4 死んだはずの母親

「――直毅? ご飯、置いておきますね」


ドアの向こうから声がした。

母親の声だ。

俺がひきこもって以来、母親はこうして部屋に食事を持ってきていた。

なぜか息子相手に丁寧語になるところまでそっくりだ。


だが、そんなはずはない。

母親は死んだのだ。

苦しみにうめきながら、助けを求めた息子に見殺しにされ、それでもなお息子に生きろと伝えて死んだ。

その遺志は結局重度のひきこもりである息子に届くことはなく、息子は母親の死体を放置したまま現実逃避でゲームに耽り、そのまま飢えて死ぬところだった。


これこそ、幻覚だろう。

いや、正確には幻聴か。

しかしなぜ、母親の幻聴など聞いてしまうのか。

いかにも俺の母親らしく気の弱いあの人に、俺を救い出す力などありはしない。

できることはせいぜい、俺にひきこもりを続けさせ、不幸な母親である自分を呪うことくらいなのだ。

だが、それは母親の罪ではない。成人した以上は俺の問題は俺の責任だ。もっとも、俺のほうでも自分自身の問題を解決できるだけの能力がなかったわけだが。


そんなことを思う俺だが、結局のところ俺はひきこもりであり、最後の最後まで親に依存しきった人生を送ってしまった。

だとすれば、今際の際に母親の声を聞いたとしても不思議じゃない。


しかし……なぜ、ドアの向こうから、ブリの煮付けの匂いまで漂ってくるのだろうか?


幻覚や幻聴ならまだしも、ありもしない匂いまで感じるものなのか。

それも、「匂いがするような気がする」程度ではなく、はっきりと匂いを感じるのだ。


わけはわからなかったが、餓死寸前の俺の身体はひとりでに動いた。

床を這ってドアに近づき、床から手を伸ばしてノブを引く。

ドアが廊下に向かって開くと、ドアのぶつからない場所に、いつものトレイが置かれていた。トレイには、ご飯と味噌汁、サラダ、そしてブリの煮付けが載っている。


なぜそんなことが起こったのか……そんな疑問はたちどころに吹き飛んだ。

飢え死ぬ直前だった俺は、できたてのメシへとがっついた。

普段の俺は各皿を均等に食べていくのだが、今はとにかく手に取ったものから順にすべてを平らげた。

茶碗からご飯をかっくらい、味噌汁を一気に飲み干した。

ブリの煮付けは、骨を指で剥がして、身を手で掴んで一口に頬張る。

サラダも指ですくって口に放り込み、ミニトマトのへたごとすべて飲み込む。


「食えた……」


ものを食べたことで、俺の頭が回り出す。

食えた以上、このメシは幻覚じゃない。

幻覚を食ったところで、身体にエネルギーが戻るわけもない。

今食ったのはまちがいなくメシである。

そんなことすらいちいち確認しなければならないほどに、俺の現実と幻覚の境目は曖昧だ。隕石が降るなんて事態が外で発生してるせいもあって、何が現実で何が幻覚やら、本格的に自信が持てなくなりつつある。


しかし、ともあれ、メシは食えた。

俺にブリの煮付けなんていう手のかかる料理が作れるわけがない以上、この料理を作ったのは俺じゃない。

他人がブリの煮付けを作って、俺の母親の声真似をして俺の部屋に持ってくるはずもない。


考える間もなく、俺は部屋を飛び出した。

階段を転げるように駆け下りる。

短い廊下を通ってリビングへ。


そこには、ソファに座って報道特番を見る母親がいた。


「母、さん……?」


思わず声が漏れた。

その声は母親の耳にも届いたはずだが、母親は反応しなかった。

母親は、どこかうつろな瞳で、テレビをぼんやりと眺めている。

俺がひきこもる以前には、母親がこんなふうにテレビを眺めてるのを見たことがあった。


「か、母さん?」


若干強くなった声で、俺が言う。

母親に呼びかける、というほど強い声ではない。

そんなことは、俺にはおそろしくてできないのだ。


母親は、やはり、うつろな目でテレビを眺め続けている。

テレビでは無数の隕石が地球に降り注ぐという異常極まりない事態を放送しているが、母親はそれに驚く様子もない。ちらりと映った隣町・南浅生みなみあそうの惨状にも何の反応も示さなかった。


その様子に不気味さを感じ、俺は思わず声を出す。


「母さん」


俺の声に、母親がゆっくりとこちらを向いた。


「直毅……お盆を下げますね」


母親はちぐはぐなことを言った。

俺が食い終えた食器類を廊下に出しておくと、母親はそれを回収しながらそう言うのだ。


「生きてた、の?」


そう尋ねながら、そんなはずはないと俺は思う。

母親は死んだ。間違いなく息を引き取った。心臓も止まっていた。顔が変色し、死後硬直も始まっていたと思う。死骸の前にまる一日以上いたのだから間違いない。


俺の問いかけに、母親は答えを返さなかった。


「料理を作ってくれたの?」

「今日は……ブリの煮付けです」


俺は台所を覗いてみる。

ガスコンロには鍋が置かれていて、まな板の上には包丁がある。


俺は、母親に目を戻す。

近づいてみると、母親からは酷い臭いがした。

服にさまざまな染みがついている。おそらく、死後、身体の中から出てきてしまう類いの液体の染みだ。

この身体で料理をしたのかと思うと、さっき死に物狂いで食べた料理を吐きそうになった。


「死ん……でる?」

「先に、逝く、から。直毅は、強くて、優しい子。好きに、生きなさい」


母親は、死の直前に言っていたことを繰り返した。

まるで、壊れたラジオか何かのように。


「どういうことだよ……これ!」


俺は頭をかきむしる。

わけがわからない。

死んだはずの母親がどうして生きているのか?

百歩譲って生き返ったとして、どうしてこんな中途半端な状態なのか?

テレビでは世界中に隕石が降り注ぐ様子が中継され、俺の正気にさらなる揺さぶりをかけてくる。


テレビは、さらなる「爆弾」を用意していた。

報道特番のスタジオから、現場のレポーターへと中継が繋がる。

中継先は、湖の前だった。

テロップで「北海道・支笏湖」と表示される。


『現場の蠣崎かきざきさん! 支笏湖にも隕石が落ちたそうですね? 被害のほうはいかがでしょうか?』


スタジオのキャスターが深刻な顔でそう聞いた。


『はい、現場です。隕石はさいわい湖に落ち、直接の被害はありませんでした。ただ……』


現場のレポーターが言葉を濁す。

言っても信じてもらえないのではないか……そんな躊躇いが感じられた。


『実物を見てもらったほうが早いですね。カメラさん、死体を映してください』


『し、死体を? いったい何を――?』


スタジオのキャスターが戸惑うあいだに、カメラが動いた。

カメラは、地面に倒れた人……のようなものを映し出す。

かなり小柄な「人」に見える……その肌が赤黒く、全身が筋張っていて頭髪がなく――その代わりに二本のツノがなければ、だが。

仰向けに倒れた「人」の顔は、目がぎょろりと大きく、頬が張り出していて、大きな唇の隙間から鋭い牙が覗き、耳の先が尖っている。目は、白目が黒く、瞳が黄色い。

「人」は既に死んでいるようで、近くには錆びた剣のようなものが落ちていた。


『こ、これは……? 映画のセットか何かが被害に遭ったということでしょうか?』


スタジオのキャスターが困惑する。

この非常時に映画のセットの損害をテレビに流してどうするのか――そう不審がってるようだ。


『これは映画の特殊メイクでもCGでもありません。現に、支笏湖からこのような小鬼のようなものが現れ、現地では厳戒態勢が取られています。小鬼に斬りつけられ、数人が病院へ搬送され、意識不明の重体となっています』

『はぁ……っ? これが生きていたとおっしゃるのですか?』

『疑うのはもっともです。しかし、他にもすぐに報告は出ると思われます。ウィスパーには他の墜落地点付近でも同様の……小鬼や、別の化け物が見つかった、という報告が既に多数存在します』

『それは……災害に乗じたデマ情報なのでは?』

『私から信じてくれと言ったところでしかたのないことでしょう。ただ、こうして警戒を促すことで、少しでも被害を減らせればと思い――』


中継映像が途中で打ち切られた。

カメラはスタジオに戻り、困惑しきった顔のキャスターが映される。


『……ただいま、事実確認を行なっております。どうか、軽率なご判断はお慎みください』

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