第6話 最後の登校日


  

 

 活気に満ちた校内を、初菜は青い顔をして歩いていた。傍らを歩く和樹の手を例によってぎゅっと握り締めたまま。

 

二人の通う藤ヶ峰高校はこの日、年に一度の文化祭。縁日を冷やかして駄菓子を買ったり、縁日を冷やかして粉末ジュースを買ったり、縁日を冷やかして……。

「……何で縁日ばかりなんだ……」

 パンフレットを眺めながら、和樹はため息をつく。三学年、二十四クラスのうち、縁日が六クラス、休憩所が四クラス、駄菓子屋が三クラス……。

「だって、しょーがないじゃん。食中毒がO‐157だから、調理系の企画はほぼ全滅なんだもん」

「……あぁ、もうやる気が感じられん!」

「……で、和君のクラスは?」

「……休憩所……」

「やる気無(な)~」

「だって、自分で作ったわけでもない駄菓子を売ったって、面白くないじゃん。収益だって学生に還元されるわけじゃないし。中途半端に面倒くさいのって最悪だと思わない?」

「まーね。どうせやるならぱーっとやりたいよね。そうじゃなきゃやらない! これだね」

「で、月のクラスは?」

「……縁日……ってかさっき行ったじゃん。ほら、からい棒とかいっぱい買ったとこ」

「……十本買うと一本おまけで付いてくるっていう、あの縁日か……。俺、食う気全く無いのになんで買ったんだろ……」

「売り子の綾ちゃんに乗せられて、でしょ。綾ちゃん口上手いもんね。それに可愛いし」

「……う~ん」

「あ~、否定しないんだ、ふ~ん」

 微妙に危うい緊張感を持って、和樹と初菜はしばし見つめ合う。

「やっぱり、綾ちゃんのことかわいいって思ってるんだ」

「そうだな~。ま、客観的に言ってかわいいんじゃないの?」

 初菜が目に見えて不機嫌になった。ふ~ん、とかほ~おとかぶつぶつ呟いている。

「客観的に、ねぇ? でも、客観はマジョリティーの主観が形成するものだからねぇ」

 ……この小難しくて性質(たち)の悪い焼餅の焼き方はどうにかならんのだろうか……。和樹は心の中で大きくため息をついた。こうなると、解決策はただ一つ。

「大丈夫、綾ちゃんとやらがどんなに可愛かろうが、月には敵わないからね」

「……えへへ~……」

 機嫌を直して照れ笑いを浮かべる初菜を、和樹は心の底からかわいいと思う。それこそ、言葉では言い表せないくらいに。……こんな事を言わされて凄くはずかしいのに。

「……他人のことなんか気にすんなよ。俺が好きなのは月なんだから」

「……わっ、なんてこと言うかなぁ……。……あっ、和君、あそこにお化け屋敷があるよ、ねねっ、行ってみよ?」

 言うが早いか初菜は和樹の手を引っ張ってぐんぐんと進んでいく。初菜流の照れ隠し。はずかしいことを言って欲しくて、焼餅を焼いたり不機嫌になってみるくせに、直球で勝負すると逃げてしまう初菜。……はずかしいのは、初菜だけじゃないのに。

「あれ、月、怖いもの苦手じゃなかったっけ?」

「だいじょぶ、和君がいれば怖いものなんて何もない!」


 十分後。活気に満ちた校内を、初菜は青い顔をして歩いていた。傍らを歩く和樹の右手を例によってぎゅっと握り締めたまま。

「……怖かったよぉ……怖かったねぇ……」

「……『和君がいれば怖いものなんて何もない』んじゃなかったの?」

「……いぢわる……」

 恨めしそうに見上げる初菜の頭に和樹の右手が乗せられた。吸い寄せられるように自然な動作に、初菜が小さく息を漏らした。足がぴたりと止まり、初菜は壁にもたれかかった。初菜の髪が和樹の指を撫でていく。和樹の指の隙間から初菜の髪がさらさらと、水のように流れ落ちていく。離された手の温もりを留めるように、初菜は左手を軽く握った。

「……変わらないな、月は」

 犬に脅えていた幼き日の初菜を思い出し、和樹は穏やかに笑った。

「……」

 心がざわざわと落ち着かない。初菜はやり場に困った目線を、和樹の上履きへと固定した。なんだか子ども扱いされたような気がして悔しくて、なのに心のどこかでほっとした。

『変わらない』。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、初菜には判断がつかなかった。ただ、今のこの関係がずっと続けばいい。なんとなく、そんなことを思っていた。

「……私さ、明日からしばらく、学校来れないんだよね」

 心の中に重い石を積まれているように、言葉にするだけで息が苦しくなる。それでも初菜は笑顔を浮かべた。心優しい恋人に、変な心配をかけないように。

「……なんか最近調子悪くってさ。この前、びょーいん行ったら、検査入院とかいうのしなさいって」

 髪を撫でていた和樹の手がぴたりと止まった。

「だ、大丈夫だよ! ただの検査だもん! 寝ているだけで学校サボれるしラッキーとか思っちゃったりして」

 笑う初菜の瞳に脅えの色が浮かんでいた。それは見逃してしまいそうなほど微かで、気づいた者の心を抉る程確かだった。

「……勉強、見てあげるよ。みっちりとね」

「……赤点コレクターの和君に務まるのかな?」

「俺がいつ赤点取ったよ?」

「中学二年、二学期の期末テストの英語」

「……一回だけだろーが! ……てか、良く覚えてるね、そんなの」

「和君のことなら、何でも覚えてるんだよ」

 そう言った初菜の透き通るような笑顔は和樹の心を温めた。



 見慣れた病室の扉。プレートに書かれた患者の名前を和樹は見つめた。来るたびに哀しくなることが解っているのに、どうして足を運ぶのだろう。来たくないと思うことは何度もあった。数分間も扉を開けることが出来ない日もあった。

 和樹は意を決して扉をノックした。中からの返事は無かった。和樹は音を立てないように扉を開けた。

 初菜は眠っていた。彼女愛用のミニノートを胸に抱え、薄っすらと涙を溜めたまま。頬はこけ、肉がすっかりこそげ落ちていた。触れた手は骨ばっていて、記憶のそれとは似ても似つかない。枕元の写真立て。初菜は自然な笑みを浮かべていた。そこにはいつからか見せてくれなくなった、初菜の本物の笑顔があった。

『邪魔モノはいないよ? 安心した?』

 からかうように笑う初菜が、和樹の記憶をくすぐった。

『あぁ、もう上手く言えないや……』

 自分の気持ちを伝えようと必死な初菜の照れ笑いが、慌てた時の早口が懐かしかった。

『トロピカーナ♪ って感じだよね』

 脈絡の無い、ちょっとお馬鹿な言葉と、それを紡ぎ出す太陽のような快活さが恋しかった。

『怖かったよぉ……怖かったねぇ……』

 猫の目のように変わる初菜の表情。彼女の中には一体いくつ、目を惹き付ける表情が隠されているのだろう。

『いいじゃん、別に』

 拗ねたような声に含まれるあどけなさを、ずっと護りたいと思っていた。

『こんな日がいつまでも……続くといいね』

「……和君……」

 弱々しい声に振り向くと、目を開けた初菜が力なく微笑っていた。

「……今日も……来てくれたんだね……ありがとう……」

 別人のような初菜の声に、和樹の目頭が熱くなる。

「……当たり前だろ……。俺は初菜の彼氏、なんだから」

 声に含まれる哀しみを隠そうとして……失敗した。

「……嬉しいな……まだ私……和君の彼女、なんだね……」

 まるで何かに耐えているように、初菜は微笑みの表情(かたち)を作った。

「……どういうことだよ……。意味、わからないよ」

「……和君に見られてるって……思うだけで、はずかしいんだ……。……やつれて、ぶさいくで……なのに和君は……私のこと、彼女だって……言ってくれるんだね……だけど……」

 初菜は言葉を切った。長く喋りすぎて疲れたのかもしれない。

「初菜はかわいいよ。不細工なんかじゃない」

 元気の無い初菜が和樹を傷つけた。気の効いた言葉の一つも言えず、初菜を元気付けてあげられないことが悔しかった。

「……和君は、優しいね……」

「ばか、初菜は客観的にかわいいんだよ」

「……客観的に……かぁ……和君一人がそう思ってたって……客観的とは……言わないんだよ……」

「じゃ、主観的にかわいい。てか、他人の意見なんて無視だ無視。月が好きなのは……俺だけ……なんだから」

「……何言ってんだか……」

 呆れたような初菜の張りの無い笑いが、和樹を失望させた。

和樹は初菜に、頬を赤くしてはにかんでほしかった。或いは意地悪な瞳をしてからかってほしかった。そうして、元気だった頃の表情を自分に見せてほしかった。

「……和君は……変わらないね……」

 そうして、『月は変わらないな』と言いたかった。言わせて欲しかった。

「……だけどね……今日はもう帰らないと……だめだよ……?

 明日から……学年末テスト……でしょう?」

「……そんなの、どうだっていいじゃんか」

「……よくないよ……。テスト勉強……やらないと……」

 諭すような初菜の口調が、妙に苛立たしく思えた。

「月の傍にいる方が、よっぽど大切だよ」

「……赤点とっても……知らないよ……?」

 勉強に集中出来ないのは目の前の、この少女のせいなのに。テスト勉強なんて、出来るわけがない。そもそもテストなんて、どうだっていい。月と一緒にいる時間以上に、大切なものなんて何もない。和樹の中で叫び出したい衝動が膨らんでいく。

「……それに、和君来年三年生でしょ? ……受験勉強は……始めた?」

 気を抜けば破裂してしまいそうなくらいに、膨れ上がっていく。それを必死に抑えようとしたけれど。

「……こんな所に毎日、来てる場合じゃ……ないんだよ……?」

「……そんなの、月には関係無い!」

 無理だった。抑えきることなど出来なかった。和樹の中で衝動が弾けた。

「テストなんてどうだっていい! 受験勉強なんてどうだっていい! 俺は初菜といたいんだ!」

「……だめ……っ!」

 悲鳴のように叫び、こほこほと咳き込む初菜。

「何がだめなんだよ! 月がこんな目に遭っているのに、勉強なんて出来るわけないだろ! 俺はそんなに薄情じゃない!」

「……そっか……」

 絶望に濁った初菜の瞳がまっすぐに和樹に向けられた。

「……私が和君を……壊していくんだね……」

「……月になら……壊されても、いいかな……」

 頭に血が昇って叫んでいた先ほどとは違い、打って変わった静かな声。剥き出しにされた感情が、鋭利なナイフに化けて二人の胸を鋭く切り刻む。

 初菜の瞳から涙が溢れ、和樹は初菜を抱きしめた。初菜の泣き顔を見たくなくて、自分の泣き顔を見せたくなくて。

 二人の涙が、胸の奥から湧き上がる二つの『かなしみ』が、触れ合う身体を通して二人の心に沁み込んでいく。

面会時間が過ぎてもずっと、二人は抱き合ったままだった。まるで、互いの温もりを確かめ合おうとするように。担当の看護婦に見つかるその刻(とき)まで。

 ……和樹が去った後、初菜は朝まで泣きじゃくっていた。好きだから、愛しているから、ずっと傍にいて欲しいから……。大切なテストを控える和樹を、引き離せなかった……。そのことで、初菜は弱い自分を責め続けた。

 


『……わたしが、こわしてく……』

 たったそれだけの文面。紙が波打っているのは、涙のせいだろうか。文字がよれているのは、指が震えていたせいだろうか。

けれどそれももう、過ぎ去った時間。次の日も和君は来てくれた。全然ダメだったよと笑いながら、私を元気付ける為に何でもないような顔をして。だから、私もダメじゃんって笑ってあげた。声が、滲んだ。顔が、歪んだ。だけど笑った。そうしないと私まで、壊れてしまいそうだったから。そうしないと、和君はもう二度と来てくれないかもしれないと、思ったから。 

そんな醜い自分の心が、悲しかった。


控えめなノックの音が、初菜の意識を現実へと引き戻した。扉が開かれ、入って来るのは初菜の愛する人。

 和樹の顔を見るだけで、愛しさが胸に満ちていく。

「……許可、もらったよ」

 開口一番、和樹はそう言った。

「……そっか……」

 曖昧に初菜は頷いた。

「……迷惑をかけると思うけど……明日はよろしくお願いします」

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