大爆発扱いされてるわけじゃなくて――ここ見て。節足動物門って書いてあるでしょう」
図説を指差しながら説明する。
「いま生きてる動物のほとんど全部のグループが、カンブリア紀に誕生してたの。節足動物門は、現在でいうとエビとかカニ。魚類、爬虫類、哺乳類なんかは脊索動物門。ちなみにこうやって生物の体系を分類する学問、つまり分類学の祖って呼ばれてるのが、カール・フォン・リンネ。ここから面白いところに繋げるよ。英語のさ、あのむずいテキスト」
「これ?」
「そう、それ。今やってる単元に、ラマルクって人が出てきたでしょ?」
私はテキストを机の上に広げ、それらしい項目を探して読み上げた。
「フランスの博物学者ラマルクは、著書『動物哲学』の中で、生物のよく使う器官は発達し、あまり使わない器官は退化するとする説を提唱した。これを『用・不要説』という。本当だね。名前、覚えてなかった」
「ラマルクは分類学の研究家でもあったの。というか、分類学から進化に関する着想を得たってほうが正しいのかな。生物を大きなグループに分類して、たとえば心臓に注目してみる。魚類は一心房一心室。両生類は二心房一心室。爬虫類も同じだけど、心室をふたつに区切る壁がある。鳥類や哺乳類は二心房二心室。作りが複雑になってるでしょ? 創造論だと生き物は神様に作られたときから変わらないはずだけど、これじゃ説明がつかない。実際の生き物は少しずつ変化して、不完全なものから完全なものに近づいていってるんじゃないか? そう彼は考えた」
図説に目を移す。第二章、上陸。最初の脊椎動物であった魚類から、陸に上がって生活できる両生類が生まれる。やがて完全に陸上で暮らす爬虫類が誕生する。
「生物の変化には、環境の影響もあるだろうってラマルクは思ったんだね。生活の仕方が変われば、よく使われる器官も変わる。キリンは高いところにある葉っぱを食べようと背伸びを続けた結果、首が長くなった。こうやって獲得された形質が、次世代に遺伝する。その繰り返しで新しい種が誕生する」
「そうやって聞くともっともらしいね。でもラマルクの説は否定されてる。形質は――遺伝子ですでに決まってる。個体間で起きた生存競争の結果、生き残ったものの形質が次世代に伝わっていく。これが『自然選択論』である。だって」
「現在の進化論の主流は、ネオ・ダーウィニズム。突然変異と自然選択論の組み合わせ。遺伝子は外部の環境に関係なく、ランダムにしか変化しない。ランダムに生まれたものの中から、有利なものだけが生き延びる。そして次の世代に伝わる」
ひまわりはそこで可笑しそうに笑い、
「こういうときの話題としては、あんまり適切じゃなかったね」
「私たちのあいだでだけ適切ならいいんじゃない?」
私は図説と英語のテキストを机の上に並べ、その隣にオパビニアを置いた。壁際のラックへ寄り、スピッツのオレンジ色のベストアルバムを抜き出す。
「アンモナイトだ」
「ああ――本当だね。今まで気付かなかった」
ジャケットにあしらわれているのは、確かにアンモナイトのような渦巻きである。何度となく聴きかえしてきたというのに、そうと意識するのは初めてだった。
「『空も飛べるはず』にする? アルトはパート錬のたびに聴いてるって」
「『渚』がいいな。いちばん好きかも」
頷き、ステレオを操作した。渚――海と陸の境界。混ざり合う場所。水をイメージさせる曲がスピッツには多いねと、いつか夏純と話した。たとえば『プール』の中盤に配された、静かな、溶け出すようなパート。『魚』のきらめくようなイントロ。『さらさら』のアルペジオ。歌詞はもちろんのこと、音全体の作り出す世界の透明度が水を思わせる。『渚』もまさにそういう曲だ。
「お姉ちゃんもこの曲、好きだった」
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