2 現実逃避
母が死んだ。
母は、最期まで母だった。
人間として、俺に恨みがなかったはずがない。
それでも、母は母として死ぬことを選んだ。
恨み言はひと言も漏らさず、救急車すら呼べなかった俺をなじることもなく、最期まで俺を案じて死んでいった。
俺は母の遺骸の前にひざまずき、声を上げて泣いた。
「慟哭」という表現がまさにぴたりと当てはまる号泣だった。
声を上げて泣くのなんて、一体何年ぶりだろうか。
幼児だった頃を除けば、俺はいつも母に「男は泣くな」と叱られ、涙を呑み込んで生きてきた。
母が俺を恨んでいたのと同じように、俺もまた母を恨んでいた。
死に際が綺麗だったからといって、積年の恨みがなくなるわけではない。
なにより、このどうしようもなく詰んだ俺の人生が、いきなりうまく回りはじめるはずもない。
俺はもともと性格が弱かった。母親もまた性格が弱く、そのせいでかえって俺に強くなれと強いる傾向にあった。
外でいじめられ、心をぐしゃぐしゃにして家に帰ると、「おまえは弱い」と言って母親からなじられる。そんなことでは生きていけないと、金切り声で叱られる。
母親が俺に自分のようにならないでほしいと願ってることはわかっていたが、自分にもできないことを同じ血を引く子どもに求められても困るのだ。
俺は、毎年のように過酷ないじめに遭いながら、かろうじて高校を出て就職した。
就職先でも、当然のようにいじめを受けた。
いじめを苦に転職すれば、今度はブラック企業で寝る間もなく働かされた。
俺は、悟らざるをえなかった。
俺は、他人にいじめられやすい性格をしている。
俺の他人に対する態度の中に、他人の攻撃性を刺激するような何かがあるのだ。
そしてそれは、俺がいくら隠そうとしても――いや、隠そうとすれば隠そうとするほどに、隠しようもなく「臭う」らしかった。
俺はそうしてひきこもりになった。
そのことで両親は喧嘩し、離婚した。
俺が成人している以上、離婚した父から「養育費」などもらえるはずもなく、母は一人で苦しい家計を回していた。
母は、誰かに相談すればよかったのだろう。
精神科医なりカウンセラーなりひきこもり支援団体なり、今の世の中相談先はあったはずだ。
だが、母は問題を家の中に抱え続けた。
俺もまた、現実から目を背け、部屋の中へと閉じこもった。
そのまま、数えきれないほどの月日が経った。
「そして、何年もの月日が経った」――フィクションではお決まりの文句だが、ひきこもってからの俺の人生は、まさしくそんな一言で要約できてしまう程度の中身しかない。
今際の際に俺を励まそうとした母の心情を、俺は汲み取るべきなのだろう。
実際、痛いほど身に染みた。
だが、それだけで一念発起できるくらいなら、ヴィンテージ物のひきこもりになどなっていない。
俺は、冷たく硬直した母の遺骸の前で、ただ呆然と一昼夜を過ごした。
今となっては、警察や救急を呼ぶことすら考えられない。
みすみす母が死ぬのを見過ごした俺を、警察はなんと思うだろうか。
電話すらできないなど悪質な嘘だと考え、俺が母を殺したのではないかと疑うのではないか。
裁判にかけられ、法廷で精神的なリンチを受けた挙句、刑務所に入れられるのではないか。
刑務所では看守や他の囚人たちから凄惨ないじめを受けることになるだろう。
では、どうするのか。
俺は、動くことをやめた母を、自分の視界から外すことにした。
俺は階段を上り、自室に戻り、パソコンを起動して、ゲームを始めた。
そういえば、飯も食ってない。
母親が俺の部屋の前に食事を持ってこない以上、俺には食べ物を調達する手段がない。
動物だって、腹が減れば自分で食料を調達する。
それすらできない俺は、野生の鼠にすら劣る退化した生物だった。
いや、生きる意思がない以上、もはや俺は生物とすら言えないだろう。俺は、ただの行き場のない生ゴミだ。それも、生きてるだけで汚物を生産し続ける、とびきりたちの悪い生ゴミだ。
俺は、ひたすらゲームに没頭した。
徐々に視界が狭まり、脳の反応が遅くなる。
あきらかに脳にブドウ糖が足りてない。
それでも人間、刺激があれば凌げるもので、俺の目は画面内のモンスターを睨み、手はコントローラーのボタンを的確に押している。死にかけている母親を前にして119番すら押せなかった指が、きわめてスムーズにコントローラーのボタンを押していく。まるで、119番を押せなかった埋め合わせをするかのように。
俺は、アドレナリンで脳を無理やり燃やし、生ゴミ以下の存在と化した自分の肉体を滅ぼそうとしていた。それは、グロテスクに歪められた即身成仏のようだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
水分が切れてパリパリになった唇を動かし、俺は自分でも知らないうちにつぶやいていた。
そんな自分を、少し離れた高い場所から見下ろすもう一人の自分がいる。
そいつは、とんでもなく無力だった。
生ける
ひょっとしたらこれは夢なのではないか――ふと、そんな妄念が浮かんでくる。
俺は、その妄念にしがみついた。
長きに渡るひきこもり生活で、俺の精神はついに破綻したのではないか?
だから、母親が死ぬなどという「幻覚」を見たのではないか?
そう考えると、すべての
実のところ、百パーセント本気で、その妄念を信じられたわけじゃない。
だが、これがただの妄想だったところでなんだというのか?
この妄念が正しいか否かなど、もはやどうでもいいことだ。
親が死んだ時が、ひきこもりの死ぬ時だ。
どうせ死ぬなら、わざわざ苦痛に満ちた現実を認識する必要などありはしない。
ガチャガチャガチャ――ガチャガチャガチャガチャ――
俺の指がコントローラーの垢じみたボタンを叩く。
普通であれば。
俺はそのまま「終わってた」ことだろう。
「先に逝く」と言った母の後を数日で追いかけ、俺は地獄に落ちていたに違いない。
だが、この世界は、ともすると俺以上に狂っていた。
いきなり、外ですさまじい爆音が
俺の部屋の窓ガラスにひびが走り、内側に向かって弾け飛ぶ。
同時に、椅子から転げ落ちるほどの衝撃が俺を襲う。
地震、という感じじゃない。一発限りの、地面から突き上げられるような強烈な揺れだ。
もとより死にかけだった俺は、自室の床になすすべもなく転がった。
「な、なん……?」
開くたびにひび割れる、乾燥した唇が音を紡ぐ。
十数年ものあいだずっと平穏だった俺の部屋は、今の一撃でぐちゃぐちゃになっていた。
割れた窓ガラスが床に散乱し、本棚が倒れて中身を周囲にぶちまけている。
床に横向きに倒れたテレビが、なんの拍子にかオンになった。
ネットの住人の常として、俺はテレビをもう何年も見ていない。
いや、ネットの住人と言ったが、正確にはそれ以下で、俺は一人でもできるネットゲームしかやっていない。ネット上でも他人と接触するのが怖かったからだ。ニュースや掲示板すら見ることは稀だ。
久しぶりに点いたテレビは、緊急特番をやっているようだった。
『
「……は?」
地球は、天変地異に見舞われていた。
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