君は何を恐れている。

 彼が戦争に行って数か月が経った。あの雪の日から気まずさはないとは言えなかったが、多い時には週に一度彼から手紙が届いた。内容は彼らしく素っ気なくて、でもどこかあの雪の日を思い出させる虚無感が伝わって来て、心配という言葉じゃ表せない心に積もる闇は、手紙が届くごとに増していった。

 

 けれど段々手紙の頻度は減り、月に一回届く程度になった。週に一度私が送る手紙に応えるというよりは自分の苦しみを私に訴えかけているような感じであった。

 彼の目にあった無限の星は何かの強い勢力と言う光によって、もう見えなくなってしまっているのだろう。

 

 私は目を閉じて想像した。


 けれどその星々は消えてしまったわけではない、見えなくなってしまっただけなのだ。植え付けられた絶望や現実は私が拭い取ればいい。もし彼のそばにいることで彼が不幸になるのなら私は彼の前から姿を消そう。きっと戦争が終わって帰ってきたら、またきっと彼は医者を志してくれる。


 私はそう信じながらも足元がおぼつかない日々を過ごしていた。


 けれどいくら待っても戦争は終わろうとはしなかった。



 そして私の人生が大きく変わった1938年、私はその年に18歳になった。普通ならばお嫁に行く年頃であったが、ハンセン病を患っている私を貰おうとする人は一人もいなかった。ある日いつものように家の手伝いをしようと外に出ようとすると、父が家に急いで入ってきた。


「結子、隠れろ!」


 そう言って私の背中を押した。


「え?どうしたの?」


 私はいつもと違う父の様子に驚きながらも勢いに押され、父の言うことを聞いて部屋の押し入れの中に入った。


「この家には、らい病の娘がいたよな?」


 知らない男の声が家の入り口から聞こえてきた。


「いや、娘はもう完治している。お前たちの収容所に行くまでじゃあない。」


 父の声がした。私の病気は未だに完治していない。


――これがいつか噂に聞いた、無らい県運動か。


 私は震える身体を抱きしめ息をひそめた。


「それは俺たちが決めることだ。」


 私を捕えに来た男が家に入り込む音がする。


「ふざけるな、娘には指一本触れさせねぇ!」


 聞いたことがないほど大きな叫び声をあげ、父が私を守ろうとしていた。そんな父の姿は生まれて初めて見た。いつも私を空気のように扱う父から、愛情なんて感じたことはなかった。けれど今初めて、父の本物の愛情に触れる。


 しかし父の抗いもままならず私の部屋の扉はすぐに開けられ、押し入れの襖は真っ先に開けられた。

 

 ずかずかと土足のまま、数人の男が私の元へ寄ってくる。


「ほぉ、文太郎が惚れただけのことはあるなぁ。勝気そうで綺麗なおなごだ。」


 私の顎を持ち上げて男は言った。


「ハンセン病は治ってないみたいだが。」


 私の腕の白あざを見てそう言うと私の顎を持ち上げた男は私から離れ、後ろにいた二人の男に合図した。


 合図を受けた男たちはマスクと手袋を装着し、私の腕を掴んだ。


「や、やめて下さい。」


 私が必死に抵抗しても、二人の男は私を捕まえることになんの苦労もなかった。


「いい加減にしろ!」


 父が叫び男にとびかかるがすぐに床に押さえつけられた。

 母は泣き崩れ、兄弟たちは大人の脅威に恐れおののく。

 どこに連れていかれるのかも分からず私は二人の男に運ばれていった。


「お前らがハンセン病の患者を利用していることぐらい知っているぞ!」


 父が男たちに叫ぶと、男たちは父の方へ振り返る。


「俺たちはお国の言うことを聞いているだけだからな、文句があるならお国に行ってくれ。」


 一人の男が声をあげて笑った。


「お父さん」


 私は助けを求め、父を見た。その時の父の不甲斐ない顔からは、私を助けることのできない絶望が感じられた。逆らえない見えない重圧は、父と母を生き地獄へと堕とし入れていく。


「大丈夫だよ、可愛がってやろう。」


 私は腕を引っ張られ外に連れていかれた。


「せめてこれだけは、」


 そう言って母は私にどてらを差し出した。

 男たちは顔を見合わせたが私の腕を一瞬離す。

 母からどてらを受け取り私はそれを羽織る。


「代わってあげられたらどれだけ良いか。」


 母は涙を流しながら私の頬を優しく撫でた。


「丈夫に産んであげられなくてごめんね。」


 母が今まで私にそんな態度を示したことは一回もなかった。いつも母は私を甘えさせるようなことは決してしなかった。けれどその態度すらも愛情だったのだと別れ際になって知った私は、今まで虐げられてきたのは私だけではないことを思い知らされた。


「大丈夫。」


 私はそう言って母に笑顔を見せた。


「すぐに戻るよ。」


 泣き叫ぶ兄弟たちにも力強い笑顔を見せ、私は自ら男たちの元へ行く。これ以上ここに居て家族の愛情を感じてしまったら私はここを離れることが出来ないと思ったからだった。


 父の叫び声を聞いてだろう、私の家の周りには人が集まっていた。


「養生しなさいね。」


 近所のおばさんが言った。その言葉に裏があるのかどうか、私には分からない。私を見る世間の目はいつだって同情、軽蔑、憐れみがほとんどだ。

 私が一体何をしたって言うのだ。


 ずっと一緒に生きてきた両親さえもハンセン病はうつってはいない。

 彼は言った、私の病気はそう簡単にはうつらないと。


――何が本当なの?


 世間の目にさらされ心無い差別のせいで、無限の可能性を秘め多くの命を救うはずだったあの青年は、多くの人の命を奪い、今この瞬間も命の危機に晒されている。


 私の大好きなあのアルコールの匂いが染みついた手は、お国のいいように使われ彼は今悲劇を見ているのだ。だれがこんな地獄のような世の中を創ったの?

 私に一つ小石がぶつけられたらしい。私に当たって跳ね返った石が地面に転がる。


――胸を張って生きろ。


 彼の凛々しい声が私の頭の中にこだまする。

 私は俯いていた顔を上げて背筋を伸ばす。そして石が飛んできた方向を見た。

 一人の幼い少年が私の顔を見て体をびくつかせた。


「君は何を恐れている。」


 私は少年に向かって言った。一瞬にしてその場が静まり返る。


「私はどんな差別にも恐れない。これから私に訪れる過酷な業務は、私の人生において与えられるべき試練でしょう。だから私はその試練をしかと受け止めます。

 無知ゆえにお国が広めたハンセン病の感染力を信じ、お国の口車に乗せられ利用されていることにも気づかずに生きる皆さんに、明るい未来などあるのでしょうか。


 けれど私は、私と私の家族と、市川文太郎の未来を邪魔してきた皆さんを許しましょう。私を差別していた皆さんが、お国に大切な家族や財産を、心の平穏を奪われ、苦しみの中にあることを知っているからです。この世の中に不幸がない人間など存在しません。だからみんな、自分よりも辛い不幸を持っている人を見て安堵し馬鹿にし、一時の安心感に包まれる。


 けれどその安心感はまるで海辺の砂のよう。掴んでも掴んでもすぐに指の間から抜け落ちてしまう。そのことに気づいてまた自分が不幸だと自覚し居てもたってもいられず、自分より不幸な人を探し馬鹿にし、また一時の優越感という安心を手に入れる。


 あなた方はお国の作った空き箱の中に居る操り人形なんです。そんな状況に甘んじているあなたたちは、操られて自分の人生に一切責任を感じていない、むしろ被った不幸をいつまでも大切に背負っている。だからハンセン病の彼女がいると言う、あなた方から見たら不幸でなければならない男が、幸せそうに自分の志を信じ努力して生きていることがあなた方には信じられず許せなかった。

 彼を不幸にしたくてしたくて仕方なかった。


 そしてあなた方の願い通り彼は戦争に行きいわば不幸になった。さぞ満足でしょう? おまけにそのハンセン病の彼女が大切な家族の元から引き離され、施設に送られようとしている。こんなにも不幸になって可哀そうに、そう思って今ここに皆さんはいるのでしょう。

 

 でもこの男どもに連れていかれ収容所に入ることがハンセン病を患った人間の生き方ならば、私はその運命に従います。そして抗うことのできない自分の人生の中に幸福を見つけます。私は絶対に自分の不幸なんかに負けない。だって彼を愛していたから。彼がくれた人生の喜びは、私に訪れた不幸を一瞬で蒸発させるほどの情熱を私に与えてくれたから。」


 私は群衆の中に涙を流す彼の両親を見つけた。


「最後の時まで、市川文太郎の女として私は生きます。彼がわけてくれたあの強い志が私の心の中で生きているから。

 彼の生き方を知っている者の前に出ても恥じぬよう、私は前を向いて胸を張って生きる。彼がそう生きてきたように。」


 私は彼の両親から最後まで目を逸らさなかった。彼の母が泣き崩れたのを見届けると私は男どもの元へ戻った。


「戦争さえなければねぇ」


 そんな声がどこからか聞こえてきた。


――戦争さえなければ何なのだ? 戦争がなかったら私を助けてくれたのか?


 私を差別してきた者は私の目を見ない。


――目を背けるのは死んであの世に行く時だけでいい。


 彼はそう言った。

 私は生きている限り目を逸らさない、過去にも未来にも今にも。彼に結子と初めて呼ばれたあの時、私はそう決めた。それが彼と共に生きるという事なのだと私は思うから。

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