記憶編

(6) グイグイ来るのは止めなさい

「これはコスプレではありません」


 宙に浮かぶ女性は長谷川ヒロシの正直すぎる感想に動じることなく答えた。エッチな、という修飾については否定しないのかと長谷川ヒロシは思ったが、それは主観的な問題だからかもしれない。


「あの、どうして私の名前を? それに私はあの時……」


 言葉にした瞬間、目に見えない衝撃のような震えが全身を駆け巡った。吹き飛ばされ、叩きつけられた際には、痛みを感じる暇さえなかった。ただ圧倒的な恐怖を身体が覚えている。


「貴方は死んだのです。そして、ここは貴方たちの世界でいうところの『天界』、もしくは『煉獄』と呼ばれる場所です」

「なるほど」


 現実感はないが、夢でもないらしい。周囲を見回すと、フワフワした雲と遥か彼方に地平線があるだけだった。床は湖の水面のようで真っ白な空間を反射している。


「そうすると、これから裁かれるのでしょうか?」


 死んだ人間の前に女神がいて、ここが天国で地獄でもないなら、そういう事になるだろう。長谷川ヒロシは自分の人生を振り返る。凡そ誰かの役に立ったとは言えないが、迷惑をかけた覚えもない。働きもせず、のんべんだらりと暮らしてきた。日本国憲法の義務は果たしていないが、天界のルールではどうなるのか。


「いいえ。貴方の魂の処遇は私の管轄ではありません。私は地球の女神ではないのです」

「どういう意味かよく分かりませんが……」

「すみません。順を追って説明しましょう。まず、私は貴方がいた宇宙とは全く異なる次元の世界を統括しています。そこには貴方がいた惑星とよく似た星が存在し、私はその星の生態系の包括的な維持管理をするのが主な仕事なのです」

「それはまた」


 長谷川ヒロシはどう相槌を打てばよいものか分からなかった。スケールが大きすぎる。これが大掛かりな嘘なら、かなりサイコな露出趣味のコスプレお姉さんがいるという別種の問題が生じるが、それならばまだ本物の女神だという方が信じられそうだ。


「別の次元というのはどういうものですか? 生態系の維持管理と仰られましたが、そうなると各次元の星々を更に統括している存在がいるわけですよね? 地球のような星を管理する目的は何ですか? 仕事ということは、それが神様の社会における利益になるのでしょうか? 具体的にはどういったシステムですか?」

「長谷川ヒロシよ、落ち着くのです。急にグイグイ来るのは止めなさい」


 矢継ぎ早に質問する長谷川ヒロシをたしなめるように、マガリナと名乗る女神は優しい声で言った。


「例えば、貴方は自分が使っているスマートフォンの機能や技術的な仕組みを完璧に一から十まで説明できますか? それと同じことです。あまり私にそういった細かな事柄を聞かないでください。それは私の専門ではありません」


 両掌を突き出すようにして女神マガリナは止まれのポーズを取った。神々の世界にもセクショナリズムが浸透しているようだ。


「と、とにかく、私の仕事は、まぁ、大きな水槽で色々な熱帯魚を飼育することとでも思ってもらえれば結構です」

「あ、その例えで大体理解できました」


 女神がだいぶレベルを落としてくれたので、長谷川ヒロシは素直に頷いた。働きたくない、という断固たる意志を除けば、長谷川ヒロシはそこそこ利発な人間なのである。


「その水槽に、ある時、異物が侵入してしまいました。別世界、つまり隣の水槽から跳ねた生き物が、こちらの水槽に入ってきてしまったのです。そして、不運なことにそれはピラニアのように凶暴な生物でした」

「それは大変だ」


 平和な環境で暮らしていたグッピーたちの世界にピラニアが入ってきてしまえば、水槽はあっと言う間に全滅してしまう。


「排除してしまえば良いのですが、水槽の管理人は水槽に直接手を入れてピラニアを取り除くことができないのです。水槽の中で起きている出来事は、水槽の中で解決しなければなりません」

「そういうルールなんですね」


 何となくだが、その縛りは長谷川ヒロシのに落ちた。地球でも、凄惨な戦争が起きたからといって、空が割れて大きな手が戦車を摘まんで助けてくれたという話は聞いたことがない。


「このままでは水槽がダメになってしまうと思い、私は先輩の女神である地球の女神テラララに相談しました」


 図らずしも自分がいた世界の女神の名前を知ってしまった。そんな気の抜けた名前だったのか。長谷川ヒロシは心の中でそう思ったが、口には出さなかった。それが懸命な判断であるような気がした。


「女神テラララからすれば、私の水槽を助ける義理はありません。女神同士の積極的な相互干渉は推奨されていないのです。しかし、後輩のよしみということもあり、テラララは条件付きの案を提示してくれました」

「条件ですか」

「はい。まず巨大な地球儀にダーツを投げます」

「ダーツ」


 思わず繰り返してしまう。


「イメージが湧きませんか? 所さんの番組でやっているようなやつです」

「いいえ、イメージはできます。というか、所さんの番組をご存じなのですか?」

「女神に知らないことはありません。毎週楽しく拝見しております」


 さっき細かい事について質問するなと言ったばかりではないか、と長谷川ヒロシは思ったが指摘はしなかった。


「そして、そのダーツが刺さった箇所で、刺さった時から数えてほんの少しの間に、もしも浮いてきた魂があったなら、それを私に貸し出そうと言われました。何も浮いて来なければ私の肩を揉め、とも」


 お互いにリスクを定めた上での偶然であれば、直接助けたことにはならないという抜け道なのだろう。女神テラララという先輩なりの優しさが垣間見える。


「魂が浮かぶというのは……」


 恐らく死ぬという意味だ。長谷川ヒロシの言葉の続きを、女神マガリナは笑顔で返した。


「あの事故は、貴方にとって不運でしたが、私にとっては幸運でした。これで安心だと喜んだものです」


 不謹慎な気はしたが、女神の死生観などそんなものなのだろう。長谷川ヒロシは何とも思わない。むしろ、そんな偶然で今ここに立っているのかと感心した。


「つまり、私はピラニア駆除のために呼び出されたというわけですね」

「理解が早くて助かります。貴方には女神の加護を与え、こちらの世界の住人の100倍ものスピードで技術などを習得できるようにしておきます。シミュレーション上では、1年もあれば撃退に十分な力を得ることができるはずです」

「修練が必要なのですか。加護というものがあるなら、いきなり最強の状態にして送り込んでもらえれば解決も早いのでは?」

「力を与えすぎると、それだけ世界に投げ入れた時の歪みも大きいのです。なので、まず世界に入れて、中で成長してもらいます」


 そういうものらしい。システム的な部分への質問は『細かな事側』の範疇に入りそうなので、長谷川ヒロシは素直に従うことにする。


「ピラニアは、こちらの世界では魔王と呼ばれています。本来ならば存在しないはずの生き物――魔物を生み出し、生態系に悪影響を与えているのです。長谷川ヒロシよ、どうか私の世界を救うため力を貸してください」


 女神マガリナは静かに頭を下げた。女神直々にそのようなことをされては恐縮する。長谷川ヒロシは生来面倒臭がりな男である。責任感はなく、義務というものを嫌悪している。しかし、美人の頼み事には弱い方であった。


「まぁ、この状況では断りようもないですし」


 嫌だと言ったところで帰り方も分からないのだ。生殺与奪は文字通り女神に握られている。


「分かりました。お力になれるなら、なるべくやってみます」

「ありがとう、長谷川ヒロシよ。貴方が魔王を倒したあかつきには、女神像の前で私を呼んでください。節目毎には、私も貴方にお告げという形で助言を与え、貴方の冒険を手助けしますので」

「その魔王とやらを倒した後、私はどうなるのですか?」

「それは貴方の自由です。こちらの世界が気に入れば、肉体が寿命を迎えるまで住んでいただいて構いません。帰りたいのであれば、網ですくって女神テラララへ返します」


 ピラニアは取り除けないが、自分で入れたものは良いらしい。天界のルールも複雑なようだ。


「地球に一から転生することになるので、私が女神テラララにお願いして、お好きなボーナスを付けて差し上げましょう」

「もう一つ」長谷川ヒロシは小さく手を挙げる。「私が女神様の加護を受けて魔王を倒した後で、力に溺れて新たなピラニアのようになってしまった場合はどのようになさるおつもりですか?」


 それは長谷川ヒロシがRPGをプレイした際、漠然と抱いていた疑問だった。世界を滅ぼしかねない存在は、正義の御旗の下で勇者という絶対的暴力に捻じ伏せられてしまう。凱旋すれば王様は喜び、街は総出で祝福し、世界は平和になってゲームは終わる。だが、その後は? 世界を個人で破壊しうる存在は、ある意味で魔王以上に平穏を害するのではないだろうか。なにせ、もう誰も勇者には逆らえないのだから。


「その時は」女神マガリナは小首を傾げ、小さく微笑む。「その時です」

「そんな」長谷川ヒロシは驚いた。管理者がそんないい加減な事でいいのか。

「私は心配していません、長谷川ヒロシよ。今こうして、貴方と話したことで、それは無用な心配だと確信しています。貴方が力に溺れる可能性が絶対にないとは言えませんが、そうなったらそうなったで、新しい何かを水槽に入れるだけですし」


 さらりと恐ろしいことを女神が口にした。

 世界の敵を打ち倒し、今度は自分が世界の敵となってしまえば、更にそれを倒すために力を付与された勇者が送り込まれてくる。そんな上塗りの解決を繰り返しているから、世界が平和にならないのではないか。


 女神マガリナの運営手腕に若干の疑念が芽生えた長谷川ヒロシであったが、本人を前にして批判する勇気はない。


「魔王はカゴシ山という険しい山脈の中に現れ、そこを拠点に城を建て、魔物をばら撒いています」

「なるほど、居場所は分かっているのですね」

「その通りです。世界を巡り各地を救いながら冒険を続ければ、女神の加護によりグングン力をつけることができるでしょう。そうして十分に準備が整ってから、魔王の城へ攻め込むのです。くれぐれも、いきなり向かってはなりませんよ。転移直後の貴方では返り討ちにされてしまいます」

「分かりました、十分に注意して臨みます」

「素晴らしい返事です、長谷川ヒロシよ。あぁ、それと、貴方の名前はこちらの世界では発音が難しいので、転移後はヒロシィと名乗るのが良いでしょう。貴方は、魔王城から遠く離れた田舎の生まれという設定です。それでは、歴史の教科書の4ページを開いてください」

「え、教科書?」


 いつの間にか長谷川ヒロシの目の前には、懐かしき高校時代の教室で見かけた机と椅子があった。机の上には歴史・社会・一般教養と書かれた本が並んでいる。


「いくらなんでも全くの事前学習なしに転移させてしまっては、こちらの世界の住人に怪しまれますから、最低限の知識を授けた後で転移してもらいます。各教科、テストで95点以上を取ったら合格としましょう」


 嬉々とした表情で教科書を片手に開く女神マガリナを見上げながら、長谷川ヒロシこと勇者ヒロシィは教師に意見を述べる時を思い出し、手を挙げて言った。


「やっぱり止めていいですか?」

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