その2
「ねぇ、あなたは知ってる? 『天使』の言い伝え」
誰かが言う。
それはきっと無垢で、可愛らしい、あどけない少女の声色。
手にした白いコップを机に下ろすと、陶器と木材が擦れ合うようにコトッと少し低めの音が鳴る。
「あったりまえだろ。『天使は終末にやってきて、地上の人々に救いをもたらす』っておとぎ話、ここに来る前からずっと聞かされてきたんだから」
誰かが言う。
それはきっと溌剌とした、穢れを知らない、この世の不条理とは切り離されたように明日を夢見る少年の声でしょう。
少女は再びコップを持ち上げ、口元に傾ける。
ゆっくりとミルクを啜る音が耳に届く。
そしてややあって、二人は笑い合う。
笑い合ったのでしょう。
ああ。
けれど。
彼らの顔は、靄がかかったように何も見えない。
彼らの声は、無機質で抑揚のない、無個性な音の繰り返し。
これが私の見る世界。
これが私の聞く世界。
何も見えないわけじゃない。
色を失くしたわけでもない。
何も聞こえないわけじゃない。
音を失くしたわけでもない。
そこに居るのが人間だとわかっています。
その人間が何かを発していると認識できるのだけど。
ああ。
それでも。
それが誰であるか、識別することは私には許されていないのです。
生まれた時からずっとそれが当たり前で、むしろそれ以外の世界があるのだと知ったのがここに来てからでした。
鏡には顔が映るのが当然で、水面には顔が映るのが当然で、相手の瞳には己の顔が映し出されているのが当然というのは私にとって衝撃でした。
鏡に映っているのはいつ見ても人とも思えぬ得体の知れない何物かで、私自身もそういうものだと認識していたため、背中越しに「鏡に映ったあなたは元気が無さそうだ」と言われた時に、鏡というものは感情を発露する道具なのだとようやく思い至ったほどでした。
この孤児院の院長も、他の大人もみんな顔の見えない大人。
ここにやってきた時に一緒に居た同い年くらいの子供も、すでに入居していた子供たちも同様で。
体の大きさの大小で多少の判別は可能とはいえ、何十人もの人間が出入りする施設ではやはり個々の識別など不可能です。
私には同じ顔と声をした人形が歩き回っているとしか思えませんが、きっと見えないその顔も、その声も本当は個性豊かなのでしょう。
空が毎日色や形を変容しているように、きっと人間も一人ひとり違う生き物なんだと思います。
それを誰かに申し上げたところで完全に理解してもらえるとも思えないので、周りには「目が悪く、耳が聞こえにくい」ということでやり過ごしています。
ええ、不自由なく日々を過ごせているのでこれといった不満はありません。
ありがとう、顔の見えないあなた。
ありがとう、名前しか知らないあなた。
今日も私は生かされています。
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