第11話「あなたの特別」
「(き、来ちゃったんですけどぉ~……?)」
雑踏ひしめく、夕闇に染まったビジネス街に愛はいた。既に夜の帳が落ち始めているというのに、人の歩みは衰えることなく、煌々とした明かりの灯るガラス張りのビルへと吸い込まれていく。
普段立ち寄ることのない異様とも思える光景に愛は圧倒されていた。人にぶつからないようにするのもやっとである。
そして今、愛は周囲のビルより一際高い威容を誇るビルを見上げていた。
「(ここで合ってるよね……?)」
もう一度名刺にある会社の名前と住所を見直す。スマホアプリで表示されたマップもここを示しているし、会社名も……カタカナでなんの会社なのかよくわからないが一致している。
愛は冷や汗を密かに垂らした。まさかこんなに大きい会社だとは思っていなかったのだ。
その巨大さが重圧となってのしかかり、愛の足を重くさせた。教室内でみなぎらせていたエネルギーは完全に霧散していた。
それにまがりなりにもここは社会のために大人たちが汗水垂らして働く場所。自分のような者が押し掛けて邪魔にならないだろうか……
愛は持ち前の遠慮深さを悪い意味で発揮していた。働く大人たちの邪魔にならないかどうか、それを踏まえてそこそこ暗くなる時間に来たのだが、まだまだ活気は衰えそうにない。
とりあえず行き交う人々の邪魔にならないよう端に寄り、ビルの中を観察する。
一階は受付のようで、若い女性を中心にひっきりなしに来るサラリーマンたちの相手を笑顔でしている。
目線を上に向ける。上階も一面ガラス張りで、窓際に人が忙しなく歩いているのが見受けられる。あわよくば彼が通ったりしないかと期待したが、しばらく観察してみてもその気配はなかった。
いよいよ進退窮まり、愛は大きく深呼吸した。大丈夫、イメージトレーニングもしてきたし、ちょっとした質問をするだけなのだから。
そう自分に言い聞かせ、愛はビルの内部へと意を決して入っていく。自動ドアをくぐると、大きく開かれた受付と待ち合い専用の広間が愛を出迎えた。
学生服姿の女の子が入ってきたことが珍しいのか、周囲の目が自分にチラホラ集まっているのを感じ少し耳が熱くなる。早く済ませよう……
受付まで歩く。いくつか窓口がある中で選んだのは、外から観察していた時にあたりをつけておいた比較的優しそうなお姉さんだ。
お姉さんの前に立つと、彼女は物珍しそうにこちらを眺めた後、いけないいけないと小さく首を振り笑みを浮かべて「本日はどういったご用件でしょうか?」と丁寧に問いかけてきた。
愛は予め用意しておいたスケッチブックに書かれた文字を見せる。
『筆談よろしいでしょうか』
「はい、もちろん大丈夫ですよ」
お姉さんは笑顔で対応する。ほっと一息吐き、次のページをめくる。
『こちらに新藤優という方が働いていると聞いたのですが、お呼びしていただいてもよろしいでしょうか?』
このページを見せた途端、なぜかお姉さんは「あ~」と言って得心がいったみたいな顔をした後、「新藤ですね、少々お待ちください」と言ってどこかに電話を掛け始めた。
お姉さんの反応からして彼がここで働いているのは間違いなさそうだった。しかし、さっきの反応はなんだったのだろう……?
考えていると、電話を切ったお姉さんは申し訳なさそうにこちらに頭を下げてきた。
「申し訳ございません。新藤はただいま他県への出張となっております。本日終了予定ではありますがそのまま直帰するということですので、会社には戻らないようです」
なんともタイミングが悪い。彼は現在不在なのだという。じゃあせめて住んでいるところを……と思ったが、さすがにそんな個人情報を教えてくれるわけがないだろう。
肩を落とし、お姉さんに深くお辞儀をしてこの場を後にしようとした時、「ふふっ」と笑い声が聞こえた。顔をあげると、目の前のお姉さんがこちらを見て含み笑いを漏らしていた。
首をかしげると、お姉さんは「あ、ごめんなさい」と呟き、あろうことかこちらに身を寄せて小さな声で話し始めた。
「ね、君もしかして、新藤さんに助けられたクチでしょ」
「!」
驚いた。まさか訪問理由を当てられるとは思っていなかったので動揺する。
その様子を見てお姉さんは「やっぱり」と悪戯っぽく笑みを浮かべた。
どうしてわかったのだろう……疑問が顔に出たのか、お姉さんはなぜか得意気に語り始めた。
「君でね、もう五人目かなぁ今月に入って。多いのよ~?新藤さんにお礼が言いたいからってここに来る人」
「あの人行く先々で人助けしてるからねぇ」と語るお姉さんの話に思わず聞き入る。それに人助けとは、どこかで聞いたような話だ。
「実は私も助けられたクチでね?就職活動がうまくいかなくって、もうどうしよう!明日からニートだー!って頭抱えてしゃがみこんでたときに、いきなり声を掛けられたの。『まだ走り続ける気力はあるか?あるなら俺がゴールを用意してやる』って」
クスクスと笑いながら「最初はなんだこの人って思ったけど」と言うお姉さん。そうして彼の世話になり、ここの受付として働くことになったのだという。語る彼女は楽しそうで、その様子から彼への信頼が伺えた。
そんなお姉さんを見て、愛は胸の中に妙な落胆があるのを感じた。
彼が善行を趣味としているのは知っていた。これまで多くの人に世話を焼いてきたのだろうとは思っていた。
ある種の予想はしていたのだ。彼が以前住んでいたマンションに行った際に出会った隣人の女性。彼女も別れ際に「新藤さんにはいろいろ助けてもらっていたから残念だわ」と呟いていたのだ。
そう、だからきっと、自分も今まで助けてきた人間の内の一人にすぎないのではないかと。自分だけが浮かれていたのではないか、と思い至ったのだ。
彼にとって自分は別に特別でもなんでもなかった。そう考えてしまうと、なんだか妙に心細くなってしまう。あの夜のことが、なんだか遠い情景のように感じる。いまだ喋り続けているお姉さんの話もあまり頭に入ってこな――
「――まぁお世話になっておいてなんだけど、趣味が善行っていうのおかしな話よねぇ、理由もサッパリ教えてくれないし」
「(え……?)」
パッと顔をあげる。理由を知らない……?
「この会社の七不思議に数えられてたりするのよ、誰も知らないの」
今度こそ話が頭に入ってこない。
彼の善行の理由……それは死に別れた大切な人との約束であり、彼が走り続ける道の命題。大切な人がいる場所に辿り着くための遥かなる優しい旅路。あの日の夜、彼から直接聞いたことだ。
それを、誰も知らない……?私だけ……?
――誰も知らない彼の秘密を自分は知っている。
それは橘愛のみに許された彼の大切な宝物だった。つまるところ、橘愛が彼にとっての『特別』であることの証左であった。
その考えに行き着いた瞬間、ポンっと顔が赤くなった。だって、そんなこと……思い付きもしなかった。
さっきは自分が特別ではないと結論したが、その実態は全くの逆。自分はとっくに新藤優の『特別』を貰っていたのだ。
お姉さんが「どうしたの?大丈夫?」と心配そうに覗き込んでくるが、愛は慌ててスケッチブックに『明日また来ます!』と速筆し、逃げるようにビルを後にした。
帰りの駅へと走りながら、愛は赤くなった頬を押さえる。そうしていないと、頬の緩みが押さえきれなかった。
「(私は、あの人にとって『特別』……)」
体温が上昇する。冬だというのに身体も心もポカポカしていた。
その熱は、帰宅し上着を脱いでベッドに倒れ込むまで収まる様子はなかった。クッションを抱いて足をジタバタさせる。なんだか無性に身体を動かしていないと何かが爆発しそうだったのだ。
しかし、すぐに足をピタリと止めて考えにふける。自分が彼からその……多少優遇されているのはわかった。
ではなぜ彼は自分の前から一言もなく姿を消したのか?
正直見当もつかないが、どうやら何か理由あってのことなのだとわかり始めてきた。少なくとも、自分のことを面倒になったとか、そういうことではなさそうだった。
クッションに顔を半分ほど埋め唸っていると――
ピンポーン
と、チャイムの鳴る音が聞こえてきた。
「?」
宅配便が来る予定など聞いていないが、なんだろう。セールスかなにかだろうか。
正直今はそれどころではないので、愛は悪いと思いつつも居留守を決め込むことにした。今は胸の内の熱さに浸っていたい。しかし――
ピンポーン ピンポーン
連続してチャイムが鳴る。しつこい。宗教だろうか。あいにくと神様は両親が交通事故にあってから呪うことにしている。
ピンポーン ピンポーン ピンポーン
なかなかにしつこい人ですね……一体誰――
ピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポ―――
怖い怖い怖い怖い!!!!
なんなの!?と思いつつもこういった奇特な行動をとる人物に最近一人心当たりができていた。ダッシュで玄関に向かいチェーンをはずし勢いよくドアを開け放つ。そこには――
「よう、ピザ○ラ……お届けだ」
あの日の夜の再現のようにスーツを着こなし、片手にパーティサイズのピザの紙パッケージを乗せた男性……新藤優がニヒルな笑みを浮かべて立っていた。
なんなんですかこの人ーーーーー!?
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