セピア色のポートレート

九乃カナ

1 ぼく、萌さんのスパイになる

 外は夏の暑さらしい。日のあたる庭をガラス窓越しに見ると、それだけで暑い気がしてくる。エアコンの効いた室内は快適なはずなのに。

 ほかのスタッフたちが片付けにはいるのを確認して撮影現場のリビングをでる。隣の部屋は大量の荷物が置かれて雑然としていた。

 デジカメをケーブルでノートパソコンに接続する。床の上にすわっての作業で、背を丸めた姿勢になる。首と腰にも負担がかかる。撮影したばかりの画像はどうだろうか。面白い写真があるわけではない。そんなものは期待されていない。失敗ばかりでなければ大丈夫だ。そうはいっても、そこそこの出来かなと思う。確認作業を進める。

「お疲れさま」

 今日の依頼元の社員さんだ。できるだけ愛想よく挨拶する。この社員さんは現場では唯一、スーツを着ている。それだけでかなりの存在感だ。ぼくはノートパソコンをスーツケースに載せて、ディスプレイを社員さんに向ける。社員さんは軽くしゃがんで、興味なさそうに眺める。写真はスライドショーでどんどん送られる。

「現像は。いや、まあいつも通りで」

 ぼくは、この青木さんという社員さんとすでに何度か仕事をしている。特別なことはなしで、いつも通りでよいという指示だと解釈した。

 青木さんは、あとはよろしくという意味で片手をあげて奥に消えた。はいっていった部屋はタレントさんの控室として使われている。スチールのチェックは、シャワーを浴びたタレントさんの着替えが終わるタイミングを見はからうついでだったのだろう。

 ぼくは写真の専門学校に通っていた。卒業と同時に就職して、社会人三年目。若手というか、ヒヨっ子だ。青木さんは、ぼくよりいくつか上みたいだけど、やっぱり若い方だから、年下のぼくのことが使いやすいらしい。よく仕事をまわしてくれる。腕でいったら、ぼくを選ぶ理由は特にない。

 デジカメのデータをパソコンとメモリカードにコピーしてバックアップとする。圧縮しない生データは一枚の容量が大きい。一日でギガ単位のデータになっている。このあとの作業としては、会社に帰って現像、レタッチがある。終われば納品だ。

 撮影していた部屋の片づけが進んでいる。ぼくはカメラバッグとスーツケースに荷物をしまった。青木さんがタレントさんの控室から出てきた。すぐにスーツの内ポケットから電話を取り出して、どこかにかけはじめる。小声で挨拶して頭を下げる。青木さんが電話から口をはなして、「じゃ、また」と言った。後姿を見送る。

 重たいカメラバッグを勢いよく肩にかける。スーツケースの取っ手に手を伸ばす。その手首をつかまれた。手首を引っ張られて、おっとっとというようにステップを踏む。スーツケースが遠ざかってゆく。部屋の隅のほうまで移動させられ、こんどは肩をつかまれた。

「あなた、奥田くん」

「わぁ、萌さんですか。急になんですか。ビックリしましたよ」

 萌さんは、いま撮影を終えたばかりのタレントさんだ。

「青木さんとは、知り合いなの?」

「え?もちろん知ってますよ?いま電話かけながら通りましたけど」

「そうじゃなくて、個人的に親しいかってことです」

「いや、仕事だけです」

 どきどきが落ち着いてきたと思ったら、腕に胸が押し当てられていて、またどきどきしてしまう。

「うそ、食事いったりしてるでしょ?」

「え?よく知ってますね。同じ現場のときは、よくお昼に誘っていただいてます」

「どんなこと話すの?」

「どんなことですか?なんだろ、ぼくが撮影旅行したときの失敗談とかですかね」

「いや、奥田くんの話じゃなくて」

 つかんだぼくの腕をひっぱる。萌さんの顔が、ぼくの顔のすぐ近くにある。つい、目だの鼻だの肌だのをじっと見てしまう。ぼくは、顔のパーツに目がいってしまって、顔全体を見るということがうまくできないタチだ。

「ああ、青木さんがなにを話すかですね。えーと、なんだろ。ぼくの話しかしないみたいです。どんな写真撮りたいんだとか質問してくれるんで、ぼくがそれに答えるみたいな」

「そう。女の子の話はしないの?」

「そりゃ、現場の外でそんな話はまずいでしょ」

「そうじゃなくて、青木さんの知り合いの女の子」

「あー、萌さん、そういう話が知りたいと」

「え?ええ、まあ」

「彼女いないかとか、好きな人がいるんじゃないかとか」

「そ、そうね。うん、そうです」

「すみません、お役に立てなくて。そういう話は一切でてきてないです。ぼくのことも聞いてこないですよ?」

「そうなの。これからも青木さんとよく仕事する予定なんでしょ?」

「たぶん、また近々ご一緒すると思いますけど。ありがたいことです」

「そのときに、ちょっと聞いてみてほしいの。わたしの名前ださずに」

「女性関係のことを」

「はい」

「無理です無理です。ぼく話うまくないですから。急に女の人の話して、なんでそんな話するんだって言われたら、萌さんのこと簡単にゲロっちゃいますし」

「それは、嬉しくないかな。青木さんと個人的に親しい人知りませんか?」

「青木さんの会社の人とか、どうなんですか?」

 萌さんは首をふった。そういえば、会社の人の話を青木さんから聞いたことがない。親しい人いないんだろうか。

「ぼくには心当りないです。すみません」

「ううん、いいの。これ、わたしのプライベートな電話番号。今夜にでも電話してください」

 マネージャーさんに呼ばれて萌さんは行ってしまった。ぼくの手には萌さんの電話番号が書かれているらしいメモが握らされていた。


 帰りにスーパーで買い物をすませてきた。

 買ったものを冷蔵庫と棚にしまう。エビアンをグラスに注いで一口飲む。デスクに置いているパソコンのキーボードをよけて、空いたスペースに食事の用意をする。といっても、弁当を茶碗のご飯と皿のおかずにわけて電子レンジであたためただけの食事だ。

 目の前のディスプレイでツイッターをチェックしながら食事をすませて、コーヒーを沸かす。いれたコーヒーをすすりながらもどって、ズボンのポケットの中身をデスクにだす。レシート、カギ、それに、萌さんからもらったメモだ。電話番号か。コーヒーをすする。レシートを丸めてゴミ箱に放り込む。

 メモの電話番号をケータイに入力してかけてみる。会話以上に電話で話すのは苦手だ。緊張している。椅子の背もたれに上半身をあずけて、しばらく待つ。通話状態になった。

「えっと、スチールカメラの奥田です」

「ありがとう、かけてくれて。すぐに折り返すから、すこし待ってください」

 萌さんの声だった。外を歩いているように感じた。まずは、ダマされたわけじゃなくてよかった。別の人がでるんじゃないかと、ちょっと心配していた。コーヒーをまた一口すすったら、すぐに電話がかかってきた。

「いま、大丈夫なんですか?」

「大丈夫です。帰りで歩いているところ」

「もう暗いのに」

「人通りがあるから大丈夫です。心配してくれてありがとう」

「いえ。それで、現場では話せないことなんですね」

「まあ、そうです」

「まず聞きたいんですけど、青木さんのことが好きなんですか?」

「はい。好きなんです」

「事務所とか、許してくれるんですか」

「お付き合いできるなら、引退しようと思って」

 そんな決意を表明されると、なにも言えなくなってしまう。協力、しなければならないだろうか。ぼくなんかが協力できることがあるんだろうか。

「なんで、ぼくにそんな話をもってくるんですか。まったく適任ではないと思うんですけど」

「ほかに頼れる人がいないの」

 それにしたって、人選ミスとしか思えない。

「あの、ぼく恋愛経験とかぜんぜん豊富じゃないですよ」

「それは、ごめんなさい、わかります」

 ごめんなさいは、失礼なことをいうから先に謝っておく、ということだったみたいだ。

「ぼくはどうしたらいいんでしょう」

「わたしの恋のキューピッドになってください」

 コーヒーが逆流して鼻からたれるかと思った。恋のキューピッド。断ろう。

「萌さん、ぼくには無理です」

「でも、わたしには奥田くんしかいないんです」

 ちがう場面で聞きたいセリフだ。頭がクラクラする。

「キューピッドは勘弁してください。そのかわり、青木さんに会ったとき、どういう話をしたか報告します。それくらいなら、ぼくにもできると思うんですけど、それ以上のことは無理です。情報を聞き出そうとすれば気づかれます。自信があります」

「無理をいってごめんなさい。それでいいです。

 あの、奥田くんは」

「ぼくがなんです?」

「付き合っている人とか、好きな人とかいないんですか?」

「いないです」

「そう、寂しいですね」

「カメラが恋人になっちゃいますね」

「そんなのダメです」

「はあ」

 萌さんのために青木さんをスパイすることになってしまった。

 電話を切ったあと、ツイッターでリツイートしたり、自分でもツイートしたりしながらコーヒーを飲んだ。メールは通販の宣伝やメールマガジンばかりで、タイトルだけ見て削除した。

 食器を片づけて風呂にはいる。

 風呂上がり、バッグからパッケージを取り出す。萌さんの作品だ。パッケージ裏の写真は、ぼくが撮影した。パッケージ写真は、ぼくではなく先輩が撮影したものだ。それで会社に完成品が置いてあって、自由に借りられるようになっている。

 プレーヤとディスプレイをケーブルでつないで入力を切り替える。ディスクをセットすると自動で再生がはじまる。パソコン本体にかけてあるヘッドホンを自分の頭につける。音声はディスプレイ経由でヘッドホンにやってくる。

 萌さんの映像を見ながら今日の撮影を思い出す。スーツを着た青木さんが監督の横で見ていた。萌さんは裸の股を見せつけるように広げて本番を撮影していた。何度もイキまくって絶叫していた。全部を青木さんに見られていたのだ。萌さんの好きな青木さんに。

 電話越しに聞いた萌さんの声、耳元でささやかれているようだった。映像の中で萌さんが同じ声で喘ぎはじめた。興奮が一層高まる。いま見ている作品のときも青木さんが現場にいた気がする。すでに萌さんは青木さんのことが好きだったんだろうか。ぼくはこのとき、ビデオカメラのすぐ近くでスチール写真を撮っていた。騎上位でおっぱいを揺らしながら下から突き上げられている萌さんを見ながら、ぼくはオナニーした。

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