万葉八番歌を掘り下げろ。

ペリヱ

乞をどう読む、八番歌。

 現存するわが国最古の和歌集である『万葉集』には、「熟田津にきたつに船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎでな」(巻一・八番歌)という和歌が採られていることになっています(中には「漕ぎでな」では字余りだから、「漕ぎな」としようする向きもあるようですが)。

 一部教科書にも採られている、有名な歌です。


 あえて現代日本語にするならば「熟田津(=熟田港)で船乗りしようと月を待っていると、(月は元より)潮(の満ち引き)も(出航に)ぴったりになった。さあ、今まさに漕ぎ出そう」くらいの意味になるかと思います。


 現代人が読み書きするためのいわゆる「漢字かな混じり」の文体で「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と書かれる分には何もおかしいところはありません。――当時の航海術で「夜の航海ってどうなの?」という点に目をつむれば。


 ただこれ、翻訳後の文章なんですよね。「漢字かな混じり文」になっている時点で、作者以外の第三者のフィルターを通して訳された、誰かの主義主張が露骨に加えられた後の文章なんです。

 『万葉集』の原文は、漢字と万葉仮名(要はオール漢字)で書かれていますから。


 じゃあ、原文とされる漢字万葉仮名混じり文(ただし漢字はすべて新字体に改める)で書くとどうなるか。


「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許芸乞菜」


 これが、現行の『万葉集』の「写本上の本当の表記(ただし新資料が発見されればこの限りではない)」ということになります。なんせ、現在作者とされている額田王の直筆は残されていませんし、「彼女の意図した本当の表記」と言うべきものがどうだったかなんて、現行の資料だけでは誰にも分かりませんからね。


 閑話休題はなしをもどして


 今回の本題は「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許芸乞菜」です。

 どう読みましょうか?


にき」=「熟田津に」

船乗ふなのり」=「船乗りせむと」

つきまて」=「月待てば」

しほ」=「潮もかなひぬ」

いま」=「今は漕ぎ」


 ここまでは良いんです。

 順調です。


 問題はラストの「乞菜」。

 これ、何と読みましょう?

 翻訳済の「漢字かな混じり文」に合わせて、

いで」=「でな」?

 それじゃあ字余りになるから、

」=「な」?


 現行の『万葉集』には「乞」の用例(ただし和歌に限る)が「乞菜」を含めて32例あるので、一旦、それらの品詞と読みを見てましょうか。



(??詞)01-0008 今者許芸乞菜=今=今はこぎ乞な

(感動詞)02-0130 乞通来祢=いでかよひ=いで、通ひ来ね

(本動詞)02-0210 乞泣毎=こひなくごとにひ泣くごとに

(本動詞)02-0213 乞哭別=こひなくごとにくごとに

(本動詞)03-0360 浜裏乞者=浜裏はまづとこは=浜づとはば

(本動詞)03-0380 吾波乞嘗=われこひなむ=吾はひなむ

(本動詞)03-0443 神祇乞祷=神祇かみをこひのみ=神を

(終助詞)04-0615 夢所見乞=いめにみえこそ=夢に見えこそ。

(感動詞)04-0660 乞吾君=いであがきみ=いで、が君

(本動詞)05-0892 乞ゝ泣良牟=こひこひなくひ泣くらむ

(本動詞)05-0904 我例乞能米登=こひめど

(代名詞)06-0920 越乞尓=越乞をちこち=をちこちに

(本動詞)07-1097 乞許世山登=こふやま巨勢山こせやま

(代名詞)07-1135 越乞所聞=越乞をちこちきこゆ=をちこち聞こゆ

(本動詞)07-1196 乞者令取=こはせむとらはば取らせむ

(終助詞)07-1211 吾耳見乞=のみみえこそ=吾のみ見えこそ。

(本動詞)08-1534 為乞兒=ためこはむこのはむ兒のため

(本動詞)09-1738 不乞尓=なくこははなくに

(本動詞)10-2023 帯可乞哉=おびべきこふ=帯ふべきや

(終助詞)11-2661 打棄乞=うちすてこそ=打ち棄てこそ。

(終助詞)11-2722 妹尓告乞=いもつげこそ=妹に告げこそ。

(本動詞)11-2768 乞痛鴨=こひいたきかもひ痛きかも

(終助詞)11-2776 妹告乞=いもにつげこそ=妹に告げこそ。

(感動詞)12-2889 乞如何=いで如何いかに=いで、いかに

(終助詞)12-2957 夢尓所見乞=いめみえこそ=夢に見えこそ。

(代名詞)12-2973 越乞兼而=越乞をちこちかね=をちこち兼ねて

(終助詞)12-3024 有跡告乞=ありつげこそ=有りと告げこそ。

(感動詞)12-3154 乞吾駒=いであがこま=いで、が駒

(本動詞)13-3241 難乞祷=かたくこひのみ=難く

(終助詞)13-3284 無在乞常=なくありこそ=無く在りこそ。と

(本動詞)13-3286 神叨曽吾乞=かみあがこふ=神をぞ吾が

(本動詞)17-3898 歌乞和我世=うたこふ=歌ふわが世



 お気づきでしょうか。

「乞菜」を除けば、「ふ」(現代語の「乞う」と意味は同じ、ハ行四段活用の動詞)、「いで(さあ)」(誘ったり促したりする感動詞)、「こそ(~てほしい。~てくれ)」(他者に対する願望の終助詞)の三択にしかならないことに。


 この状況で「(今は)漕ぎ『こ』な」(この「こ」って「こふ」の「こ」? それとも「こそ」の「こ」?)と言い出したのが仙覚せんがく(『万葉集註釈』1269年)であり、「(今は)漕ぎ『こそ』な」と言い出したのが賀茂真淵かものまぶち(『万葉考まんようこう』1760年)であり、「(今は)漕ぎ『いで』な」と言い出したのこそが契沖けいちゅう(『万葉まんよう代匠記だいしょうき』1687年〈初稿本〉)であり、それに追随して翻訳を確定させたのが富士谷ふじたに御杖みつえ(『万葉集まんようしゅうともしび』1822年)であると言われています。

 物の見事にバラバラですね。

 これらに対して「漕ぎ『は』な」と反論したのが梅原うめはらたけし(『さまよえる歌集』1974年)だったそうです。


 そもそも「乞菜」の「」は「未然形接続(=上の語に未然形を強要する語)」の「願望や勧誘の終助詞」ですので、「乞」は「活用のある語(動詞か形容詞か形容動詞か助動詞)」の未然形でなければならないはずです。

 ここで先ほどの三択に戻ってみましょう。

「動詞」以外の選択肢がないことはお分かりでしょうか。

 ちなみにハ行四段動詞の「ふ」は「」に未然形を強要されますから、「は」+「」、つまり文法を重視するならば、願望と勧誘を意味する「はな」としか読めないはずなんです。文法的には。


「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎはな」

「熟田津(=熟田港)で船乗りしようと月を待っていると、(月は元より)潮(の満ち引き)も(出航に)ぴったりになった。さあ、今まさに漕いでおくれ」


 これが「乞はな」バージョンです。

 女帝が「さあお前たち、漕いでおくれよ」という感じ。

 今にも「アラホラサッサー!」ていう返事が返ってきそうな、そんな感じ。


 そもそもこの歌は、歌の直後の注(歌の左側にあるから「左注さちゅう」)によると、「斉明さいめい天皇御製ぎょせい説」(女帝である斉明天皇がお作りになった歌である説)と「哀傷歌(=挽歌=鎮魂歌)説」が紹介されているくらいなので、悲しみの女帝がデンと座って指示だけする感が歌からにじみ出てしまっていたとしても問題ないような気がします。

 ただ、哀傷歌(=挽歌=鎮魂歌)が「アラホラサッサー!」ではいけないような気がしないでもないですが、今回はあくまでも「乞菜」の翻訳だけに限った話ということで、そこは目をつぶっていただけたら幸いです。



 では、「乞」が動詞以外に認められない状況で、どうすれば「乞菜」を「出でな」にできると思います?

 左注も文法もこの際ガン無視で、「『(今は)漕ぎこな』とか何か地味でパッとしないな、もっといい翻訳を捻り出したいな、作り変えたいな」と思ったら、どうしたら良いと思います?

 答えは簡単、感動詞の「いで」の「読み」だけ引っ張って来れば良いんです、品詞はガン無視で。

 そして都合の良いことに、「いで」と読める動詞と言えば「づ」の未然形と連用形の「で」。強要されている未然形を満たせます。

 後は「例外的な用法」だと言い張れば良いんです。

 それをやったのが契沖けいちゅうであり、富士谷ふじたに御杖みつえだったというわけです。

『万葉集』にはちゃんと「出」を「いで」や「で」と読む用例が、数えきれないくらいにあるのにね。


 ちなみにこの八番歌は、「漕ぎ出そう」効果によって「勇壮さ」を盛られたことで、「万葉集屈指の名歌」というスターダムにのし上がっていきます。



 ――え? じゃあ「な」はどこから来るのかって?

 音韻融合で「」に吸収されたか、翻訳後の「でな」だけに注目した挙げ句、「づ」も「」も一緒じゃんとでも思ったか。

 不思議な話ですね。

 その点については、いつごろどなたが言い出したのかが分かったら、加筆修正したいと思います。



 翻訳されて漢字かな混じり文化された和歌に不思議が見当たらなくても、万葉仮名と見比べてみると実は不思議が見つかるよ、というお話でした。

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