第11話 偽の花壇
しばらくレジに並んでいたが少しも前進しないことに気がついた。レジは一斉にストライキに入ったらしい。待ちぼうけ、待ちぼうけ。カレーを作ろうとする高い意気込みが、不条理な現実によって挫かれてしまう。数センチずつでも、進歩のある渋滞ならば遥かにましだ。人々は誰も弱音を吐かない。姿勢を崩すことなく、事の解決を辛抱強く待ち続けている。あきらめて帰ろうとする人の姿はなかった。各ナンバーにおいてプロモーションビデオ発表会が始まった。最も作品の出来が良かったナンバーからレジが再開されるという噂が、どこからともなく湧いて広まっていた。即興で作ったというだけあってみんな酷い出来だ。その中で一番に選ばれたとしても少しも名誉には思えず、むしろ選ばれる方が恥ずかしいくらいに思えた。あからさまにそのようなことを言えば、地域の連帯を崩すことになる。そんな恐れを抱いてか、誰もネガティブな声を上げなかった。僕以外は。
「酷いもんだな」
少しつぶやいただけで背後から強い衝撃を受けた。
できるだけ小さくなって隠れたい。体をより柔軟にするため服をすべて脱いだ。早く安全な時が訪れますように。誰かが入って来ることを想像しただけで不安だった。金属が擦れるような音が、体育館の周りで聞こえた。しばらくして、入り口の方で賑わい、人の気配を感じた。段ボールから顔だけ出して見ると彼らは長い杖のようなものを身に着けている。人ではない。
(蟻族だ!)
倉庫の奥へ逃げ込むと段ボールの中で頭を引っ込めて隠れた。上手く気配を消していれば見逃してくれるかもしれない。目を閉じて祈りながら静かに待った。何かが音を立てて中に入ってくる。確実に体育館の中に入っていた。篭もったような音。徐々に音は、こちらの方に近づいて来る。いつまでもそれは近づいて来る。既に目標が決まっているように近づいて来る。止まらない。そして、突然、止まった。じっとがまんしていたのに、段ボールは動き始めていた。捕獲され、運ばれて行くのだ。体が強く締め付けられて行く。何にも触れられている感じはしないのに、抵抗し難い力で、どんどん腕も足も胴体も圧迫されて行くようだった。敗北と絶望を知るには十分だった。段ボールは見えない力で宙に浮き、蟻族の護衛に包まれながら、死地へと向かって行く。しかし蟻の手下になって生きるくらいなら、食われて死んだ方がましだ。覚悟を決めてしまえば、少し気持ちは落ち着いた。
ゆっくりと紙の牢獄は下降し始め、目的地が明らかになった。僕らは今晩の食材なのだ。なぜか急に視界がはっきりと開けて来ると、店の窓に大きく貼り出された文字が、目に入った。
(しゃっぶしゃっぶ)人が、しゃぶしゃぶか……。
あっ!
瞬時に光が走った。これは風刺なのだ。人が逆に食べられる側に回っているというよくある風刺なのだ。助かる。風刺の中に入っているだけなら、現実の自分は助かるという計算が即座に働いた。もう、屈服する理由などなくなったのだ。全身に力を込めて、見えない力に逆らった。
間違いなく、ここは自分の家の中だろう。
何度も力を込めたが、まだ拘束は解けなかった。けれども、徐々に景色は変わり始めている。段ボールは吹き飛んで、上にぽっかりと空いた天井の穴が見える。あそこが出口なのか。家ではないのか。ベッドではないのか。やがて、小さな闇の中から人の細い腕が無数に伸びて、触覚のように垂れた。
「助けて!」
姉のかかりつけの医師に呼び出された。これはやばいよと言う医師の目力に圧倒される。
「ところで普段大変なことは?」
問診が始まって僕は蟻たちとの行事について話し始めた。
(女王蟻をリスペクトして歩きなさい)という指示に従っていたのに、何か様子が変で、手の甲に蟻の足が執拗に食い込んで来たんです。
「なるほど。リスペクトが伝わってなかった。他には?」
他に思い出されるのはグラウンドでのことだった。ディフェンスがねちねちとマークしてきた。久しぶり過ぎて距離感がつかめないことを詫びながらもしつこい。ごめんねごめんね。構わんさ。何度も足を踏みつけられる。その内にスパイクの中にまでそいつの足が入って来て、伸びた爪でちくちくと刺してくる。
「流石にそれはやばかった」
「なるほど。続けてください」
休憩を挟んで戻って来るとコーチの顔が変わっていて、よく見るとみんな制服を着ていた。間違えた場所に来てしまったことに気がついて、廊下を歩いた。ああ、あそこだ。もう練習は始まっていた。ボールを追いかけるみんなの姿が見える。だけど、歩いても歩いても、そこに近づくことができない。ボールを蹴る音まで聞こえるのに。
「なるほど。それで最近困ったことは?」
問診が続く。先生は突然、昼休みを宣言してどこかへ行ってしまった。兄が隣でボタンを押した。いつからいたのだろう。オーダーを取りに女の人がやってきた。兄はメニューの写真を見ながらまだ考えている。指先が海老とチキンの間を泳ぐ。時間切れで注文は取り消しになった。セルフのうどんコーナーを回る。高く盛られた葱の中から緑色の生き物が顔を出した。誰にも言わないで。小皿の載った頭の上で手を合わせながら引っ込んだ。
この病院は大丈夫なの? 検索窓に名を打ち込んでもまるでヒットしない。屋上では若い先生たちがローマ兵の格好をして剣を交えていた。最近の流行だとか。
待合室に行くと大勢の人が診察の再開を待っていた。
「それでは投票経過をお伝えします。現場の田中さんお願いします」
「はい。こちら出口には誰もいません。ただ今の時間、選挙は行われておりません。こちらからは以上です」
「ありがとうございます。続いて全国の祭り情報です」昼時のニュースはインパクトに欠けた。冷房が効き過ぎだと言って誰かがドアを開けた。淡い色のカーテンが騒ぎ始めた。昼休みは終わらない。
火星人がオムレツを作り出す時の支度の音で目が覚めたけれど、オムレツの話は誰ともしたくなかった。風邪を引くから外には出たくなかったし、いずれ傷つくことになるから、誰とも話したくはないのだった。ネガティブな方向に広がるばかりの想像がすべてを消極的にさせ、脳内の限られた部分に圧縮してしまう。幾度も火星的な交流の海に舞い戻り、束の間の復帰と栄養補給を繰り返す内に、体の中心部分に違和感を覚えるまでに至った。
「ふん、そいつは腰痛だね」
医者は黒い煙を吐き出しながら笑っている。なーんだ。
「よくある現象か」
言葉一つ当てはまれば、一つの問題は解決したも同然だ。どういうわけかそのような判断に落ち着いてしまう。医者の術中にはまってしまったのかもしれない。そいつは既に分類済みの問題だ。
積み上げられたタイヤを、トングを手に選んだ。突然触れられて驚いた猫。眠りの穴を奪われて、不機嫌な目をしながら逃げ去って行く。こんなところで眠っている方が罪というものだ。少しばかり続いた平穏な時が、幻想の家を建てたに過ぎないのに。トングは手の中で縮み、ゴムの匂いは甘いシナモンの匂いに変わって行く。選んでいるのは車輪を飾り付ける輪などではなく、人の誘惑に取り入ろうとする甘い洋菓子なのだと気がつく。未知なるものを選ぼうとして泳ぐ手。トングは自分の意思に背き、過去選択済みの形へと落ち着こうとする。
エレベーターはずっと三階で止まったままだった。開けるなという扉を開いた。使うなという非常階段に踏み出して駆け下りた。七階まで下りた所で階段が途切れている。少し頑張れば飛べないことはない。勢いをつけて飛んだ。四階まで下りるとまた途切れている。今度も無理ではない。飛んで三階まで下りると早速階段が途切れていた。そこから先へ下りる階段は完全に消えていた。使うなという理由がここにある。振り返って見てもう一つの重大な事実に気づき愕然とする。上から下に飛ぶのはよくてもその逆は簡単ではない! もっともっと助走が必要。こんなところで足止めされてしまうなら、今まで学習したことの全てはなんて無意味なのだ。疎らながら地上を歩く人の姿が認められた。恥を捨てて力一杯叫ぼうか。それとも己の身体能力を信じてもう一度上の階へ飛び移ってみようか。鼓動が強く跳ねる音が聞こえる。正しく決断を下せるような人間なら、こんなところに今いるはずもなかった。上が駄目なら下はどうか。アスファルトでなく柔らかい土の上なら小さな怪我で済むかもしれない。目を凝らしている内に、小さく囲われたそれらしい場所が見えた。あれは花だろうか。「飛べば助かるの?」急に姉の声が聞こえたような気がした。
「馬鹿ね」
上から手が差し伸べられた。心配そうな姉の顔が見えた。
「花壇のように見えているだけよ」
それは装飾された虎の背中が一つ一つ集まって花壇のように見えたのだった。そう知って見直すと花とは違う揺れ方をしているのがわかった。虎の囲いだ。あの中で最も優秀な演技をしたものに自由が与えられる。
「さあ、こっちに」
姉の手に向かって飛んだ。元の階に戻って扉を開けると待っていたエレベーターに乗り込んだ。
「急いで!」
エントランスを抜けると駆け出した。受賞の決まった虎がもうそこまで迫っていた。老いた人間の顔だ。
「振り返っては駄目よ!」
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