慈悲のエラーコード
三十日 駿
流煙と鳩の羽
いつからか自分は、水槽に飼われている金魚の様なものだと、そう思うようになっていた。
高校生になり
水槽で酸素をエラでもってこし取り、たまに水面に浮かぶ餌を食べてはまた、ゆらゆらと泳ぐだけの、そんな金魚と同じ、ちっぽけな存在だ。かろうじて生きているだけに過ぎない。
シャーペンでもって手の甲を刺し、生きているのかどうか、試してみた。鋭い痛みが信号で伝わり、刹那的に生を実感して即座に失せた。そして死にたいわけではないんだよな、と悪化する前にこの自傷癖を辞めようと思った。教師が正午のチャイムと共に教室を後にした。流れ作業の様に黒板の文字を写し取り、コンビニで買っていたパンを貪る。食事すら楽しくない。惣菜の味や色すら、無味乾燥としている。肉体という器を通して、食事を摂ることによるドーパミンの分泌だの、満腹中枢の刺激だのを永城は辛うじて自覚していた。
その作業のような食事、というより摂取に近い行為を終え、座り呆けていては格好もつかないし、話しかけられても面倒だと、いつものように校内散歩を始めた。何を考えるわけでもなく、ただ学校の雑多とした空気を、焚き火で立ち込めた煙を縫い払うように歩く。時たま立ち止まり、窓から外を眺めてはまた歩き出すただその繰り返しだったが、虚空を見ながら歩いていると、気づけば屋上階への階段まで来てしまっていた。二階層分の階段を歩き、若干の汗ばみを涼ませたいと扉を開ける。屋上らしく風がフェンスを揺らしては網目を抜け鳴いている。深緑の塗装は所々が剥げていて鳩が羽を休めに来ていた。錆びついた扉を閉めた時に、風が一瞬向きを変え運んできた煙草の匂いが鼻についた。先客、それもとりわけ関わりたくないような人種と思ったが、談笑の類は聞こえないばかりか人の気配もしない。あたりをなるべく自然に見回しながら、その煙の出処を辿ろうとすると、それもそのはずだというモノが階段室の上にいた。
しゃがみこんだ青年、そしてその背後を身の丈以上の大きさの翼が、秋空を棚引くように広いでいた。何かの催しか、コスプレかと疑うも、辺りにいる鳩と雰囲気が永城にそうではないことを伝えた。この微風の屋上で、鳩と共に不気味に、神秘的にその空気は静的で、翼に折り重なる羽は限りなく澄み切った白さだ。その白さと静けさは、永城に新雪の飾られた雪原を想起させた。ノイズの様な些末は雪に吸われ、何事も無いように広がり、埋まり、そして景色作る雪原の様だと、確かに感じさせた。
「面倒くさいなあ。何回来るんだよ、キミ」
呆気に取られ、それこそ辺りの鳩のそれに似た、面食らった表情も青年の問によりすぐに正気に戻された。何回、と問われても初対面で、屋上に来たのも初めてだ。初対面とはいえ、理解できないものは理解できない。万が一催しということも、明らかに人ならざるモノへの恐怖ということも含め、なるべく取り繕って問に答えた。
「何回、と言われても、君とは初めてなんだけど」
「……何回も会って、その都度記憶を消してるんだよね。ほら、これ見れば分かるでしょ」
そう言って気だるげに煙草を喫いながら翼を大きく広げた。筋が脈打ち、羽の一枚一枚がそれに連動するように向きを変えた。その挙動が翼と正体、言質まで全てが事実であることを顕示していた。栄城はその表明に確実な畏怖と、僅かな興奮を覚えていた。知らずに記憶を改竄されたという身体的な恐れもあれば、目の前にいる超次元的な物体とそれと会話していることにだ。
「また……消すのか」
面倒臭い、と言うのなら記憶を消さないか、或いは消すものを記憶どころか……。
「いや、もういいや。先生にチクらないなら何してても」
「よかった。存在の方を消されるか、不安だったよ」
青年はむせ返り、煙を吐き出した。それに応じて翼をゆらゆらと揺れる。軽口はどうやら”当たった”……ようで、栄城はその人間味に少し安堵した。
「そんなことしないよ……全く僕を死神かなにかと思ってんの? 声出すのも疲れたからちょっとこっち来てよ、遠くて声が通らないんだよ」
そう言って煙草を右手で握りつぶし、そのまま口に運んだ。それは吸殻を食べたようにも見えた。言われた通り傍に寄るが、階段室の高さは三メートルはあるので、”傍”の意図は鳩と彼がいるその上ではないと勝手に解釈した。
「……いやそこにいて拝むつもり?」
「君と違って翼は無いから、下手から失礼するよ」
少し気だるそうに立ち上がった。まさしく非力な人間はこれだから、という表情で、翼を二三度羽ばたき、飛んだ。否、それは便宜上翼を動かしただけで、宙に浮いたと形容するに近かった。そのまままたしても呆気に取られている永城に近づき、胸倉を掴んだ。当然、制服全てに体重がかかると思ったが、永城も同様に浮いたような感触を得ていた。しかして連れてこられた、屋上の更に上の階段室屋上は人跡が少なく、微かに埃っぽい。
近くで見ると姿は第一印象と違い少し無機質で、超自然的に見えた。顔面、骨格のそれは彫刻の様にしなやかで、制服はおろしたての様に癖もほつれも無い。その上、眼は太陽光を時折淡い金色で反射して光る。しかし、煙草は百円ライターでもって火をつけるようだった。
「ふぅ」
一仕事を終えたように煙を吐いた。
「何を話そう、何か質問ある?」
「ん……ああ、僕に言ってる?」
「そりゃあ君しかいないだろう。目の前にも、この屋上にも。それとも天使は鳩に話しかけると思った?」
質問を求められたことより、”天使”と言ったことに永城はことさら驚いた。
「天使、なのか君は」
「見てのとおり。まあ、正確には少し違うけどね」
「正確には、何になる? 堕天使とか?」
「……まぁそんなところだね。じゃなきゃこっちにはいないよ、普通」
天使はおろか、堕天使も実在していたとは。人間の宗教観も捨てたものではない。宗教には詳しくないが、この宇宙におけるシステムは西洋の類が真実のようだった。
「元々は人間だったのか、それとも天使として生まれたの?」
「生まれか……解らない、今はね。そもそも人間が天使になったとしても覚えていないと思うけど」
「……僕らは死んでもなお人間なのか」
「死んでみれば分かるかもよ。ほら」
そう言って、屋上を囲う柵に顎をクイと向けた。知りたければ死んでみろとは、天使に救いも許しも求めるべきではないようだった。いや、そもそも宗教的に天使がどんな位置づけかも曖昧だけれど。
「天使に死ねと言われるとはね、世も末だよ」
「世も末って、君そんなこの世に期待してる人種じゃないだろう」
驚嘆し、声にならない吐息が出た。と同時に、この構図を改めて知覚する。昼休みに屋上で、天使と談笑している、この奇妙なさまを。それを考えると、返答が浮かんだ。
「まぁ……でも君みたいな、違う人種、と話していると思うと、この世も捨てたものじゃないと思えてくるよ」
「そりゃあよかった。煙草ふかしてるだけで人間に救いを与えられるとはね」
「名前、聞いてもいいかな? あとできればクラスも。同じ二年だよね」
天使は一瞬間を置いた。自身の正体について話すのはまだ乗り気ではないようだった。
「ナタク。三組だから君の隣のクラスだよ」
ナタクはそう言って最後の一吸いをして、煙草の火を床に擦りつけて消した。手ではなく力む指でもって、床に擦り消すさまは、永城に一抹の不安を感じさせ、そして体にまるで力をいれる様子もなく、無重力空間を思わせる動きで立ち上がった。毎度ながら手で支えを作ったりと、それっぽい所作をすれど、目の前で見れば明らかに不自然な動きだ。三メートルの高さを鳩より軽々と着地し、別れを告げる。
「午後、始まるから行くね」
「……また、会えないかな」
「昼は大体ここにいるから。お好きに」
そう言って天使はフェンスから飛び降りた。歓迎されているようで、永城は胸が躍る気持ちだった。突如出くわした怪異は、たった今、フェンスから落ちていった。最早確認するより、現実を受け止め、整理する方に頭がいっぱいだった。徐々に落ち着いていくと、鳩はまばらになっていて、予鈴が鳴ると同時に飛び去った。
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