第14話 エンドレス・パス
「やあ、どうだい?」
「さあ、どうでしょう」
「なんだい、それは」
「ああ、悪くないってことで」
「なあ、それでいいのかい?」
「いったい何がです?」
「挨拶くらいできないのか」
「はあ?」
「君は挨拶もろくにできないのか」
「お言葉ですが、監督。今はそんなことをしている場合じゃありません」
「そんなことだと?」
「はい」
「やはり、君はわかっていないようだな」
「何がわかってないんですか」
「一番大事なことが、君はわかっていない」
「ゴールの他に何かありましたか? ないと思いますけど」
「挨拶だ! 一番大事なのは挨拶だ」
「はあ。それは一般社会の話ですか。それとも試合の中?」
「そうか。君はそうして試合とそれ以外の世界を分けて考えるんだな」
「当然でしょう。試合に入ったらボールとゴールのことだけを考える。他のことを考える余裕なんてありません。僕は今、それだけに集中しているんです」
「我々の使う言葉の半分以上は挨拶と言える。すべては挨拶に始まり、挨拶に終わるのだ」
「そういうもんですかね」
「おはようで目覚め、おやすみで目を閉じるのだ」
「はあ、そうですか」
「はじめましてで出会い、さようならでお別れするのだ」
「何か寂しくなってきますね」
「その間に人と人の時間がある」
「はあ」
「挨拶を侮ったり、馬鹿にしてはならん」
「馬鹿になんてしてません」
「だから、もっと顔を出せ」
「どこに出すんです?」
「人と人の間だよ。間、間に顔を出して、呼ぶのだ」
「敵の間ですね」
「顔を出し、声を出して、呼びかけねばならない。こっちだよ。ここにいるよ。ここに出してくれよ。こんにちは」
「もっと動いて、パスを呼び込めということですね」
「そうだ。待っているだけでは駄目だ。自分から求めなければ」
「コミュニケーションを取れと言うんですね」
「その通りだ! それが私の言う挨拶だ。そして、パスを受けたら、また返してやる」
「せっかく受けたのに? まずはドリブルを考えなければ」
「ベストの選択をすることが重要だ。言い換えれば、最もゴールに近い選択をすることだ」
「例えばゴールに向かって突き進むことですね」
「君がいくら全力で走ったところで、ヒョウほど速くは走れないだろう。だが、パスは」
「ヒョウを超えると?」
「そうだ。出し方によっては、パスはヒョウよりも速い」
「強いパスはヒョウに勝つのですね」
「味方を信じて返すことだ」
「信頼のパスですか」
「パスとは挨拶そのものだ」
「また挨拶ですか?」
「人と人をつなぐのがパスだからだ。やあ。こんにちは。お元気ですか。僕は元気です。こっちだよ。ありがとう。いえいえ。こちらこそ。じゃあね。またね」
「言葉のようにつなぐということですね」
「挨拶はいくらしてもいいのだ。日に何度してもいいし、同じ言葉を何度繰り返してもいいのだ。こんにちは。こんにちは。こんにちは。こんにちは……」
「おかしくなりませんか。変に思われませんかね」
「心配は無用だ。挨拶されて、腹を立てる人がいるかね。君はどうだ?」
「まあ、別に。嫌ではありませんが」
「そうだろう。されなくて不機嫌になることは多いがね」
「はい」
「信じて返せば同じように返ってくる。返せば返されるだ」
「格言みたいですね」
「目覚めた時におはようのある暮らしがどれほど幸福なものか」
「テレビをつければ、おはようばかり聞こえてきますけどね」
「自分がそこにいることがわかる。生きているということが理解できる」
「言わなくてもわかると思いますが」
「強がりではないかな」
「強がり?」
「人間はそんなに強いものだろうか。二本の足で立ち、一息毎に吸ったり吐いたりを繰り返している。不安定なことにな」
「そうですかね」
「とても不安だ。常に確かめねばならないほどに、みんな不安で仕方がない」
「不安定が不安になるんですかね」
「だからパスを出し合わなければ。お元気ですか。こんにちは。大丈夫ですか。生きていますか。元気ですか。声が届いたら応えてください」
「まあ、元気がなければこのピッチには立てませんけどね」
「ハロー。調子はどう。一つ一つの言葉にはそれほど意味はないようにも思える。だが、すべての言葉に意味はあるのだ」
「言葉としては、ほとんど意味なんてないのでは?」
「表面だけを追ってはならない。言葉の意味以上に意味があることもあるのだ」
「言葉の外に意味があるんですか?」
「言葉は一つの道具にすぎない。言葉が行き交う間に様々なことが起きているということだ」
「パス交換の間に?」
「ハローをはなす。ハローが届く。ハローに触れる。ハローをかえす。ハロー・ボールが動く。それを繰り返す」
「パスが回る時間は悪くはないですね。ゲームを支配している気分になります」
「そうだ。自分たちだけでボールを回していれば、少なくとも失点の可能性はない」
「ずっとそれが可能ならですね」
「百パーセント保持し続ければ、完全な支配者となるだろう」
「絵空事ですね」
「どうかな」
「火を見るよりも明らかなことです」
「それほどかね?」
「それ以上です」
「火は人参やじゃが芋を煮込むことができる。では、パスは何を作り出すだろう?」
「リズムですか」
「もっと大きな」
「時間ですか」
「そうだ。パスは時の粒なのだ。パスはボールウォッチャーを作る。人も猫も見る者すべての視線が引き寄せられてしまう。その中には敵も含まれる。流れるパスの中では、みんな時の傍観者になってしまう」
「そうなるとゴールを狙うチャンスですね。そうならないようにも気をつけないと」
「わかっていても習性に逆らうことは難しい。おかしくも恐ろしくもある習性だ」
「行ったり来たり、行ったり戻ったり、ぐるぐると回ったり……。何がそんなに引きつけるんでしょうね。ただボールが動いているだけなのに」
「ライブだからだよ」
「当たり前じゃないですか。今、まさに僕らはサッカーをしているわけだから」
「そう、まさにそこなのだ。今という時間を見つめること。それが生きていることの証明になる」
「そんな証明が必要でしょうか」
「そして共に生きている時間に対して共感を抱くのだ」
「敵のチームは共感している場合ではないでしょう」
「わかっていても、心のどこかで抱く共感を打ち消すことは難しい。勝敗を超えた性がそこにあるからだ」
「どこにあるんですか?」
「単純な仕草で時を埋めていく。それがすべての人の営みというわけさ」
「そんなものでしょうか」
「わからないかね。それとも何か不満かね?」
「よくわかりません。だんだんと、色々と……」
「時間も時間だ。君もそろそろ疲れていることだろう」
「僕はまだまだ走れますよ」
「果たしてそうかな」
「うそだとでも?」
「自分では疲れていないと思っても、体の方はそうではないことがあると言っているんだ」
「そうですかね」
「ドリブルに偏っていないで、パスの輪を広げてみてはどうかね」
「ハロー・パスですか?」
「色んな言葉があれば相手は読みにくくなる。そうすれば君のドリブルはもっと生きるようになるだろう。じゃんけんだよ」
「じゃんけん?」
「晴れ、雨、曇り。晴れ時々曇り、ところにより一時雨」
「天気予報ですか?」
「雨しかないなら傘を持っていればいい。それはドリブルしかないドリブルだ」
「僕が?」
「しかないというのはとても止めやすいんだよ」
「僕には右も左もあります。シザーズもあるしルーレットもあります。もっと他にとっておきの奴もあります」
「足下に偏ってはならん。もっともっと広く見なければ」
「できればずっとキープしていたいです」
「ボールがそれほど好きか?」
「自分くらいに好きです」
「だったら自分から離してみることだ」
「なぜです?」
「離れてみればどれだけ必要だったかわかるだろう」
「離れなくてもわかっています。そんな必要はありません」
「離れている間に、もっと自身に問いかけるだろう」
「問わなくても、もうわかっているんです」
「巡り巡ってもう一度触れた時、愛はより深まっているはずだ」
「これ以上に深まることなんてあるんでしょうか」
「いずれにせよ、ずっと足下に置いておくことを世界が許さないだろう」
「それは僕のスキルが足りないせいです」
「それだけではない。君はボールを預けなければならない。そして君自身も変わらねばならない。動いて行かねばならない」
「ワンツー・パスを受けろと言っているんですか?」
「そうだ。それはドリブルではないのかね?」
「上手くいけば、ドリブルに戻れるでしょう」
「それは同じことなのだよ。ドリブルも、パスも、同じようにボールを運ぶための手段なのだよ」
「同じですか?」
「みんなつながっているのだよ。一つだけ、あるいは一人だけが孤立することなどできないのだ」
「パスもみんなで運ぶドリブルだと言うことですか?」
「コーヒー・タイム! 君もどうかね?」
「僕が口にできるのは水だけですよ。それだって、プレーが途切れた時にしか許されない」
「私だってコーヒーをじっくり味わう余裕なんてないさ」
「そうあってほしいですね。ここは戦場なんです」
「私も最初はコーヒーなんて飲めなかった。子供の頃は」
「子供の時はだいたいみんなそうでしょう」
「君がそうだったからそう言うのでは?」
「そうですかね」
「それで今はどうなのだ?」
「まあ、嗜む程度には」
「最初の一口は苦く感じられるものだ」
「子供は顔をしかめるほどに」
「だが、ある時、人は気づく」
「……」
「苦みもある意味必要であることに」
「ある意味?」
「いつの間にか苦みを欲している自分がいて、一口一口繰り返して受け入れている内に」
「内に……」
「苦みは笑みへと変わるのだ」
「薄気味悪いですね」
「大きな進歩と呼ぶこともできるだろう」
「進歩ですか」
「唇は触れ、唇は離れ、同じような仕草を繰り返しながら進んで行くのだ」
「いったいどこへです?」
「空に向けて」
「それでどうなるのです?」
「カップの底が現れる」
「まあ、そうでしょうね」
「それがコーヒーを飲むということだよ」
「それが何だと言うのです?」
「何だとは何だね」
「僕たちにとって重要なのは、コーヒーでもコーヒーカップでもありません」
「勿論そうだろう。もっと野心的なカップが必要だ」
「はい。もっと大きなカップを掲げなければなりません」
「その通り! 聞こえるか? あのチャントが聞こえるか?」
「聞こえます。ずっと同じ節を繰り返している」
「彼らも同じカップを望んでいるようだな。だから執拗に繰り返すことができるのだ」
「僕らには大きな力になります」
「繰り返すのは愛だ。彼らの歌声は、まるでパス回しに加わっているかのようだ」
「確かに良いリズムに乗っています」
「面白いようにパスが回っている」
「はい。今はチームがいい方に回っているように思えます」
「君が持ちすぎていないからだ」
「きついですね」
「ボールは疲れない」
「ずっと動いているのにね」
「だからさ。ハローをはなす。ハローが届く。ハローに触れる。ハローをかえす。ハロー・ボールが動く。それを繰り返す」
「行ったり来たり。リフレインですね」
「ボールは目的地を持たないものだ」
「でもみんな喜んでくれています」
「人はリフレインを好むものだからな」
「いつまで続くんでしょうね」
「いつまでも続くだろうさ」
「監督。夢でも見てるんですか?」
「パスは永遠だ」
「そんなことは……。ないはずです」
「笛が鳴っても続くだろう。終わらないパスだ」
「パスは試合の中に含まれているものです。限りある試合の中に」
「だから枠をはみ出すことはできないと?」
「それは誰でも知っていることです」
「さあ、来たぞ。君へのパスが」
「あの人たちはドローなんて望んでいない」
「さあ、来たぞ。君の足下へ」
「僕が変えてみせます。いいえ、決めてみせますとも」
「君はパスを受ける。そして、パスを返す」
「もっと、遠い、目的の場所へ届けます」
「つながっていくことこそ希望なのだ」
「つながっていくだけでは希望はありません」
「どうかな」
「絶対に」
「君はやはり返すだろう。君は慣習の中に含まれているのだから」
「いいえ、僕が変えてみせます」
「できるだろうか? 今まで、できなかった君に」
「今からです! 僕は前を向く選手なんだ!」
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