第三十三話 心の内側

 レンが牢より立ち去り、足音が全く聞こえなくなった頃。


「……はぁ」

「お前、いつから起きていた」


 アンナは盛大な溜め息と共に、むくりと身を起こした。


「アンナの怪我を治したのはお前か? から起きていた。全く……吐きそうだ」

「同情するぜ」


 実兄にあんなことを言われては、アンナが蹲るのも無理はない。顔を上げることすらせず、黙ったままエリックに背を向ける。


「お前、怪我……こんなに治してくれたのか」

「お前の為じゃない。俺自身の為だ。全快し次第殺しに行くぞ」

「それでも礼は言わせてくれ、ありがとう」


 痛みを殆ど感じることのない程、アンナの怪我は回復していた。痛むとすれば臍より下──下腹部だった。


「勝手に脱がせたことは詫びる。上だけだがな」

「別に……」

「罵らないんだな。もう少し恥じらいを持ったほうがいいとは思うがな」

「うちの臣下にも同じことを言われたさ」


 数年前までは、臣下の前では肌を曝すことが多かったアンナであるが、二年前──姉のマリーが出産前に話してくれた、あの時からは彼女なりに恥じらいを持って生活をしてきたつもりであった。まさか同じ台詞をこんな男に言われるとは思ってもみなかった。事後であったし、今更恥ずかしがった所で無意味だと割り切り、アンナは平気なフリをする。


「今日はもう体力的に治療は無理だ。明日……下腹部の怪我を治す」

「……悪いな」

「おい、そこの……ルヴィスとか言ったか? 解毒剤は持っていないのか?」


 エリックは牢の外に立つルヴィスに声を掛けるが、彼は「ございません」と短く答えるだけであった。

 

「解毒薬など、こんな所にあるものか……いつも気合で乗り越えている」

「……馬鹿なのか?」

「お前は今すぐ死にたいのか? 父の施す毒は……死にかけた時にしか、解毒薬は貰えねえんだよ。ティリスの回復力の強さでなんとかしろってことらしい」

「揃いも揃って馬鹿ばかりだな」

「余計な世話だ。問題ない……寝ていればなんとななる」


 牢の中の冷たい石の床に、アンナは寝転がった。そのまま目を閉じ、口を噤んだ。この冷たい感覚は久しぶりであった。冷たすぎて全く眠れる気がしないのも相変わらずであった。


「怪我人がそんな寝方をするな」

「ならばどこで寝ろと?」


 この牢の中には本当に何も無いのだ。隅の方に、石壁で隔てられたトイレはあるものの、シャワーやベッドなどあるはずもなく。気持ち程度に毛布が二枚置いてはあるが、無駄に広いだけの牢であった。


「毛布使えよ。ほら」

「今度こそ眠っている間に殺しやしないだろうな? 途中で起こされては治るものも治んねえからな」

「疑い深い奴だな。いいさ、約束する。寝込みは襲わない、これでいいだろ」

「お前を信用する理由がないからな、疑って当然だ。約束するのはお前の勝手だが、破る可能性も高いだろ?」

「面倒くさい奴だな。お前が信じようが信じまいが勝手だが、俺は休ませてもらう」


 毛布を一枚アンナに向かって投げつけると、エリックはもう一枚を広げ、その上に転がった。アンナに背を向けると、腕を組み、ゆっくりと瞼を下ろした。





 毒のせいもあるが、疲れていたのだろう。アンナが目覚めると明かり取りの窓の外は薄暗く、体感的に夜明けなのだろうと予想できた。ルヴィスの姿はなく、牢の外に立っているのはコラーユだったので、日付が変わっているのは明白であった。



(毒は……大丈夫そうだな)



 今回もなんとか気合で乗り切れたなと安堵する。することもなく退屈なので逆立ちをし、腕立て伏せを始めた。上半身の痛みはなくなっていたので、まず手始めに右腕のみで二百回。次に左腕のみで百五十回程行ったところでエリックが目を覚ました。


「お前……何やってる。馬鹿なのか?」

「それしか言えねえのかよ」

「病み上がりきってねえのに普通そんなことするか?」

「退屈なんだよ」

「退屈だからって、血を流しながら筋トレする奴がいるか?」

「血?」


 集中し、気にも留めていなかったが、アンナの下腹部からは僅かに血が滲み出していた。くるりと身を翻し両足で着地すると、エリックに背を向ける。胸元のファスナーを臍の下まで下げると、赤く焼け爛れた箇所から流血しているのが確認できた。


「おい、見せてみろ」

 

 無言で振り向いたアンナは、エリックに言われるがまま黒いライダースーツのファスナーを下ろしきり、足元にストンと落とした。エリックは昨日と同じように治療を開始する。


「触るぞ?」

「……ああ」


 血だらけで、元が何色かなど殆どわからぬ下着を僅かに下にずらす。ここで羞恥心を晒せば、馬鹿にされることは目に見えているので、アンナは平気な態度を貫く他なかった。ものの数分で下腹部の治療は完了し、感嘆の声を上げた。


「助かった、ありがとう」

「さてと……これでお前を殴っても問題ないよな?」


 ヒュッ──とエリックの左拳がアンナの頬を掠める。身を僅かに逸らしてそれを回避すると、アンナは同じように右拳をエリックの胸に打ち込んだ。血を吐いたエリックは、胸を抑えながら後退し、アンナを睨みつけた。


「別に……怪我をしてる時に殴っても問題はなかっただろうが」

「それじゃあ俺の気が済まないんだよ……全快したお前を、全力で殺すだけだ」

「しかしまあ、この場でそれは叶わねえだろ。ここじゃ狭くて神力(ミース)も使えねえ。刀も取り上げられてる。拳だけであたしを殺せるだなんて甘っちょろい考えは捨てるんだな」

「どうかな──!」



 ──ヒュッ、ヒュンッ!!



 右、左となかなかの速度で打ち込まれる拳を後退して躱した後、アンナは身を捩り、エリックの頭部を蹴り飛ばしたと──思ったが、片腕で往なされてしまった。


「ふん!」


 アンナはそのまま床に両手をつくと、身体を斜めに保った後、折っていた両膝をぐんっと伸ばす。両足踵蹴りがエリックの顎に見事に命中した。


「こんなもんじゃねえだろうが! さっさと起きろ!」


 体が浮き上がり、背中から床に落下したエリックの腹に、アンナの肘打ちが入った。胸ぐらを掴んでやろうと近寄ったところで、がばりと起き上がったエリックの頭突きが、アンナの額に見事に的中した。


「いっ……てえな!」

「まだまだ!」


 アンナの胸ぐらを掴み、エリックは再び頭突きを打ち込んだ。──が、アンナも同時に頭突きを打ち込んだ為、二人は強烈な衝突の後、揃って後ろに倒れてしまった。どちらもすぐに起き上がる気配がなく、牢の外に立つコラーユが静かに声を掛けた。


「アンナ様、大丈夫ですか?」

「あぁ……くそ、何だ、こいつ……」


 起き上がったアンナの額からは血が滲む。後頭部がガンガンと痛み、ふらりと倒れてしまいそうになる。が、無理矢理にでも起きねば次の攻撃がすぐに来てしまう。


「……あれ?」


 倒れたままのエリックが起き上がらないのだ。どうやら自分のほうが石頭だったのだなとアンナは喜ぶと、エリックの腹を踏みつけ勝利の拳を握った。



(とどめは……刺す必要はないな。こいつはあたしを殺したくて溜まらないんだろうが、あたしがこいつを殺さなければならない理由などない)



 額の血を拭い、壁に背を預けて目を瞑り、頭痛が治まるのを待つ。頭痛が治まった所で、エリックが目覚めなければ再び筋肉強化をする以外、することがないのだ。


「早く起きろ、クソ野郎が」


 ふと、立場が逆だった場合どうなっていただろうかとアンナは考える。自分がこの牢の中でエリックと殴り合い意識を失えば、彼は間違いなく首を絞めるなり胸を貫くなりして、自分を殺すだろうか、と。



(あたしのことを苦しめて、苦しめて、痛めつけて殺したいんだろうな。ティファラのことは……この口からは話せるわけもない)



 大切なフォードを守る為だ──婚約者のティファラを、アンナが殺したと思いこんでいるエリックにその事実を話すことはきっとないだろう。しかし、ずっとこのままでいいのだろうかとも思ってしまう。父は自分とエリックを結ばせるためにペダーシャルス王国を滅ぼさせたのだ。このまま彼との仲が険悪なまま時が過ぎてゆけば、跡継ぎなど生まれるはずもない。そうなればこの国は終わるのだ。



(フェルが跡を継いでくれねえかな……しかしあの子に父上の怒りの矛先が全て向かうのは……耐えられない)



 同じ髪の色を持って生まれた大切な弟に、自分が父にされていることと同じ苦痛を味合わせる。アンナにとっては、考えただけで胸が痛むことであった。


「…………それならばあたしがこいつと……」


 やはり無理だなと、自嘲気味に笑う。どうしたものかと考えるも、結局はエリックが自分を殺したい気持ちがある以上は無理だなというところに帰結してしまう。



(つまんねえ人生だ……全く)



 ようやく、エリックが意識を取り戻す。殴り合いの再開だなとアンナは口角をあげ、立ち上がった。




 


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