アーミーナイト 一時の日常

第88話 記憶がないんだ・・・

「カーラ! 本当に大丈夫なんでしょうね!!」


 グラウンドに空いた大きな穴に視線を向けたまま、アンは赤髪を風で揺らしながら大きな声をあげる。一方で、名指しで呼ばれた彼女は、まだ依然として身体を思うように動かすことは、できないようだ。地面に伏しながら、その問いに対して返答する。


「大丈夫なはずよ! 私の能力を彼が穴に降下してしまう前に付与しておいたから! あれは、『治癒の光』。落下する前に受けた脇腹を貫通する傷は、完治しているはず!」


「じゃあ、なんでとっとと使わないのよ!!」


「あくまであれは切り札なのよ!! それに、光球の対象範囲をまだコントロールできないの。だから、もしあの時使ってたら、悪魔の傷まで回復させてしまってたのよ!」


「大丈夫よね・・・シル・・・」


 アンは、穴の底部に向かって言葉を漏らす。それは、あくまで落下するだけで、返事は浮上してこない。ただ、吸い込まれるように、黒い渦に巻き込まれる。


 大きな衝撃音が聞こえた少し後、グラウンドには誰かの悲鳴が鳴り響いた。もちろん、音源はこの穴の中から。甲高い悲鳴となって舞い降りたが、穴の狭さによりそれは、何度も反響したものでしかなかった。つまり、一つの声が反響を経て混ざり合い、元の音をかき乱してしまったのだ。


「悲鳴が聞こえてから・・・あと少しで3分が経過するわね」


 アンの後方から、声が聞こえてくる。大きな悲鳴から察するに、穴の中で勝敗が決したのは言うまでもないだろう。問題は、どっちが勝利を収めたのか。もし、悪魔なら、アン達は皆殺しだろう。シルもいないし、何よりダメージが大きい。こんな状態で、先ほどまでこの場を支配していた悪魔と一戦交えても、結果は火を見るより明らかだ。


「シル・・・。あなたじゃなければ、皆んな死んじゃうのよ・・・」


 祈るように手を顔の前で合わせる。頭の中で、何度シルがこの穴から浮上してくるシーンを描いているのか分からない。祈りというより、願望に近いそれではあったが、何度思い描いてもシルの身体はであった。


「そういえば・・・。シルに浮遊の能力ってあるのかしら・・?」


「あ・・・」


 ふと思いついた疑問を口にすると、アンとカーラの間に静寂が生まれる。通常、浮遊する能力を持ち合わせるのは、闇の一族だけ。能力として空を自由に駆け回れるものが存在するとは聞いたことはあるが、それはあくまで伝承の中の話だけだ。現代で、その能力を発現したものが現れた話は聞いていない。


「ねぇ、シルの能力ってなんだと思う?」


 アンの問いに、カーラは首をゆっくり傾げる。


「分からないわね・・。剣を槍に変形させているのは確認できたわ。暗唱を用いてね。でも、そんな能力聞いたことないから・・・。本当に、あれが彼の能力だと断定していいのか、私には分からない」


「そうよね・・・って、何か穴の底で光っているわよ!!!」


 アンが穴の中の異変に気がつき、大きな声をグラウンドに響かせる。漆黒に染まり切る闇の中にある、希望にも見える青白い光。それが、気づいた時は蛍の光のような繊細さで光っていたのが、時間が経てば立つほど大きくなり、光度も上げている。


「光がだんだんと強くなっているわ・・・。浮上しているのよ!! 光が!!」


 アンは、カーラの方に視線を送る。だが、カーラはそれを真っ向から否定してみせた。


「私じゃない!! 私の能力じゃあ、その光りの色は出せない!! つまり、それは・・・!!」


「ふぅ〜。死んだかと思ったよ・・・」


「シル・・・!!」


「お? どうしたんだい? やけに、顔に傷があるじゃないか。綺麗な顔が台無しだよ」


「馬鹿・・!!」


 青白い光を放つ槍に乗って、シルが地表に浮かび上がる。無傷な状態のまま浮上したシルは、アンとの他愛のない会話を何度か繰り返した。どれも、昨日の出来事を考えれば、想像できないことだ。まさか、ここまで距離を縮めることができるとは思ってもいなかった。


 遥か後方に飛ばされたバスの付近が何やら騒がしい。どうやら、シルが浮上してきたことを確認した人が、その報告を皆にしているようであった。


「危機は去ったぞ!!!」


「助かったんだ〜!!!」


 そんな声が消えては生まれ、何人にも止められそうにもない渦を呼んでいる。その方向を、シルはチラッと見ると、そのまま視線を地面に伏す女子に向けた。そして、近くまで歩み寄ると、柔らかい物言いと共に、手を差し伸べた。


「この勝負。勝てたのは君の能力のおかげだよ。すばらしい能力だった。おかげで、俺はこの通り無傷。あいつの怪我が治ったと分かった時の驚いた顔を見せてやりたかったよ」


「えぇ・・。あなたに託して本当に良かったわ。本当に・・・命はもうないものだと・・・」


 命の安堵から涙が溢れる。それを、シルは黙って見届けた。命あることに感謝し、涙を流す。普通に生きていれば、それは当たり前のことすぎて誰もが見落としてしまうことだ。でも、こういった異常な状況を乗り越えた時、それが形となって現れる。


「ねぇ、シル。私は? 私も頑張ったんだけど?」


 眉間に皺を寄せながら、アンも二人のところに歩み寄ってくる。唇を露がらせているところを見ると、あまり胸中は穏やかではないらしい。


「いや、アンもすごく頑張ったと思うよ! 手の怪我を押してまで、戦いに協力してくれたんだし。そんなの誰にでもできることじゃないよ!」


「よく気付いたわね・・・私が怪我をしていることに。こっちの手は使わないようにしてたんだけどね。痛そうな表情が顔に出てたかしら?」


「いや? そんなの見れば分かるよ。だって、俺たちは部屋も同じだし、一番過ごしてる時間が長いからね。マシュを除いて、だけど」


 そうやって笑い飛ばすシル。だが、アンは彼が笑っている側で、顔を地面に向けて見せた。同時に、長い赤い髪の毛を手に取り、顔の輪郭に沿って伸ばしている。その様子を見たカーラは、話の間を読み取り、適切なタイミングでシルに声をかけた。


「ところで、どうやって最後はあの悪魔にトドメを刺したんですか? 私たちも頑張ってみたのですが、力及ばずで・・・。できれば、今後のためにご教授で願いたいのですが?」


 いつになく真剣そのものだ。シルは、その雰囲気を感じ取ると、右手を後頭部に回す。そして、伝えるべく言葉を探すため何もない空間に向けて、何度も視線を往来させた。


「実は・・・あんまり覚えてないんだよね・・・。気がついたら穴に落ちてて、悪魔が——死んでたから」


「記憶がないんですか? 戦っていたのに?」


「うん。たまに起きるんだよね。あれかもしれない、戦闘に集中する余り終わってみると記憶がすっぽり抜け落ちてる、みたいな」


「そうなんですか・・・。では、また思い出したら教えてください!」


 カーラがそう言い終わると同時に、三人の上空から大きなプロペラ音が空気を震わせる。そして、それを身に纏う鉄製の大型の車のような車体が、太陽が顔を出し始めたことにより、影となって地表に映し出された。


「迎えが来ましたね・・・。まぁ、こんなに瘴気濃度が上がれば、誰でも気がつきますが」


 カーラがそう呟くと、その大きな機体は影との距離を埋めるべく、段々と地表との距離を縮めてくるのであった。

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