第9話
そのザラザラに触れる。
意味を、読み取ろうとする。
三嶋葵がつけたであろう傷。
単なる木の机ではないここに何らかの傷をつけるのは、なかなかに難しい行為だと思う。
ということは、これは何か意味があることなのだ。
それならば、僕はなんとかこの傷に心をあわせたいと思う。
知りたいのだ。三嶋葵を。
失って初めてその存在の重さを知り、僕が彼女にどうしたいと思っていたのかを知った。
僕は知りたかった。
三嶋葵の痛みも苦しみも、そしてその存在そのものの理由を。
カッターでつけられたようなその傷は、ある角度から見ると日の光を受けてその部分だけ歪に浮かび上がる。
傍から見れば不思議な格好で机の前にかがんで目を凝らす。
そこにあったのは、「イキロ」という三文字だった。
イキロ…
生きろ。
これが、三嶋葵のメッセージだというのか?
自らを奮い立たせるための言葉なのだろうか。
それとも、僕に向けられたもの?
ここは、僕と三嶋葵だけの場所だったから。
分からない。分からない。
三嶋葵が。
こんなメッセージを残しながらも逝ってしまった彼女の心が。
混乱する頭で、その傷を撫でる。
何度も何度も。そこに三嶋葵がいるわけでもないのに。
そうすれば三嶋葵がここに現れるのではないか、なんて錯覚しそうなほど、彼女の姿を思い浮かべながら。
生きろ。
そう言った三嶋葵には、もう二度と会えない。
もう二度と。
絶望にも似た気持ちに苛まれる。
改めて感じた彼女の不在はひどく重くて、取り残されたという事実がのしかかる。
それなのに、生きろというのか?
やはりここに来るべきではなかった。
三嶋葵のメッセージを、僕はどう受け止めていいのか分からないから。
のろのろ立ち上がる。
掴んだ机の端が冷たい。
そして、指先に触れる紙の感触。
紙?
机の裏を覗き込むと、そこにはテープではられた四つ折りの白い紙。
刻まれたメッセージだけでなく、これこそが三嶋葵の言葉なのかもしれない。
僕はしゃがみこんで机の裏にもぐり、テープをはがす。
なんの装飾もないノートの一枚。
破ったあとだけがほんの少しギザギザしていて、その無造作な感覚が三嶋葵らしいと思った。
紙を広げると、飛び込んでくる懐かしい文字。
几帳面で角ばっていて。
三嶋葵だ。
ここに、三嶋葵がいる。
安達渓様…紛れもなく僕に宛てた手紙。
たった一言のイキロ、だけでなく、やはり彼女は言葉を遺してくれていたんだ。
ほかでもない僕に向けて。
その事実に、心が震える。
僕はここに書かれている言葉を、しっかり受け止めなければならない。
そっと息を吸い、深く吐く。
僕はこれから、三嶋葵に挑む。
「安達、ありがとう」
まず書かれていた感謝の言葉。
「私の春は、安達と共にあったから。だから、ありがとう。大好きな時間をありがとう」
初めて会った時を思い出す。
お互いぎこちなくて、それでもどこか惹かれあったあの時。
春のひと時を、僕たちは共に過ごした。
ここで。誰からも切り離されたこの場所で。
「この世界は、私には生きにくすぎた。たぶん安達も気づいていたと思うけれど。生きにくさは何も今に始まったことではなく、それはもうまだまだ小さい子供のころから」
ああ、また似ているところを見つけてしまった。キミと僕。二人の空気感。
「友達も作れない、どうにもペースを合わせられない。そんな子が周囲から浮かないはずもなくて。だから私はいつでも一人だった。でも、それがつらかったわけじゃない。一人だったけれど、それに納得してしまっていたから」
全てにおいて達観していたような三嶋葵を思い出す。
彼女は常に、覚悟が決まったような強い目をしていた。
「安達が、自分は逃げてるって言ったときにはっとした。私たちはこんなにも似ていたんだ、って」
そうか。だからこんなにも求め合ったんだ。
僕だけではなく、三嶋葵も。
求め合ったからここに居たんだ。
二人で。誰にも見つからないよう二人で。
「ずっとこれでいいって思ってた。でもだんだん、逃げている自分がイヤになってきた。だって私は安達のように逃げることに罪悪感さえ抱けなかったから。それでもやっぱり逃げるしかなくて、逃げるために本を読んで、逃げきれないツラさに手首を切って」
三嶋葵のその癖を、僕は知っていた。
時折左手首に巻かれていた白い包帯、黒いリストバンド。
明かに自らを傷つけていたであろうそれに、僕は何も言えなかった。
包帯が見えるたび、傷が増えたことに気づくたび、ただただ僕はいつも通りを装って、いつも通りの場所にいた。
「何も言わないでいてくれてありがとう。そのままの私を受け入れてくれてありがとう」
やはり三嶋葵は気づいていた。
僕が彼女のリスカに気づいていたこと。
その上で、何も言わずにいたことを。
彼女はありがとうと言ってくれた。
でも本当にそれでよかったのだろうか。
ありがとう、と言ってもらえるようなことを僕は何か出来たのだろうか。
「最後にひとつ、私のワガママを聞いてほしいんだ」
「生きて」
「安達だけは、ここで生きて」
迷う僕の耳元で、三嶋葵の叫びが聞こえるようだった。
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