第81話 恐怖

 薄暗く寂れた長い廊下。

 追って来る足音から逃れる為に駆け抜けたその曲がり角。

 突然、目の前を黒い影が遮った。


「ハル!」


 目の前に現れた黒い影。人影。

 その人物は私の名前を口にした。そして目深に被ったフードを外す。フードの下から現れたのは、よく見慣れた赤い髪。目の前に現れたのは、なんとラックだった。


「ラック!?」

「ハル……良かった。無事だったんだね」


 私の姿を見たラックはほっと安堵の息を吐く。そんなラックの姿を見て私は驚愕した。

 目の前に現れたラックの姿。全身が濡れているかのようで、まだらに赤黒く染まっている。全身を染めているものの正体。それは大量の血液のように見えた。


「ラック!どうしたのそれ!?」


 思わずラックに駆け寄った。

 よく見れば、マントはおろか全身がどす黒く血に染まっている。

 それもかなりの……尋常ではない量だ。


「怪我してるの!?」

「俺は怪我なんてしてないよ」


 ラックの姿にうろたえる私。

 しかし、そんな私とは裏腹に当のラックは意外な程に冷静で。ラックは私に落ち着くようにと促した。そして、悪戯っぽくこう続ける。


「俺は大丈夫だよ。どこも怪我なんてしてないし。それに忘れちゃったの?俺は回復魔法が使えるんだよ?」

「あ……そっか……」


 それを聞いて思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。

 確かにラックは、怪我を治癒する魔法、いわゆる『回復魔法』が使えるのだった。つまりラックならば、たとえ怪我を負ったとしても自身で回復する事が出来るのである。


「よ、良かった……」


 思わず安堵の息が溢れた。

 完全見様見真似のピッキングから始まった、いつ終わるともしれない決死の脱走劇。飲み込まれそうな暗闇で颯爽と現れた希望の光。

 だだっ広い建物内にてラックと合流。ようやく気を緩める事が出来た瞬間だった。


「本当に無事で良かったよ」


 私に対し改めてそう述べたラック。

 話によれば、ラックは他の乗組員同様街で情報を集めた後、酒場で飲んだくれているアレンを見つけ、私が居なくなった事を知って、それからずっと私の事を探してくれていたというのだった。


「ごめんなさい、ラック……私が一人でふらふらと出歩いたばっかりにこんな事になって……」


 ラックの話を聞いて、自身の不甲斐なさを痛感する。同時に申し訳ないという気持ちが込み上げてきて、私はラックに対して頭を下げた。


「ハルが謝る必要なんてないよ。悪いのは寧ろ飲んだくれてた船長の方だし」


 項垂れる私に対しラックは笑顔でそう述べた。

 どこへ行ったかも分からない、行方不明となった私をわざわざ一人探しに来てくれた。ラックの優しさが身に染みるようだった。


「この人がハルが言ってた人?」


 目頭が熱くなるような思いでいると、背後からそう声を掛けられる。

 あまりの急展開で存在を忘れかけてしまったが、私に声を掛けたのは共に牢を抜け出したストリークだった。


「ハル、そのコは?」


 ラックもまたストリークの存在に気付き、私にそう問い掛ける。

 私は建物内にて出逢った彼女の事、そして今の現状をラックに手短に説明した。


「なるほどね、状況は分かった」

「ならっ」

「けど、今はそれは出来ない」


 一通り私の話を聞いたラック。

 私はストリークと共に建物内に捕まっているという人達の救助を求めた。

 しかし、その求めに対しラックは首を縦には振らなかった。


「この建物の構造も分からないし、どのくらいの敵がいるのかも分からない。そんな中をハル達を連れて行動するのはとても安全とは言えない」

「………」

「それならば、一旦ハル達だけでもここから逃して俺一人で乗り込んだ方がリスクも少ないうえ、スムーズに事が運ぶと思う。だから、先ずはハル達だけでもここから出る事を優先しよう」


 ラックはそう自身の考えを述べた。

 確かに、ラックの言う事はもっとであり反論の余地などない。

 建物の構造も敵の戦力も不明な中、戦闘の出来ない私やストリークを連れて歩けば、ラックが動きづらくなり、捕らえた人達の解放に支障をきたしてしまう。


「大丈夫だよ。俺が必ずなんとかするから」


 ラックは自身の不甲斐なさに項垂れる私の肩を叩いた。

 結局、私は優しいラックにいつも頼り切りで。戦う事の出来ない私はいつも足手まといになるばかり。自分の身を守る事はおろか、力の無い私では結局何一つ満足に出来はしないのだ。


「見つけたぞ!」


 太い声が背後から響いた。

 振り返り視線を向ければ、そこには褐色の肌をした男が一人、剣を片手に立っていた。おそらくその男は私やストリークを攫った者達の一人。人身売買を行う者の一人だと思われた。


「手間を掛けさせやがって!このクソ餓鬼共が!」


 男は怒りを露わにそう言い放つ。そして剣を振り上げるとこちらに向かって突進して来た。そんな男の真正面。私とストリークの間を素早くすり抜け、ラックが真っ向から向かっていく。

 ラックは小柄な身体を活かし体勢を低くし斬撃を交わす。そして素早く男の懐に入り込み、真下から突き上げるように豪快な肘打ちを喰らわせた。


「野郎……っ!」


 ラックの肘打ちをまともに受け蹌踉めいた男。そこにすかさずラックの素早い蹴りが入る。


「ぐはっ……!」


 男の身体は勢い良く背後の壁に叩きつけられた。


「早くここから出よう!」


 そう言ってラックは私とストリークの方へと僅かに振り返る。

 その刹那。


「野郎……ぶっ殺してやるッ!!」


 まだ意識のあった男が懐から銃を抜いた。

 そしてその銃口は僅かに右に寄り、真っ直ぐに私へと向けられる。

 判断など及ばない一瞬の間。

 銃声が鳴った。

 その瞬間、飜るマントが視界を遮る。


「ラック!!」


 私を庇い、大きく身体を広げたラック。

 男の放った銃弾がラックの身体を撃ち抜いた。



***



 銃声が鳴った。

 翻るマントに包まれるようにラックの身体が倒れ行く。


「ラック!!」


 叫んだ声が虚しく響いた。

 男の放った銃弾が至近距離からラックの身体を撃ち抜いた。


「ラック!ラック!!」


 私は無我夢中でラックの元へと駆け寄ろうとした。

 だが、ラックの左足が一歩、後ろへと下がる。仰け反った身体を支えるようにぐっと床を踏みしめた。撃たれた筈のラックは倒れる事なく、その場に踏み止まったのだった。その刹那。


「え……」


 何が起こったのか分からなかった。

 背中越しでよくは見ないが、突然ラックの身体から翠の光が溢れ出した。

 柔らかな翠色の光は帯を引くように空間を照す。その光はほんの僅かな間閃光を放ち、やがて煙のように跡形もなく消えた。

 コン……ッと小さな音が響く。

 静まり帰った暗い廊下。男が放った銃弾が静かに床に転がり落ちた。


「なっなんだ今のは……っ!?」


 それを言い終わるが早いか。ラックの身体がゆらりと動いた。

 次の瞬間、左足が弾かれたように床を蹴る。

 戦慄が走った。

 一瞬にして視界がまだらな赤に染まる。

 撃たれた筈のラックが手にした短刀で男の首を斬り付けたのだった。


「な……んだと……っ!?」


 鮮血が飛び散り、男の首筋から血飛沫が天井にまで噴き上がる。


「目障りなんだよ。害虫が」


 聞いた事のない低く重い声でそう告げて。

 ラックは刃を返しざま、男の胸へとその短刀を突き刺さした。

 男の胸から大量の血が溢れ出す。耳をつんざくような悲鳴が薄暗い空間にこだました。男の身体がぐしゃりと床に崩れ落ちる。夥しい血が床を濡らした。


 衝撃、だった。

 一瞬の出来事に上手く頭が回らず、ただ目の前の光景に足が竦む。

 普段のラックからは想像も出来ない。低く冷たく投げられた冷酷な言葉。

 男を斬り付けた瞬間に確かに感じた。ぞわぞわと背筋を這い上がるような凍てつく感覚。笑顔の影から顔を覗かせた酷く残酷な剥き出しの“殺意”。恐怖――


「大丈夫かい?ハル?」


 手にした短刀を鞘へと収め、ラックがこちらを振り返る。

 振り返ったラックを見て凍りついた。

 そこにいるのは普段の通りのいつものラック。

 しかし、その姿は頭から爪先までむせ返る程に紅に染まり、生暖かい男の血に濡れていた。


「ハル?」


 立ち尽くした私を不審に思ったのか、ラックはこちらへと歩み寄ろうとした。


「……っ」


 本能、というやつなのだろうか。私は思わず一歩後ろへと後退ってしまう。

 そんな私を見たラックは、僅かに目を見開いて。自身の身体、そして両の手へと視線を落とす。


「……そうだよね」


 消え入りそうな声でそう口にして。


「急いでここから出よう」


 ラックはそのまま踵を返した。


「………」


 目の前で起こった光景が未だに信じられず、私はその場に立ち尽くす。

 捕らえられた建物内。突然目の前に現れたラック。

 その姿はまるで水を被ったかのように濡れていて、全身が赤黒い色に染まっていた。そんなラックを見た私は、ラックが怪我を負ったのだと思っていた。そしてそれを自身で治癒したのだと。

 しかし、ラックは確かに言った。


“どこも怪我はしていない”と。


 だとするのならば……もしかしたら。

 ラックの全身を赤黒く染めていたあの大量の血は、もしかしたらラックのものではなく、全て――斬りつけた相手の返り血、だったのでは。


「ハル」


 不意に肩が叩かれた。同時に高い声に名前を呼ばれ私はようやく我に返る。

 私の肩を叩いたのは、意外な程に落ち着いているストリークだった。


「急いでここを出ないと」


 ストリークは淡々とそう口にして。

 ラックの後を追うように血に濡れた廊下を駆けて行く。

 硬直した足を一歩踏み出して。私もまたストリークの後に続くようにその場を後にしたのだった。



***

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