第132話 クリスと名乗る少女(アルフォンス視点)
俺は件のクッキーを手に取ってひと口齧る。さくっと軽い食感のあと、甘いバニラの香りが鼻に抜ける。記憶の中にはっきりと残っているその懐かしい甘さに、胸の奥をギュッと鷲掴みされたような心地になった。
「なぜ、これがここに……」
このクッキーはかつてルイーゼが作ってくれたクッキーだ。間違えるわけがない。このクッキーが切っ掛けで、ルイーゼが幼いころと何も変わっていなかったことに気付かせてくれた。じんわりと口の中に広がる、素朴で優しい甘さ……。
クッキーを一口齧ったまま動けなくなってしまった俺に、ジークベルトが説明をしてくれる。
「ああ、それは招待された令嬢付きの侍女が持ってきてくれたらしい」
「……侍女?」
「ああ、多分クリス嬢だと思う。ちゃんと使用人に確認してみないと断言はできないけど」
「クリス……?」
クリス? ルイーゼの作ったものと思われるクッキーを持参した人物が、ルイーゼではない? これほどまでに同じ見た目と味のクッキーが単なる偶然だというのか。
あり得ない。これは絶対にルイーゼの作ったものだ。百歩譲って別人の作ったものだとしても、その人物は間違いなくルイーゼと深くかかわっているはずだ。
「これは、ルイーゼの作ったクッキーだ……」
「何だって……?」
俺の言葉を聞いたジークベルトが驚いたように目を瞠った。
「その侍女はルイーゼに関わりがあるに違いない。詳しく教えてくれないか?」
「それなんだけど……」
ジークベルトが茶会の終わりに交わしたクリスとの会話について説明してくれた。その話によると、そのクリスという少女はルイーゼにとてもよく似た容貌と雰囲気を持っているらしい。
ジークベルトの話を聞いてすぐに思い浮かんだのは、先日町でルイーゼを捜索しているときに見かけて追いかけた、ルイーゼとよく似た少女の姿だ。
ルイーゼと似た容貌の少女がそう何人もいるわけがない。恐らくその少女がクリスという少女なのだろう。そしてルイーゼと瓜二つの少女がルイーゼのクッキーと全く同じものを作ったという事実――こんな偶然がそう重なるわけがない。
「クリス嬢はルイーゼだ」
俺が断言すると、ジークベルトが顎に指を添えて件のクッキーをじっと見つめて考え込んだ。そしてゆっくりと答える。
「……正直、彼女がルイーゼ嬢なのかそうでないのかは半信半疑だった。最初はルイーゼ嬢だろうと思ったけど、本人がはっきりとクリスだと名乗ったから、僕の勘違いだったんだろうと思ったんだ。だが、このクッキーがルイーゼ嬢の作ったものだとするなら、クリス嬢は間違いなくルイーゼ嬢だろう。……それならばなぜ、彼女はクリスと名乗ったのだろうか」
「……」
「偽名を使っているのかと疑ってルイーゼの名を口にして見たが、反応を見た限りでは嘘を吐いているようには見えなかったよ。本当に何も知らないという感じだった。それに僕を警戒して嘘を吐いたのだとしたら、もともとこのお茶会に来なければいいだけの話だからね」
「そうだな……。ジークベルトの話を聞いても、彼女がクリスと名乗った理由は俺には分からない。ぜひ一度会って話をしたい……」
何か事情があるはずだ。先日俺の顔を見て逃げてしまったのも、同じ理由によるものかもしれない。国に帰りたくないから……などという理由だったらどうすればいい。ルイーゼが結婚を嫌がっていたら……? 再び言いようのない不安に襲われる。
何はともあれ、転生者を狙うシュレマーの目が光るこの国から、一刻も早く連れて帰らなければいけない。結婚の意志の確認はそのあとの話だ。ルイーゼは我がルーデンドルフ王国の国民だし、テオパルトやオスカーもルイーゼの帰りを待ち焦がれている。
「クリス嬢は私の婚約者のビアンカの侍女です。なんなら私がアルフォンス殿下をお連れしましょうか?」
フェルディナント殿下の申し出は非常にありがたい。他国の貴族の邸宅に何の伝手もなく乗り込んだとしても、会わせてもらえるか分からない。だが……
「フェルディナント殿下。ご厚意に感謝します。大変ありがたいお申し出ですが、貴方が動けばシュレマー公爵に察知されてしまう恐れがあります。そこに国賓である王太子である私が同行などすれば、余計に目立つでしょう。ルイーゼの居場所は絶対にシュレマーに知られるわけにはいきません」
「……確かにそうですね。しかし、貴方が単身乗り込んでも目立つのでは……?」
「私に考えがあります。フェルディナント殿下にご協力いただけるのでしたら、目立つことなくルイーゼ……クリス嬢に会うことが叶うかと……」
「私は何をすればいいのでしょうか?」
俺はニヤリと笑ったあと、フェルディナント殿下とジークベルトに、先ほど浮かんだ考えについての説明を始めた。
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