語り得ぬものについては沈黙せねばならない ――ヴィトゲンシュタイン (2)

 白石瑠璃が警察から解放される頃には、とっくに夜が明けていた。

 処分は厳重注意。狭く暗い地下で散々待たされた挙句、「はい」「反省しています」と口にするまで決して解放してもらえなかった。

 警官は、自分を“バカなオンナのコ”だと端から見下しているような態度だった。

 惨めさをわざと想起させるような言葉の羅列。しまいには「あんなトコに行って何かされても自業自得なんだよ?」「妊娠とかビョーキとか、気を付けた方がいいんじゃない?」とセクハラまがいのことまで言われた。彼らが自分の身体をじろじろと眺める視線に、鳥肌が立った。

 門限の十二時はとっくに過ぎていた。無断外泊の上、親にもきっと連絡が行っているのだろう。携帯電話にはびっくりするほどの不在着信があった。

 学校にも連絡はされていたようだ。翌朝早く、一睡もしていない状態で、自分の担当講師と学長と親を巻き込んでの面談があった。学長がうんざりした様子だったのは、他にも該当する学生がいたからだろう。顔には疲労と共に苛立ちが滲んでいた。

 一ヶ月の謹慎。春休みいっぱい、学内図書館も練習室も使えない。これが瑠璃に課された処分のすべてだった。

「脱法音楽なんて、うちの学生としてこれほど恥ずかしいことはありませんよ、白石さん」

 蔑むような目。屈辱的な気持ちにさせられるのは、何度味わっても耐え難かった。膝の上でぎゅっと手を結びながら、瑠璃は黙って俯いていた。

 誇りとか伝統とか格式とか、そういう言葉を好んで使うような大学だ。古典クラシック至上主義がそこかしこにはびこり、ポップスをはじめ“今ドキの音楽”を露骨に侮る教師も、決して珍しくない。

 わかりきっていた言葉だったのに、いちいちまともにダメージを受ける自分が情けなかった。

 一番胸に刺さったのは、自分のレッスンを担当していた講師の、この言葉だ。

「現実逃避をする前に、白石さんにはやるべきことがたくさんあったはずでしょう?」

 正論だ。だけど、「金曜日のミサ」で息抜きができるようになってから、少しずつ、以前ほどの演奏のガタつきは収まってきていた。ピアノを放り出したい、やめたい、と瀬戸際で思っていた苦しい気持ちも。

 それなのに、誰よりも自分の演奏を見ているはずの講師に伝わらなかった。

 自分のピアノの腕など所詮その程度だということだ。薄々感づいていただけに、これほど悔しいこともなかった。

「塾も行かせてあげて、ピアノだってあんなにやらせてあげて、高い学費も払って、こんなに自由にさせてあげてるのに、一体何がそんなに不満だったの?」

 帰りの車の中、ハンドルを握る母親に、ため息まじりに言われた。叱ると言うよりは、その声音には困惑が伺えた。心底理解できない、と言うような。

 いつもよりも運転が荒い気がするのは、たぶん気のせいではない。

「いい歳になって先生方にあんなこと言われて、みっともない。そんなことを言われるように育てた私が悪いのかしら」

 瑠璃は返事をしないでいたが、吐き出さずにはいられないとでもいうように、母親は言葉を重ねる。

「お姉ちゃんはこんなことなかったのに」

 いつもの台詞。

 姉と比較されるたびにいつも、お前は失敗作だ、と言われているような気分になる。事実そうなのだろう。姉は成功作で、自分はそうはなれなかった。

 タイミング悪く信号が赤に変わり、母親は深くブレーキを踏む。「ああ、もう、なんなの」

 ぎゅ、とつんのめった拍子に、シートベルトが食い込んだ。普段はあまり車に乗らないから、瑠璃は酔いそうだった。喋る気力もなく、黙って外を見ていた。エンジンの揺れさえ気持ちが悪かった。

「とにかく、あんたの部屋にあるギター、どうにかしなさいよ」

 ベースだ、と訂正する気にもなれなかった。火に油を注ぐとわかっていたし、ベースとギターの違いなど、この人はきっと毛ほどの興味もない。

 目の前の横断歩道を、のろのろと老人と犬が渡っていく。母親はそれを目で追いながら、ほぼ無意識に、ハンドルに置いた人差し指をトントンと叩いていた。

「返事ぐらいしなさいよ。わかった?」

 うん、と小さく頷くと同時に、信号が青に変わる。瑠璃の返事は発進音にかき消された。

「瑠璃!」

「わかってるってば!」

 二十一にもなって、どうしてこんな、反抗期じみた言動をしているのだろう。嫌になる。

「……帰ったら売りにいく。それでいいでしょ」

「ったく、口が減らないんだから。お姉ちゃんはもっと素直だったのに、どうしてこの子は……」

 苛立ちは胸の中でむくむくと膨れていく。いっそ暴れ出せたら、掴みかかれたりしたら、どれほど楽だろう。あるいは、横のドアを開けて、車を飛び出せてしまえたら。

 だけど、そんなことがどれほど無意味かなんて、考えなくてもわかる。自分の中にある一抹の理性、あるいは「感情的で無様な様子を見せたくない」というプライドが、瑠璃の心に歯止めをかけた。

 助手席に頭を預けながら、家を出たい、と思う。初めて思うことではなかった。親と喧嘩をした時、大学生にもなって門限があるのが嫌になった時、瑠璃はたまに、無性に一人暮らしがしたいと思う。

 だけど都会の一人暮らしはお金がかかるし、中古のアップライトピアノは手放すことになるだろう。それに、いくら自分が家を出て暮らしたところで、音大の安くはない学費を払っているのは親だ。

 ――縛られている。

 防音室つきのアパートに住めるレッスン先の別の生徒。「アルバイトをする暇があったら練習しなさい」と、親から多額のお小遣いをもらう同級生。一人暮らしで遊び惚けている高校同期。実家から離れて暮らしている、というだけで、彼らはたまに瑠璃を一方的に見下す。「実家暮らし? いいね、家事とか全部やってもらえるじゃん」「一人暮らししたら、親のありがたみが分かるよ」そのたびに瑠璃は歯がゆくなる。

 家を出たい。だけど自分には、どこにも行く当てがない。門限は十二時。終電を気にしながら参加する飲み会。恋人はおろか、友達の家に泊まることすら、親はいい顔をしない。喫茶店のアルバイトは週に二日、四時間ずつ。たいした金額にはならない。最低限の服や化粧品を買うだけで、引っ越しのためにお金を貯める余裕もなくなる。

 とっくに成人しているはずなのに、自分はまだ無力な子供なのだと思い知らされている気分だ。

 どこに自由があるというのだろう。目が熱くなって、瑠璃はぐっと唇を噛みしめる。泣いたらさらに自分を許せなくなる気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る