第137話 これまでのこと

 一瞬ぷつりと切れかけた意識をなんとか繋ぎ止めて、かろうじて倒れこまずに済んだ。


(責任……。これはまずいわ! もう後には戻れないのかしら……。一体どうしたらいいの!)


 私が煩悶している横では、アルフォンス殿下と私の会話を見ていたビアンカさまが、両手を胸の前で組んで、星でも散りばめられているかのように瞳をきらきらと輝かせている。


「ステキ……」


 ステキじゃないよぉ! 何を置いても大切にしたい大好きな王太子殿下に、私は不埒な真似をしてしまったんですよぉ!

 そりゃ、大好きなアルフォンス殿下と仲良くなれたのだとしたら嬉しいけれど、キャッキャウフフの楽しい場面がすっかり記憶から抜け落ちているというのに、取り返しのつかない既成事実だけが目の前に突きつけられているという現状――「アルフォンス殿下と相思相愛やったー」と手放しで喜べない私の心境をぜひビアンカさまには理解してほしい。

 私の胸の中には嵐が吹き荒れて、アルフォンス殿下が口にした事実に只管混乱していた。そんな私の心境にまるで気づいていないかのように、アルフォンス殿下が再び口を開く。


「まあ、とりあえず俺とルイーゼのことは一旦置いておいて……」


 あ、置いておくんですね。助かります。心臓のポンピングが激しすぎて境界を超えて逝っちゃうところでした。


「君たちに今どんな状況にあるかということを説明しないといけないんだ。これはルイーゼの身の安全にも関わることだから、どうか心して聞いてほしい」


 アルフォンス殿下は、私が誘拐されてこの国に連れてこられて行方不明になってしまったこと、恋人・・である私のことが心配で自らこの国に探しに来てくれたことなど、これまでの経緯を説明してくれた。

 転生者を確保するために私を誘拐したのが、この国の王太子の派閥を率いるシュレマー公爵であるという事実にはとても驚いてしまった。この事実を聞かされたビアンカさまも目を白黒させている。


「まさかシュレマー公爵閣下が……。確かに野心家の方だとは認識しておりましたけれど、そんなことまでなさっていたなんて……」


 ビアンカさまの不安げな呟きを聞いたアルフォンス殿下が言葉を続ける。


「公爵の名をヴェルナー嬢の前で明かすべきかはぎりぎりまで悩んだのですが、見た感じヴェルナー嬢はルイーゼにかなり近しい関係になってしまっていると感じました。だから危険な状況を認識して警戒してもらったほうがいいと判断したのです」

「ええ、ええ、殿下のご判断に心より感謝申し上げます。かの公爵とはフェルディナントさまの派閥ということで、顔を合わせる機会が多いのです。クリス……いえ、ルイーゼさんの存在を匂わせるわけにはいかないですもの。今日このときまで夜会に連れていくことがなくて本当によかったですわ……」

「ええ、そうですね。この屋敷でルイーゼが保護されていたのは本当に僥倖でした。ヴェルナー嬢にお会いして、侯爵夫妻のお人柄も誠実なものだと見受けられ、本当に安心しました。ルイーゼを守ってくれて、ありがとうございました」

「いいえ、人として当然のことです。両親も我が家の使用人も皆一同同じ心持ちでおりますから、特別なことだとは思っておりません。私はルイーゼさんには感謝しているくらいですもの……」

「ビアンカさま……。私も皆さまに感謝しています……」


 優しい眼差しを向けてくれるビアンカさまに、私は微笑んで心からの謝意を伝えた。


「それにしても、侯爵家のご令嬢で、王太子殿下の婚約者さまに敬称付けで呼ばれるのは何となく居心地が悪いわ……」

「ずっとビアンカさまって呼んでいましたし、今さら喋り方を変えるのは難しいです……」

「うう……。分かったわ……」


 すり込みみたいなものかもしれないけれど、ビアンカさまは私にとってはこの屋敷で初めて目覚めたときからお嬢さまなのだ。今さらその認識は変えられない。

 そんな私たちの会話を微笑ましげに見守っていたアルフォンス殿下が、遠慮がちに口を開く。


「ヴェルナー嬢。私が明かした事実は、今はまだフェルディナント殿下をはじめごく一部の人間しか知らない情報です。どうか今しばらくは内密にお願いします。……ああ、でも侯爵ご夫妻には貴女のほうからご報告をお願いできますか?」

「承知いたしました。それにしてもシュレマー公爵閣下はなんて卑劣なのでしょう。何の罪もないご令嬢をこんな遠くの国まで連れてきて危険な目に会わせるなんて! 家臣に裏切られて、フェルディナントさまもきっと悲しまれておいででしょうね……」


 ビアンカさまにしては珍しく声を荒げたあと、物憂げに溜息を吐いた。そんなビアンカさまの言葉にアルフォンス殿下は真剣な表情を浮かべて答える。


「シュレマー公爵の動機はまだ分かりません。単にフェルディナント殿下に良かれと思って画策したのか、私欲ゆえなのか……。だがいずれにしろ、彼のしたことはとても許されることではない。罪が確定したら私がこの手で首を絞めてやりたいくらいだが、それはこの国の人間がなすべきことですからね。フェルディナント殿下に全てお任せすることにしますよ」

「そうですわね……。心中をお察ししますわ」


 ビアンカさまはちらりと私を見て答えた。私はその視線の意味がよく分からなくて首を傾げた。


「それにしてもルイーゼさんも隅に置けないわね。こんなに素敵な恋人がいたなんて!」


 少し興奮気味のビアンカさまに話を振られて、はっと現実に戻ってしまった。

 ああ、そうだ。私は殿下と、その、ごにょごにょなことになってしまったのだろうか。しかも愛を確かめ合ったとなれば、もう結婚は免れないのだろうか。

 私の頭の中にかつて夢で見た、あの可哀想なルイーゼ妃の姿が蘇る。私が吐いた小さな溜息を聞かれてしまったのか、アルフォンス殿下が私に優しげな眼差しを向けて微笑む。


「ルイーゼ、君が転生者だということも、なぜ俺との結婚を避けようとしたかも、全部君の口から聞いているから心配しなくていいんだよ」


 え……。私はすでにアルフォンス殿下に全てを打ち明けているの……?


「私がアルさまに……全てを?」

「うん。少し揶揄いすぎてしまったね。でも俺とルイーゼがお互いに気持ちを確かめ合ったのは本当。俺にとっては生まれてきてから今までで一番幸せな出来事だったのに、君が忘れているからちょっと意地悪したくなったんだ。ごめんね」

「いえ、私こそ忘れていてごめんなさい……」


 アルフォンス殿下の言ったことが、どこからどこまでが真実なのか曖昧になってしまったけれど、私たちが相思相愛というのは事実らしい。

 何より既成事実について聞いてみたいけれど、真実を問いかけて「ありました」と答えられたら怖いし、恥ずかしくてとても聞けない……。

 仮にあれでも、まあ、やってしまったことは仕方がない。なるようにしかならないのだから、悩んでも仕方がない。


「それで、よければ君に触れたいんだけど、いいかな……?」


 アルフォンス殿下が遠慮がちに口にした言葉に、私の頬は再び熱くなってしまった。私にはアルフォンス殿下と触れ合った記憶が抜け落ちているので、恥ずかしくて仕方がない。だけど……


「はい……」


 頷いた私を見て、緊張のためか強張っていた殿下の表情がフワリと緩んで喜びの色を浮かばせる。


「ああ、ルイーゼ……!」


 殿下が私をゆっくりと引き寄せて、私の体を包むように背中に腕を回した。私は殿下の胸に頬を寄せて瞼を閉じた。まるでガラス細工に触れるような柔らかな抱擁に胸がときめく。


「ああ、ルイーゼ、本当に無事でよかった……。君がいなくなったとき、俺は怒りと喪失感でどうにかなってしまいそうだったんだ。こうしてまた俺の腕の中に戻ってきてくれて嬉しい……」

「アルさま……」


 アルフォンス殿下が私の背中に回した腕に力を籠めた。ぎゅっと抱き締められて初めて気付いた。やはり私はアルフォンス殿下と触れ合ったことがあるのだろう。殿下の匂いを私は確かに覚えていたのだ。

 胸に広がったのは緊張なんかではなくて、とてつもない安心感だった。殿下の腕に包まれてようやく帰ってこられたのだと――これまで胸にぽっかりと空いていた大きな穴が埋まったような、満ち足りた気持ちになった。


「アルさま。もし私がアルさまに、その、ほにょほにょ……なことをしていても、私の手で必ずアルさまを幸せにして差し上げますから!」


 力のこもった私の決意表明を聞いて、殿下がさらに腕に力を籠めてくる。これ以上ないほどの多幸感に包まれて、目頭が熱くなった。


「……うん、お手並みを拝見させてもらうよ」


 優しく答えてくれたアルフォンス殿下の背中に腕を回して、私は強い決意を胸に大きく頷いた。

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