第6話「あなたと私のいつもと少し違う朝」

 包丁がまな板を叩く音で目が覚めた。


「ん……」


 優は固まった筋肉をほぐすようにぐっと伸びをしてから、周囲を見回した。

 いつもなら愛が肩を揺すって起こしてくれる時間。しかし彼女の姿はなく、調理の音がキッチンの方角から聞こえてきていた。


「(昨日のこともあってなんか顔を見づらいな……)」


 昨日は大人げもなく、愛の胸で泣いてしまった。

 いつも周囲には優しさというお節介を振りまく優だが、他人からああいったように温もりを分け与えられるというのは初めてだった。


――今もまだ、その温もりの残滓がこの胸にある。


 だからこそ、なんだか気恥ずかしい。三十路手前のおっさんが、と笑いたければ笑え。俺は自分が労るはずだった少女に逆に慰められ、こうして安らぎを得ているのだ。


「……とりあえず着替えるか」


 昨日は結局仕事で遅くなり、晩ご飯は各自で摂った。だから、昨日のあれ以来顔を合わせるのは初だ。

 優はいつもの表情を心がけ、寝室のドアを開けた。




「おはよう、姫さん」


 いつも通りの挨拶。その挨拶に愛は手を止め、ブレザーにエプロンを着けた姿で振り返りスカートとセミロングの黒髪を揺らした。

 ペコリと、お辞儀をする。今日のリボンの色は晴れ渡るスカイブルーのリボンだった。

 そうして顔を上げた彼女を見た優は息を呑んだ。


 その笑顔は、今まで見た笑顔の中で一番優しさに満ちた笑顔だった。


「っ!」


 思わず顔を背ける。どうしたんだ新藤優。何を思春期のガキのように胸を高鳴らせている。いつも通りに服を脱いだりセクハラ発言したりしろ、と自分に言い聞かせる。それもどうかと思うが。


「?」


 愛はそんな様子の優にキョトンと首をかしげ、トトトと優に近づき……


 ピタリ


 無防備に優のおでこに手を当て始めた。


「ポゥ!」


 あまり準備のできていない心理状態で接近を許した優は振り払うこともできずにマイケルとなった。


 奇声を上げることはいつものことなので華麗にスルーし、愛は眉根を寄せてうーんと首をかしげる。熱はないみたい。


「い、いや風邪とかじゃない。それより、どうしたんだ今朝は? 俺が起きてから作ってもよかっただろう」


 その言葉でおでこから手を離した愛は、一度キッチンに戻り火を止め、今度は鞄からスケッチブックを取り出した。

 無言でページをめくる少女を見る。どうやら先に書いてきた言葉があるらしい。

 目当てのページがあったのか、あっ、という顔をした後、愛はにこにこしながらこちらにスケッチブックを見せてきた。


『これからは、私が料理を作ります』


 なに?

 訝しむ優に向け、愛はもう一度ページをめくる。


『新藤さんは仕事やお手伝いでお疲れでしょうし、家事の方は任せてください』


「……」


 急にどうしたんだ?

 今までは役割を振ることもなく適当だった。しかも料理だけでなく家事もだと? 一体なぜ……


「いや無理すんなって」


 そう心配する優に、愛はそれも織り込み済みだというようにページをめくる。


『それが今私のしたいことなんです。いけませんか?』

「う……」


 いけなくは、ない。正直すごい助かる。愛が来るまでは、仕事や人助けで忙しくなったときはゼリーで済ませたり、スーツをクリーニングに出すことも億劫な日もあった。

 それに、優は愛の大切な物を取り戻す手伝いをすると決めている。彼女自身が『これをやりたい』と言い始めるのは、本来であれば喜ばしいことだ。愛のやりたいことは、できれば尊重してあげたい。

 だがさすがに全てを彼女に任せるのは大人としての意地があった。

 せめて少しは手伝うと妥協案を出すと、しばらく考えた愛はスケッチブックに『では私が疲れているときはお願いします』と書き足した。

 一体どうしたというのだ。急な献身に、優は心当たりが……いやある。やはり昨日のことだろうか。

 もしかしたら情けない姿を見せたことで呆れられたのかもしれない。いやでも呆れたら普通見放すよなぁ……


「なぁ、急にどうした? なにか理由でもあるのか?」


 いくら考えても答えの出ない問いに優は直接、愛に聞いてみる。


「!」


 愛はなぜか目を輝かせた。待ってましたといわんばかりの勢いでページを再びめくり始める。これも答えが用意してあるのか……?

 なんだか愛の掌の上にいるようで居心地の悪い優はドキドキしながらその沙汰を待つ。

 そしてにこにこする愛が見せてきたページに大きく書かれていた文字は――


『秘密、です♪』

「かわいい」


 いや違うなんで?

 いつも愛を混乱させる側である優は完全に愛の手玉に取られていた。

 そんな愛はしてやったりと、片目を瞑り、指を唇に当てている。かわいい!!!

 混乱する優を優しく見つめた後、愛は調理を再開した。呆然とする優を残して。


「(何か大変なことが起きている……)」


 とりあえず愛がハチャメチャに可愛いのはわかった。しかしその献身の理由は伏せられたままだ。いつの間にこんな小悪魔な女の子になっちゃったのかしら……


 その後、あの手この手で愛の口を割らせようと優は数々の変顔や服装チェンジを繰り返したが、ついぞスルーを決め込む愛には全くと言っていいほど効かないのであった。

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