聖女になれなくて(ノーレーティング)

明智 颯茄

聖女のバプテスマ

 暗闇。無音。無風。

 自分の輪郭が見えないほどの闇――


 いつの間にか、私は一人そこへ立っていた。


 どうしてこんなことになったのだろう。突然すぎて、理由が思い出せない。さっきまで人が大勢いる、明るい場所に平和で正常にいたのに。


 何もかもが狂ってしまった。息苦しさが死へおとしいれようとする。


 自分へ向けられている。押し潰されそうな憎悪が。刺し殺しそうなたくさんの視線が。


 感じるのに見えない。正体不明。恐怖心は嫌でも膨張し、悲鳴を上げようとしたが、


「っ……」


 重たい鍵がかかる牢屋へ、声は閉じ込められてしまったようだった。


 逃げなければ――


 必死に四肢を動かそうとするが、全てが切断されたように、体はピクリとも動かない。この感覚はあれに似ている。金縛り。


 助けも呼べない。誰もいない。何も見えない。逃げられない。何もかもが……略奪された。


 無力。無残、無情――


 ただあるのは、自分をほふろうとする殺気だけ。四面楚歌。ぐるっとまわりを囲まれていて、抵抗することも叶わず、殺されるのを待つしかない運命。


 何かが鋭利に近づいてきて、思わず目をつむった。その時だった。


「っ」


 誰かが息むのが聞こえて、腕を強く引っ張られたのは――


    *


 ――さざ波のように耳に押し寄せる人々の話し声。軽やかなステップを踏むような食器のぶつかる音。それらで我に返った。


 オレンジ色の温かな明かりの下。白いテーブルクロスの上で、食べかけのパスタとピザがほのかに浮かび上がる。


 感覚が戻った両手には、銀のナイフとフォークの重たさが広がっていた。


 闇に連れて行かれる前に、平和に過ごしていたレストラン。ふたりがけの椅子へ何事もなく戻ってきていた。


 身に覚えがない。さっきの背筋が凍りつくような体験に連れて行かれる原因はどこにもないはず。


 ふと視線を上げる。まわりにいる客の向こう側に広がるのは、都会のライトアップが十分にされた夜の歩道。大きな駅近くのレストラン街。カップルや会社帰りのサラリーマンが行き交う。


 あの中に混じって、いつも眺めていた店内。ずっと来たいと憧れていたが、素通りするだけの日々。


 本当は誰かと一緒に来たかった。だが、愛は破局を迎え、今はもう一人きり。寂しさと虚しさのため息が自然ともれる。力なくナイフとフォークを皿に置こうとすると、真正面から男の声が聞こえてきた。


「――さっきから黙って聞いていれば、いつまでも同じことを考えていて、終わったものは終わりだ。執着していないで諦めろ」


 慌てて視線を手前へ落とすと、料理を挟んだ向こうの席で、組んだ腕にイライラが抑えきれないというように、トントンと指を叩きつけているのが見えた。


 連れなどいない。それどころか、こんな声は聞いたこともない。さっきまで誰も座っていなかった。それなのに誰かいる。


「え……?」


 驚いて顔を見極めようとすると、煙にでも巻かれたように男は消え去った。隣の席で楽しげな会話をしている客も、テキパキと料理を運んでいる従業員も誰も気づいていない。


 人の視線がたくさんある中で、男が姿を消す。ここは魔法が使えるファンタジー世界ではない。しかし、こんなことは自分のまわりではよく起きることで、


「幽霊……だ」


 ざわめきに非日常が混じった――――

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