我々はいわば二度生まれる ――ルソー (9)

 かすかな窒息感。飲みこみ損ねた林檎のかけらみたいに、息ができる程度に喉を塞ぐ塊。いつしか当たり前になっていたその毒は、気づかぬ間に身体中にまわっていた。

 ――あれ、声って、どうやって出すんだっけ。

 混乱。焦り。困惑。感情の波にさらわれて、速くなった拍動を感じる以外に、何も考えられなかった。

 一夜にして毒虫になった男とは、きっとこんな気持ちだったのだろう。


 茜が外で飲んで帰ってきた夜、彼女のやわらかな二の腕の中で、立川はおかしな夢を見た。

 まだ茜に拾われたばかりの頃。ライブの客寄せだと言い訳をして、破滅的な浮気癖が再発しだした時の話だ。

 茜は確かに彼に衣食住を提供したが、それ以上の関係を求める気はなさそうだった。茜がその手の執心を微塵も示さないことに、立川は少々倦んでいた。あのお高くとまった女の顔が一度でも歪むのを見てみたかった。女遊びに気づいていないわけがないだろうに、茜は取り澄ましているばかり。泳がされているようで面白くない。

「この頃派手に遊んでるのね」

 夕飯時、首元の小さな赤い痣を隠さずにいた彼に、平然とそう言ったことさえある。「悪い子」とくすりと笑っただけで、動揺した様子はまるでなかった。

 彼女は恋人になると言ったのではなく、あくまで後援者パトロンを申し出ただけだ。そこに恋慕が介在しているとは限らない。理性ではそうわかっても、感覚的な部分では腑に落ちなかった。

 歴戦の女たらしにとっては名折れもいいところだった。屈辱的とすら言ってもいい。追いかけられるのには慣れていたからこそ、茜の態度には困惑させられた。だから彼は、ほとんど無意識に、茜を少しでも引き寄せようとしていた。まずは胃袋を掴むことで。次に、他の女たちと戯れることで。実に誠実さとは無縁の思考回路だった。

 ちょっとは妬くかと思っていたのはとんだ誤算だった。これ見よがしに別の女の香りをまとって帰っても、彼女は涼しい顔で自分を出迎える。最初はほんのいたずら心だったのに、立川はどんどんムキになった。その様子がさしずめ、両親の気を引くために悪さをする子どものようだとは、気がついていない。

 ドライな距離感は、トラブルを起こすまでもなく良好に続く。茜はトマトを使った味の濃い洋食が好きらしく、作ってやると屈託なく立川を褒めた。一定以上酒を飲むとびっくりするくらい悪酔いしてぐだぐだになった。とりわけ激務だったらしい日などは、着替えもしないままソファで寝入ろうとする茜を叩きおこし、どうにか化粧を落とさせ、ベッドまで引きずった。

 ある日は、ホテルからそのまま帰ると、茜はもう寝入っているところだった。シャワーも浴びないまま寝床にもぞもぞと潜り込んだ。腕の間から頭を出し、彼女の顔とは反対側を向く。別に他意はない。そうしていると落ち着くからというだけ。

「ん、来たの」

 今日はどこで遊んできたのと言って、猫の毛並みでも撫でるみたいに、茜の手が頭を撫でる。

「……怒んないの?」

「あら、怒ってほしいの?」

 べつに、と身体を丸める立川。おかしな子、と眠そうな声が鼓膜をくすぐる。

「フツーは怒るんじゃないの、知らないけど」

「でもあなたは、いつも私の所に戻って来るでしょう?」

 茜の腕の中で、立川はこちんと固まった。言い様のないきまりの悪さ。布団の中に顔をうずめた。そんな彼の様子など気にも留めない様子で、間もなく穏やかな寝息が背後で聞こえ始めた。


 目が覚めるとベッドは自分ひとりしか残っていなかった。代わりに茜の寝間着が傍に脱ぎ捨てられていた。夢うつつの中で、「行ってくるね」という声を聞いた気もする。穏やかな夢は覚めた時の虚しさのぶん、悪夢の方が幾分かマシに思えた。あの頃はまだ、何も考えずとも喋れたのだ。

 のそりと身体を起こし、祈るような気持ちで、立川は喉に手を添える。喉に力を入れてみるが、ただ空気が吐き出されるだけ。そこには何の摩擦も振動もない。もう何度、これを繰り返したかわからない。

 身体は健康そのものだと医者は言った。つまり精神的なものが由来なのでしょう、と。

「僕は外科医だから詳しいことはわからないけれど、多分これは、あなたの身体なりのヘルプサインなのだと思うよ」

 これを機に少し休んでみたらと言われても、立川の心は取り残されたままだった。退路を断ってまで進んできた道だったから、それが崩れてしまうことなど、少しも考えていなかった。

 無意識にしていたことだからこそ、声を出そうと意識したところで、どうしたらいいのかわからない。声帯は震えない。八つ当たりのようにベッドに倒れ込む。

 わけがわからない。焦れば焦るほど、事態は一歩も前には進まなくなる。

 ショックを受けるとか、自己憐憫に浸るとか、そんなところまで事態を受け入れられなかった。

 何日かしたら治るかもしれないという薄い希望は、目が覚める度に裏切られた。近所の心療内科に出向いたものの、医師は問診票を軽く眺めた後、薬を出しただけだった。薬を飲んでも声は一向に戻らない。

「焦ると逆効果なんじゃない? ちょっと気分転換でもしてみたら」

 あちこち休みなく走り回る立川を見て、茜がそんな悠長なことを言った。「果報は寝て待てって言うし」

 立川は聞く耳を持たなかった。心臓を失ったも同然だった。

 脳外科でもう一度検査をしてもらったが、全てが驚くほど正常だった。

 彼は必死だった。歌わなかったことはあっても、歌えなかったことは今まで一度もなかった。自分から歌を取ってしまったら、残るのは言い訳のしようがないクズだけだ。茜が自分に投資をする理由もなくなるし、今まで築いてきたものも――バンドも――全部水の泡になる。追悼ライブだって立ち消えになるかもしれない。ただでさえ「金曜日のミサ」が瓦解したのに。そんなのはごめんだ。何より申し訳が立たない。自分の意地にどれだけの人を巻き込んできたのか、今更痛感するのが可笑しかった。なんてはた迷惑なヤツなんだろう、俺は。だけど何も失いたくなかった。失うものなど何もないと思っていたのに。

 せっかく上手くいきそうだったのに。歯がゆい気持ちが容赦なく心を苛んだ。資金繰りのために、立川はおよそ十年ぶりに生家に戻った。狩岡からそれとなく聞いていた通り、祖母はまだ健在だった。父親の印税について尋ねると、「久々に帰ってきたと思ったら金の無心かい」と、腰をさすりながら通帳を手渡された。中身はほとんど使われていなかった。

 お金の問題は解決して、あとは準備を着々と進めるだけ。事態は滞りなく進んでいたはずだった。

 何が原因なのかわからない。どうすれば治るのかも。薬のせいで頭がうまく動かない。

 何の手ごたえもない毎日は、いつか路上ライブに固執していたあの時と似ていた。幽霊になっていた毎日。砂を噛むようだとはよく言ったものだ。何を食べても本当に味がしなかった。

 日差しの強さ、青々とした空、アスファルトの熱線。むわっと湿度の高い匂い。日に日に夏が深まっていくのに伴って、立川はどんどん冷静さを欠いていった。

 歌えない。喋ることすらできない。歌も、演技も、かつて自分が縋ったものが、急に手の届かないものになる。ぐらぐらと視界が揺れる。誰かのお喋りや、鼻歌や、些細な音や声が耳について仕方ない。耳鳴りを納めるためにイヤホンを深く押し込む。

『どこにいるの? 早く帰ってらっしゃい』

 茜からのメッセージを通知が告げる。立川は自分のスマホを一瞥し、空虚な気持ちで空を見上げる。

 気づくといつもの場所に来ていた。いつ取り壊されるともしれない、廃ビルの屋上。何十年と雨ざらしの煤けた鉄筋コンクリート。金網の向こうには人が豆粒くらいに見える。

 聞きたい曲があった。操作しようとスマホを見た時、先ほどのメッセージの続きがふと目に入る。

『今日の夕飯は私が腕をふるってあげるから』

 家が小火になるのはごめんだ。立川はすぐに帰ることにした。

 案の定、家では焦げ付いたカレーが待っていた。茜の好きなトマトたっぷりの仕様。出始めた夏野菜が乱雑に入れられているカレーは、何をどうしたらこんな味になるのかと思うような、ひどい有様だった。心なしかギトギトしているし、焦げ付いているくせしてナスも玉ねぎも生煮えだった。所々混ざる黒い焦げの破片が、何とも言えない刺激的なアクセント。

 お嬢さんめ、と立川は心の中で毒づく。オンとオフが激しすぎる反動なのか、彼女にはたまに、妙に粗忽なところがある。しおらしい茜が見られただけでも良しとするか。

 舌が馬鹿になっていて本当によかった。大口を開けてカレーを押し込む。びっくりするくらい目が覚める味だ。もちろん悪い意味で。

「――最近、家に居つかないのね。いつものことだけど」

 さりげなく、とト書きに書いてあるような言い方だった。口が利けないのをいいことに、これ幸いと立川は無視する。

「もしかして、私に捨てられると思った?」

 手が止まる。

 口を利けないのはやっぱり不便だった。いつもは多弁さで押し切れば誤魔化せるものが、一切誤魔化せない。不味いカレーを水で無理やり飲みこむ。

 歌えない自分など、彼女にとっては何の価値もないはずだ。いつ手放されてもおかしくないことは覚悟していた。あり得ないほどすっきりと割り切れた。だって、自分たちを繋いでいたのは、お互いにとっての分かりやすい利害関係だけだ。

 茜はかすかに笑った。なぜだかすごく悲しそうな顔に見えた。

「お馬鹿さん」

 半分以上カレーを残したまま、茜は先に席を立った。残りは全部立川が食べた。


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