第一節 ◆湖・星の涙/探索

「あ! ベテルギウスさん、ちょっと待ってください!」


 ——碧落一洗。むせ返るような土気が鼻につく叢林の中。

 自分の後ろを着いて来ていた筈のベテルギウスが足を止め、急に屈んだことにスピカは気づいて振り返る。そして彼が凝視したままの足元の物を視認すると、それに触れぬよう注意をして呼び止めた。

「これは植物じゃないんですよ。キノコっていうんです」

「……きのこ?」

「蕾と枝に似た形なので植物に見えなくもないのですが、実はカビやお酒を造る時に必要な酵母と同じ菌類でして……」

 首を傾げるベテルギウスを横に、スピカは楽しそうに目を輝かせた。鼻歌混じりのご機嫌な少女は、地から生えるキノコ——その根元の周りを、小さな短刀で器用に切り掘ってみせる。素早く、慎重に丁寧な慣れた手つきで採取された赤褐色の細長いキノコ。小さな筆で根元の土を優しく払い現れたのは、頭部に続き柄部の先に付属する、昆虫類の幼虫と思しき死骸だった。

「これは冬虫夏草の仲間ですね。昆虫病原菌……昆虫等に寄生する菌類で、意外と街中でも見つけることができるんですよ。このままでは食用にはなりませんが、加工したりすれば生薬や毒にも応用できたりするんです。キノコは毒性の強い種類もありますし、有毒か、また微毒の無害のものか判別できないうちは無闇に素手で触らないようにしてくださいね」

「……なんだ。すぐには食えねえのか」

「食いしん坊さんか、オメーはよ。オラ、とっとと立つ! ごはんは調査のあと!」

 音もなくベテルギウスの背後に立っていたアルテミスは、酷くつまらなそうにして腕をかく彼の頭を軽く小突いた。森の奥へと先頭を進んでいたアルテミスだったが、キノコ採取に和気藹々と勤しむ部下たちに仕方なしと肩を竦めると、彼らの元へ道を戻ってきたのだ。

 “——まあ、ベテルギウスは半天士、その末裔だ。猛毒だろうが、そのまま食ってもそう簡単には死にゃしないだろうが……。“

 そう心中で独り言ち、警戒して木々を見渡してくうちにアルテミスは小さな異常に目をつける。

「——それにしても。……いくらなんでも多すぎやしないか?」

「……キノコがっすか?」

「いや、キノコもだけど——ってベテルギウス。お前、何そんな呑気にキノコばっか採ってんだよ。しかもスピカちゃんまで……!」

 緊張感のかけらも無い空気を嗜めながらも、アルテミスはキノコを抱えた副官両名の姿についに折れた。そしてこれもまた調査のうち……資料として、キノコの数種類を持ち帰ってみるかと許可を出す。

 アルテミスの杞憂のもとたる、周囲の樹木。その枝上には、リスや鶺鴒といった小動物の番いたちが、仲睦まじく濃厚な蜜愛を営んでいた。


 敵性天士の正体を掴むべく、森の探索をすることになった破軍一行。

 アルテミスたちは、敵による攻撃衝動を誘発させる瓦斯を防ぐ鋼鉄のマスク——ユピテルが貸与した防毒マスク型ステラを着用し、勇み足で調査に臨んだ。

 まずアルテミスを列前に、次にスピカ、そして後尾にベテルギウスと縦に並んで道なき道を突き進む。本来ならば長い年月……百年単位で形成されるべきものを、わずか数日で成した未知にして未踏の森。

 ……敵の懐同然の領域へ進入するのだ。

 アルテミスとベテルギウスは、天士由来の回復能力と頑健さを持つ肉体を有している。それを利とし、彼ら二人は敵の前後からの攻撃に備えてさきがけ殿しんがりを。一方でスピカは、俊敏力の高さこそずば抜けているがその身は普通の人間。脚鎧型ステラを装着して進むには、この不安定な足場は不利に陥る。とは言っても、丸腰で行くわけにもいくまい。そのため、スピカはパンドラを用いて彼ら二人の補助に徹するよう、中心に列することに決まったのであった。


 星の涙は、俗に言う隕石湖だ。

 およそ百万年ほど前に隕石型天士・第一降臨者ヘルメスの衝突により誕生したクレーターは、約四ケイトマートほどの直径を持つ巨大湖と化した。かつて衝突以前には、高度な海上文明社会があったとされていた。……だが、今となってはその面影すら残されていない。

 正確な水深は未計測ながら、完全な円形状を有するクレーター。その外縁の標高は二〇〇マートと高いことから、水底はかなりの深さだと予測されている。現在は、巨大湖を覆う森によりすっかり全体細部を確認することは不可能だ。

 しかし、アルテミスたちの前に阻む急な斜面こそ、クレーターの縁。——湖まで、あとわずかであることを証していた。


 ここまでの道程において、悪路以外ほぼ苦なく森での行動が順調だったことにアルテミスは訝しむ。なぜなら、これまでの敵性天士は、用意周到と言っても良い陰湿さと執念深さを感じ入るほどの悪辣な行為を中心としていたからである。勿論、ユピテルから授かり受けたマスク——ステラ・メティスによる防毒効果が働いているとしても。……敵の領域内だというのに、こうも目立った妨害が皆無なのは、彼らにとって拍子抜けそのものだった。

 現に、先程のキノコ採取に気移りしていた副官たちがそうだ。

 “——危機対処能力……? いや、判断能力が鈍くなっているのか。“

 アルテミスの胸中に、焦燥が走る。

「もうかれこれ一時間くらいは経ったぞ? まだ歩かなくちゃあならないの……?」

「ええと、ステラ・パンドラの計測ではあと八〇〇マートほどで南湖畔に出るとのことですが……」

「……ガンバロ!」

 明らかに自分より疲弊しているというのにも拘らず、真面目に主人を支えようとする少女の手前——。喝を入れて拳を上へ突き上げたアルテミスは、スピカに不安を覚えさせまいと気丈に振る舞った。

 皇女ポラリスが身をもって示した注意通りだ。敵の異能も然り。似た景色が延々と続くこの深林内において、確実に一行は集中力すらも削がれていたのである。

 加えて、林外とは異なり気温や湿度も中心部へ進むにつれて一層高くなるばかり。じわじわと汗ばみ、肌にまとわりつく服が鬱陶しい。礫塊の多い道なりも、湿る土のぬかるみも着々とアルテミスたちの体力を奪っていく。

 一息つこうとこまめに水分補給がてら、アルテミスたちが休憩を挟んでいたその時だった。

 彼らのすぐ側に立つ、オオオニグルミの仲間。その大量の木の葉が、勢いよくアルテミスに向かって振りかかる。主人が被った珍事に動じず、ベテルギウスは鋭い眼光で枝を睨め付けた。

「……盛ってやがる」

「どうしてオメーはそうやってすぐ恥ずかしげもなく口に出して言っちゃうのぉ〜?」

 破軍へ木の葉の雨を降らせたものの正体は、一組のリスの番いだった。しかし、よく注視するとそれは一組だけではあらず。森の至る所で、小さな夫婦たちによって頭上で激しく繰り広げられる交媾にアルテミスは苦い顔を浮かべる。口に入った葉片を吐き出して咽せる主人の元へ、顔を赤くしたスピカは手巾を差し出した。

「これだけあたたかければ、まあ……。常夏の気温とはいえ、ども……世は……春、ですし……」

「そうは言っても、やっぱ多すぎんだろうがよ……」

 辺りを注意深く見渡せば見渡すほど、発情する小動物たちが目に入る。森に入った当初ばかりか、なお収まることがないこの状況……。こう頻繁に人目も憚らず見せつけられては、誰であれ気が滅入るのは時間の問題だった。

 ——敵性天士が持する能力故か。……アルテミスが、森の異常性との関与を疑ったのも束の間。

 手巾を受け取ろうとしたアルテミスの前で、突如としてスピカが倒れ込んだのだ。

「スピカ……⁉︎」

「ん……っ! ……っ、あ」

 小さく叫ぶや否や。アルテミスがとっさに掴んだ肩をびくりと痙攣させて、スピカは苦しみ喘ぐ。……わずかながらに発熱しているのか。荒い呼吸に、赤く染まった頬。潤む瞳と汗ばむ額といい、どことなくその吐息はいやに艶やかさを帯びている。

 普段とは異なる少女の様子に、アルテミスは血相を変えて詰め寄った。

「何があった!? まさか天士に、どこか——」

「……っ! だ、だめですぅーっ!」

 ——瞬間。耳を劈くスピカの悲鳴と共に、アルテミスは力任せに突き飛ばされた。

「……エッ⁉︎」

「だめだめだめだめ! だめですったら、だめ……っ‼︎ 私に…私に触らないでください……!」

 アルテミスは硬直していた。自分を慕う部下に——ここまで明確な拒絶を受けたのは初めてだったのだ。その衝撃たるや……城塞と謳われた不沈の破軍も、流石に口を開けて青ざめる。

 一方で我に返ったスピカといえば、自身の非礼に改悛の情を表し慌てふためいた。

「ち、違うんです! アルテミス様! その……今の、私……っ‼︎ あのっ!」

「……うんこか?」

「ベテルギウス、テメエちょっと黙ってろ」

 悄然として放心状態だったアルテミスは、的外れもかくや空気を読まぬベテルギウスを厳しく叱り付けた。一方でベテルギウスはというと、大欠伸を一つして知らぬ顔でそのまま座り込む。殴られた脇腹を摩りながら飛ぶ蝶を目で追いかける様子からは、主人の叱咤もまるで気にも留めていないようだった。

 主人へ釈明の弁を述べようとしたスピカは、赤らめた顔を更に羞恥へ染め上げた。もごつき俯く彼女の指差す先には、交尾真っ只中のリスの番い——。

 ……顔を覆って項垂れた両者の間に、含羞に満ちたぎこちない空気が流れる。気まずさを晴らせぬまま、アルテミスは部下の不幸に同情と煩悶を示した。

「うん……。そりゃそうだよな……。考えてみれば、これだけたくさんの数の生き物がこうなっておいて、真っ当な人間のスピカちゃんが例外なわけないもんね……」

「うう……。申し訳ございません……」

「いや、君が謝るようなことじゃないよ。——そもそも、性的欲求は人間として生きていく上で生理的にあっておかしく無い現象なんだ。だから、君に落ち度は全く無い。勿論、先天・後天的にも出てこない人もいるわけだけど。だが……」

 胸に蟠る危機感。アルテミスは、ざわめく自身の直感、その警告に従うことにした。

「……スピカ。君は一度、ステラ・デメテールを装着して森から脱出しろ」

「……!」

 粛然と諭すアルテミスへ、スピカは悔悟の念に言葉を詰まらせた。

「——お考えあっての判断ならば、破軍のご指示に従います。ですが……」

 そう言い終わらぬうちに、スピカは己れが足手まといになることを悔しがる。

 ——意思に反してうずく自らの下腹部が、大層恨めしかった。

「スピカちゃん」

 優しさをにじませた、黒の双眸が覗き込む。アルテミスは、目を腫らして唇を噛む少女を真っ直ぐに見つめた。

「いいかい? これは、別に君が戦力外になったって意味じゃあないよ。スピカにはこれから別の任務を与えようと思っている。……この森は予想以上に厄介極まりないことこの上ない。どうやら俺たちは、知らず知らずのうちに敵の襲撃に遭っていたようだ」

 ……このままでは、間違いなく三人とも全滅だ。

 体力の枯渇に脱水ときて、遂には精根尽き果て共倒れ。それはアルテミスにとって、何とかしても避けたい最悪の結末のうちの一つだ。

 ——今、スピカはまだ動ける。幸い、ここまでの道中には、大型の肉食動物の生態痕跡は確認されていない。

 屈んだアルテミスは腰鞄から取り出した容器に、先ほど降ってきた土混じりの葉を数枚ほど詰め込んでスピカに手渡した。

「スピカちゃんにはステラ・パンドラをこちらに預け、森の外で待機しているアルテア端末機を通してユピテルに至急救援の要請をしてほしい。……俺のお願い、聞いてもらえるかな」

 行動を起すなら今がその機会だ。敵性天士が人語を解するのか定かではない。しかし、ここで耳を欹てたりといった妨害はないことから、それは明らかだった。

 ……これを逃せば、次はない。

 了承し、ステラ・デメテールで森を脱したスピカを、アルテミスとベテルギウスは見送った。

「さてと。アルテア端末機の駐在地点に着くまで無事に行けることを願うが……。まあ、スピカちゃんなら大丈夫だろ。なあ、ベテルギウス」

 跳躍した翡翠の光が遠くに霞んだ頃、アルテミスは隣に立つベテルギウスへ話しかけた。

 ——しかし。アルテミスのその笑顔は、瞬く間に戦士の峻厳さを取り戻す。

 ……射干玉の瞳が警戒をむけたその先に映る、殺気立つ巨漢の男。


 尋常ならざる様態を晒すベテルギウスの手には、巨大な断頭剣が握られていた。

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