エリスタール

 

 あれから雨も止み、遅れを取り戻すため早めに歩いて、夕方にさしかかる頃にはエリスタールに着いた。

 エリスタールに近づくと街道沿いに畑や人家が見え出し、ベルシュ村周辺ではあまり見られなかった、瀟洒な姿の糸杉を植えている家もあった。

 ずっと南西に向かっていた街道はゆるやかに曲がり北西に向かい、散在する人家が密集し始めると、家々の向こうに小高い丘にそびえ立つ、男爵ユリオ・ブリガールの居城、エリスタール城が見えた。

 丘の上には石造りの大きな建物が密集している。丘の斜面は所どころ石を積み上げ、丘の外周を囲み、外側の城壁となっていた。丘の上の北側にはさらに城壁で覆われた部分があり、いくつかの建物と、一段高く、本丸があった。城の本丸には五つの塔がそびえ、中心部の三つは連結されて城主の居住する館となっているようだった。多くの窓が見えた。

 エリスタールはレーネが生まれるよりさらに古い時代、より南西の大陸中央部で興ったラディス王国の北部への伸展期に設けられた軍事拠点だった。丘の上の外郭部が当時の市街だったのだろう。現在は丘の下に市街地が広がっている。

 市街地に入っていくと夕方の道には以外と人影が少なく、夕日に伸びた建物の影が石畳に変わった道を隙間なく覆っていた。

 一見、物寂しい印象だったがイシュルには漆喰や石材の壁の奥に、多くの人の気配を感じた。

 何人かの人が集いさかんに話していたり、一つ所に動かず仕事か家事をしている人、建物の奥の方で料理でも始めるのか火をおこそうとしている人、階段を上る人、降りる人、おそらく子どもたちだろう、どこかの裏道を走る小柄な人々の動き、それは田舎の村では感じることがなかった、大きな街の多くの人々が生活する気配の、複雑に折り重なったもうひとつの街の姿だった。

 建物の影に閉ざされた人気のない道は街の中心部へ向かっているようだ。あの城塞の丘が間近に見えるところまで来ると、今度は道の先に、多くの人々のざわめきと広い空間を感じた。そのまま道なりに歩くと、丘の南正面にある広場に行き着いた。ベルシュ村から続く街道のここが終点になる。

 広場は夕方になり店じまいする露天商や、しつこくねばる客たちの喧噪であふれていた。さきほどまでの人気のない街並が嘘のようだった。

 売り物をのせた荷車を曳きさっさと広場を後にする者、屈んで商品をひとつひとつ布で包んでいる者、その間をまだ名残惜しそうにうろうろとしている者、広場の喧噪を無視してさっさと広場を横切っていく者。                こちらは魔法具の力など関係ない、誰もが目にする街の正常な表側の姿、だといえるだろうか。

 市場の喧噪を横目に広場の隅を横切っていくと、広場の奥、正面に幅の広い緩やかな階段の道が目に入ってきた。その階段は丘の城塞の外郭部に接続し、奥に城門があった。城門は開いており、大きな建物の密集した奥に聖堂教の神殿が見えた。

 イシュルは広場の南西に伸びる道へ入っていく。すぐ道は突き当たり、そこを左に折れ、今度は南の方へ歩いていく。さして広くもないこの道には行き来する人の姿もちらほら見かけた。

 やがて道は河岸に出た。川幅はそれほど広くはないが、両岸は石積みで覆われ、川には小舟が点々と繋がれている。

 この川は街と同じ名でエリスタール川と呼ばれ、ベルシュ村の南側を流れる名もない川や、そのさらに南に点在する湿原などから流れ出す無数の小川などが合流したものだ。

 両岸にはいくつか商店も存在し、店の前で荷造りや荷解きをしていたり、数名で立ち話していたりする人たちがいた。

 河岸を少し歩くと石造りの立派な橋が見えてきた。その橋から伸びる道を右に曲がり、今度は北側に向かう。道幅はやや広くなり、荷車の往来もあって、行き来する人々も多い。

「ここらへんだよな」

 イシュルは川から少し離れた辺りで道の左右を見渡した。

 セヴィルの経営するフロンテーラ商会のおおよその場所はすでに聞いている。この道を先ほどの橋をわたり、街を抜け、ずっと南下していけば商会の名のもとになったフロンテーラに至る。

 まず道の右側に並ぶ建物を見ていくか。

 商店や工房など、個人の住居などでなければ建物の扉やその周囲に、紋章や売り物などを鉄でかたどった看板や、銅板に店名などを透かし彫りしたプレートなどが掲げられているので、それをひとつひとつ確認していくことにする。

 そうやって道の右側を確認しはじめて五件目、目的のフロンテーラ商会を無事見つけることができた。

 「フルネ・フロンテーラ商会」と浮き彫りされた銅板が打ち付けられた大きめの木製の扉、横にガラス窓がひとつ、石造りの店の表側にはただそれだけ。間口はそんなに広くない。前世の江戸時代だったかと同じで、商家は間口で税額が変わってくるから、よほどの大店でないとこんなもんなんだろうが、店先に商品が何も置かれていないので、さきほどの市場の露天商などと比べると少し寂しい感じがする。

 あまり儲かってないのかな、とも思ったが、「商会」とあるし、油や酒などを扱っているという話だから小売りはしていないのだろう。

 表から入ってもいいんだろうが、ここはもと日本人として裏に回ろう。こういう配慮はしすぎても損することはないだろう。

 商会の建物と隣の間を通って裏に回る。足下は途中から板敷きになり、下は下水が流れているようだ。街の大きな通りはたいてい片側か中央に下水溝があり、石や木製の板がはめ込まれている。近世以前のヨーロッパの都市は、下水路などが整備されていなくて悪臭がひどかった、とはよく聞く話だが、この世界の街はそこら辺は余程まともなようだ。

 商会の裏は小さな空き地になっていて、真ん中に周囲の家々の共用の井戸、洗濯場などがあり、荷車や木材、古い家具などが家ごとに置かれ、洗濯物が干されていたりして雑然としていたが、夕方なのに人気がなかった。

 商会の裏手、古い木造の倉庫のような建物の前に来ると、扉が空いている。中に人がひとり、動いている気配がある。

 扉の前に立ちおとないを入れると、ハタキのような物を手に持った、少し恰幅のいい中年の女性が中から出てきた。

 女は一瞬、とまどった表情を浮かべたが、イシュルが訪ねてくるのを知らされていたのだろう、すぐ笑顔になって、

「あら、初めまして。あなたがベルシュ村のイシュルちゃん?」と言ってきた。

 中年の女性はフルネといい、セヴィルの妻だった。



「村の鳥はうまいなぁ。ほんと久しぶりだよ」

「ぼくも。懐かしい味がする」

 セヴィルとイマルは、温め直したおみやげの鳥の薫製を頬張ると歓声をあげ、村の味を懐かしんだ。

「ほんとねぇ。水がいいし、良い餌食べてるからね、きっと」 

 その日のセヴィル家の夕食はイシュルも加わり、四人で食卓を囲むことになった。人数がひとり増えてこれからは食卓がより賑やかになる、とセヴィルをはじめみな機嫌が良かった。

 イシュルはフルネに家の中に招き入れられるとすぐに居間に通され、お茶を出された。フルネと自己紹介やら商会の話などをしていると、たいした間もなくセヴィルがイマルを連れ、店に帰ってきた。得意先を回って集金に行き、商人ギルドに顔を出してきたという。

 セヴィルはおそらく四十くらい、やや小柄で毛髪は早くも白髪で覆われ、髭を生やしていた。年相応に商人として世間でもまれてきたのか、熟れた感じのする人だった。

 イマルは二十歳過ぎくらい、上背はあるが、父のポーロに似ずひょろっと痩せていた。早世したという母の方に似たのかもしれない。割とおしゃべりで、人当たりが良く如才無い感じも父と全然似ていなかった。目だけは少しギョロっとしていてポーロに似ていた。

「ファーロさまは相変わらず元気かね」と、セヴィル。

「はい、とても」

 とても、とひと言つけ足したことで察したのかセヴィルに笑みが浮かぶ。

 セヴィルもベルシュ村の出身だった。最初はエリスタールの大店に見習いで働いていたが、そこでやはり見習いとして修行に来ていたフロンテーラの大店の者に気に入られ、その縁者であったフルネと結婚し、エリスタールに支店を持ったということだった。

 セヴィルもファーロさま、と「さま」をつけて言った。イシュルは住み込みの見習いとして来たので、まずは下働きで、と思っていたのに妙に扱いが良いのが気になっていたが、父のエルスはエクトルとは従兄弟で、一応イシュルもベルシュ家の親戚に当たる。主筋とはいうほどではないが、そういう扱いを受けているのかもしれなかった。あるいはベルシュ家とセヴィルは手紙のやり取りもしている筈なので、ファーロが何か書き送ってくれたのかもしれない。

 食事が終わり、酒を飲みはじめたセヴィルとイマルの話に魔獣の話題が出た。

「今日街でちらっと耳にしたんで、ギルドに言って詳しい者に聞いてきたんだが」

 セヴィルがひと口杯を嘗め、イシュルに顔を向けて言った。

「昨日、セウタの先で大牙熊という魔獣が出たそうだ。前に出たのは二十年以上も昔で、今回出たやつはこう、まるで小山のように大きくて、牛や馬なんかかるくひと飲みにしてしまうようなやつだったとか」

 大きなニュースだったのか、噂が広まるのが早い。ただ随分と話が大きくなっている。

「イシュルは見なかった?納税の麦をいっしょに運んでたんでしょ。昨日あたり近くにいたんじゃない?」

 イマルもイシュルに顔を向け、聞いてきた。

 イシュルは昨日、魔獣と遭遇した経緯を話した。翌日、騎士団分屯所の騎馬隊と弓兵が現場に派遣された件も話した。

「凄い!ほんとうに危なかったね。大牙熊ってけっこう強いんでしょ?」

「けが人がでなくて良かった。しかし騎士団が重装騎兵を出すなんて…相当なもんだな」

 セヴィルは頷いたり感心したりと、普通にイシュルの話を聞いていたが、急に表情を曇らせ、顎に手を当てて考え込む仕草をした。

「どうしたんです?」

 イマルが声をかける。

「フロンテーラ街道にも十日ほど前に魔物が出た、という話があってな。その後は特に聞こえてこないが」

 フロンテーラ街道とはエリスタールとフロンテーラを結ぶ街道のことである。

「……」

「何か、あるんですかね」

 イマルが心配そうに言った。

「かなり昔のことらしいが、聖王国の東部で、山の方からたくさんの悪魔が出てきてな。当時大騒ぎになったらしいが、その時こちらの方にも魔物がよく出没したらしい」

 悪魔というのは、冥界、地獄の底からやって来る亡者だとされている。聖堂教にも地獄と天国がある。地獄は冥界とも呼ばれ、天国は精霊界と呼ばれる。天国、という言葉はほとんど使われない。

 悪魔はファーロから借りた教本に描かれてた人型の魔物だ。ほぼキリスト教における悪魔と同じ外見をしているが、人間ほど知能は高くない、というか社会性などがないが、ずる賢く残虐で、空を飛び、強力な魔法を使うという。さすがにドラゴンとは比較にならないものの、かなり強い魔物とされている。

「強い魔獣が何かの理由で人里に近づくと、それより弱いものはその魔獣から逃れようとする。つまり一部の魔獣が人里に押し出されてくる、という説と、魔物にも簡単な位階や序列のようなものがあって、強い魔物は弱い魔物をある程度使役でき、その強い魔物が何らかの理由で人里を襲う時に弱い魔物を引き連れてくる、というふたつの説があって」

 途中、セヴィルは杯の底に残った酒を煽るようにして飲みほした。

「それがもともと魔物がほとんどいないこの地方でやつらが急に増え出す原因、と考えられている」

「そういうことがまた起ころうとしてるんですか」

 セヴィルに聞いてみた。

「わからない。ただ辺境伯領や聖王国の東部で魔獣が増えてる、という噂が流れてきている」

「なるほど、じゃあ、酒や油の出荷を少し押さえて、今のうちに買い占めておきましょう。ギルドに睨まれない程度に。フルネさんのご実家にも、物によっては在庫を増やすと良い、と伝えておくといいかもしれないです」

 などと人差し指を立てて、冗談半分にしたり顔して言ってみたら、セヴィルとイマルが唖然とした顔をした。



 翌日からさっそくイマルについて商会で取り扱っている品の説明を受け、帳簿のつけ方を教わった。

 王国の中央部にあるフロンテーラに集まる産物を、フロンテーラ商会の本店から安く仕入れてエリステールで売るのが、セヴィルの妻の名を冠したフルネ・フロンテーラ商会の主要な業務ということになる。

 フロンテーラから仕入れる産物は樽に入れて運ばれる麦の蒸留酒がメイン、それに少量の油や塩、織物などになるが、

「イシュル、これを見てみろ」

 セヴィルが見栄えの良い壷からわざわざ取り出して見せてきたのは黒っぽい粉、黒糖だった。

 フロンテーラは、大陸南部で栽培されるさとうきびからつくられた黒糖の貿易中継地だった。その高級品を本店から調達し、つまり独自のルートでエリステールの男爵家や神官、商人などの富裕層に売って高い利益を得ていた。酒や油よりも、実は黒糖が商会の扱う最も重要な商品だった。

 街の大きな商家や地主など富裕層、歓楽街の飲み屋などへの納品や集金をイマルについて回って、商会の主な取引先を憶えたり、商慣習などを学びはじめた数日後、店主のセヴィルとイマルについて、最も大きな取引先、ブリガール男爵家の居城に行くことになった。

 

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