第14話 十枚舌は歌う

霧に囲まれ橋の上で孤立し、霧の向こうからは犬の唸るような声が聞こえてくる。速まる鼓動に胸を押さえて、息を詰まらせながら走り出そうとするも逃げ場はなく、その場に立ち止まる。


食屍鬼は霧の中から顔を出す。前に一体、後ろに一体。どちらも狭い橋を埋め尽くすほどの巨体で、逃げ道は塞がれてしまっている。眼前に迫る死を宣告するかのように、前後から獰猛な獣の荒い息遣いが聞こえてきた。


今までは一体しか相手にしていなかったからこそ、なんとか一撃入れることができたのである。そのうえそれで倒したわけでもなく、一時的に行動不能した程度。多少武道を嗜んでいたところで、人間と血族との間には圧倒的な身体能力の断絶があるのだ。そのうえ、前と後ろからとなれば、同時に相手をすることなど不可能に近い。


食屍鬼たちは目を血走らせ、牙から涎を垂らし、餓えた獣のような形相で走ってくる。桃香はこのような動きをする存在を他に知っていた。それは、冬眠できずに山を彷徨い歩く熊。欲望という以上に、怒りや苦痛による行動に見えた。


––––川に飛び込んだ方が、まだ助かる道があるかもしれない。


霧に覆われて月も見えない夜、三ツ角川は底なしの黒に沈んでいる。桃香はその中に飛び込もうと唇をきゅっときつく結んで––––。



「遅れて飛び出てジャジャジャジャーンってね」


突如、闇夜に白銀の刃が半円を描く。そして眼前には体を上下に切り裂かれた食屍鬼。レモンを噛み切ったみたいに血飛沫が弾けて、女は踊るように黒いレインコートを翻して返り血をかわす。


「冴さん!」

「やー、ごめん。仕事長引いてさ」


冴は舌をぺろりと出して苦笑すると、地面を蹴ってもう一体の食屍鬼の前へ躍り出て、そのまま透過するがごとく食屍鬼の懐を通り抜ける。同時に刃が空中に白光りの曲線を描いて、食屍鬼の胴を両断する。食屍鬼は橋の上に倒れ伏し、その切り口からはどくどくと赤い血液が漏れ出していた。


「花市さんに『ぜってぇ襲われるから行ってこい』って言われて来てみたらこれだからさ。君ぃ、モテモテだね〜」

「これがモテ期なら首吊りますけど!? それより、花市さんわかってたんですか? なんで?」

「服の首のとこ触ってみ」

うなじ付近に手で触れると、見たことのない機械が安全ピンのように取り付けられていた。

「盗聴してたみたい。いやーおかげで助かってよかったね」

「プライバシーがない……」


花市に説明する手間や気苦労が不要になったのはいいが、盗み聞きをされていたというのはあまり気持ちの良いものではない。それで助かったのだからすごくありがたいとも言えるが。


「わかっていたのなら最初から止めてくれれば……」

「敵の出方が見たかったみたいだよ?」

「ひどくないですか!?」


やはりあの探偵は捜査に手段を選ばない。社員のことをなんだと思っているのだろう……。捨て駒?

桃香はため息をついて目を伏せた。


すると、その伏せた目は奇妙なものを捉える。それは、血溜まりの量がみるみる減って、死体の傷口へと吸い込まれていく光景。そして、食屍鬼の切り口から肉の触手が根を生やすようにいくつも蠢いて、断面どうしを接合しようとするかのように絡み合い、結びついていく。死していると思い込んでいた食屍鬼には未だ息があり、その体はそれを証明するかのように脈動していた。


「冴さん!こいつらまだ生きてます!」

「やめてよー、そういう冗談……んえ?」


冴は笑って手をひらひらさせ、本気にしていない様子だったが、直後顔を曇らせる。斬り殺したはずの二体の食屍鬼が、どちらも平然と起き上がったからだ。


食屍鬼を両断したときの傷はこの短時間で消えて無くなってしまって、食屍鬼の肌にわずかに血痕が残るのみ。あまりの埒外な再生力に呆然としてしまって、冴は開いた口が塞がらない。純血の一部にはこれと同程度の再生力を持つ個体もいるが、食屍鬼でここまでのものは見たことがない。


––––だが、それなら死ぬまで殺せばいい。


「しつこいね、もっかい死んどけ」


冴はそう言って、左手首にもうふたつ切り込みを入れる。たちまち溢れ出す血液は凝固し、左手は三枚の刃と一体化する。そして、三枚刃を二体の食屍鬼に乱雑に振るい、微塵切り。左に、右に、食屍鬼の肉を、骨を、力に任せて原型を留めぬようにめちゃくちゃにする。再生もできぬほどにミンチとなるように、引き裂いて、切り裂いて。

じゅうぶん切ったら刃を血液に分解し、今度は鉄製のバット状に凝固させ、念入りに潰す。潰して、潰して、血が弾けて骨が砕けて。


「……マジ? 流石にドン引きだわ」


食屍鬼はそれでも生きていた。壊せば壊すほど、前以上の速度で肉塊が結びつき、元の形を取り戻す。そして悲鳴のごとき絶叫をあげつつ白目を剥き、涎を垂らして襲いかかってくる。そのたびに冴は斬り伏せて殺し直すのだが、遂に再生速度は殺傷速度に追いつき、切ってもすぐに立ち上がるまでに達してしまった。


「どうするんですかこれー!」

「知らないよ!こんなのあたしの知ってる食屍鬼じゃないし!」


そうは言っているが、冴は対処法自体は思いついていた。

––––川に落とせばいい。

返り血の血族も生物である以上、呼吸はするし、溺れれば窒息死する。どうにかして川に投げ落とせればいいのだが、その手段が難しい。相手も抵抗するだろうし、バットで殴った程度では川の中に落ちてはくれない。


その時、強い風が吹いた––––。


二体の食屍鬼は顔をよりいっそう苦痛に歪め、悲鳴を発して冴へと向かってくる。冴は頭を切り落として、それを防いだ。だが、すぐに起き上がって、鉤爪つきの浅黒い手を伸ばすので、冴はそれもまた切り落として防御するので手一杯だった。


見ていることしかできない桃香は焦燥に駆られ、なにか手段はないか死に物狂いで思考する。

––––なにか手はなにか手はなにか手はなにか手は……!


––––あるよ。


胸の中に女の声が響いた。春風のように優しく、心地よい声音だった。誰なのだろうと考える間もなく、声は続けて桃香に語りかける。


––––手の甲にキスして。


今は従うしか手段がない。桃香は言われるがままに右手の甲に口づけした。


すると。


手の甲に薄紅色の、ぷるりと瑞々しい唇が出現する。驚きに目をみはると、唇は上下に開き、吐息とともにさっきと同じ女の声を発する。


「この手で食屍鬼の耳を殴って」

「そしたらどうなるんですか!?」

「私に任せて、大丈夫だから。信じて欲しいな?」

この唇に瞳がついていたなら、きっと真摯にこちらを見つめていただろう。それくらいには誠に満ちて偽りだとか邪気だとかのない願いだった。


それに、冴は防戦一方で、なんとか持ち堪えているとはいえ長くは持たない。今、助けに入らなければ。


––––やるしかない。

知らない誰かの唇のついた拳をぎゅっと握りしめた。




冴は愚直に食屍鬼の頭を切り落とし続けていた。いつか向こうの体力が尽きるまで、という算段だったが、むしろ再生速度が上がっていくのは完全に誤算だった。これでは自分が引き付けているうちに桃香を逃すしかないかもしれない。


––––あるいは、奥の手を使うしか。


冴が背中に手をやり、『奥の手』を使おうとしたとき、背後から桃香が飛び出し、そのまま食屍鬼へと向かっていく。


「桃香、なにを!?」

「鬼退治です!」


桃香は体を捻り込み、橋が抉れるほどに踏み込んで、全力の裏拳で食屍鬼の側頭部を殴りつけ、続いてもう一体の食屍鬼にも正拳突きを喰らわせる。凄まじい衝撃、しかし食屍鬼たちはわずかに吹き飛んだもののすぐに体勢を立て直す。傷はついたのかもしれないが、既に回復してしまった。


しかし。


二体の食屍鬼の耳の傍には、薄紅色のキスマークが残されていた。キスマークは立体化し、艶っぽい唇へと姿を変える。


「あれは……!」

驚愕する冴と、なにが起きたかわからないが祈るしかない桃香。二人はともに息を呑んで食屍鬼を凝視していた。


風が沈下橋を横切って走り抜け、それと同時に唇が震える––––。

「血統、猟奇歌––––」


絶叫。空気が震えるほどの、声というにはあまりに破壊的な叫び。耳をつんざくその高周波音は、二つの唇から同時に発された。


冴と桃香は耳を塞ぐことができるが、食屍鬼は耳を塞いだところで骨伝導によって、脳髄が直接蹂躙される。それも一瞬の蹂躙ではなく、食屍鬼の意識を刈り取るまで続く、猟奇的な拷問。風が吹いただけで苦痛を感じるほどに過敏になっている食屍鬼の感覚は、当然その刺激に耐えられず、遂に気絶スタンした。


桃香がふと右手を見ると、いつの間にか唇はきれいさっぱりなくなっていた。まるでぜんぶ夢だったのだといわんばかりに。


桃香は呆然として、冴は思うところがあって、二人はそれぞれ違う理由でしばらく黙っていた。障害を排除したあととは思えない、奇妙な沈黙がそこにはあった。気絶中の食屍鬼を川に投げ込みながら、冴は重い口を開く。


「君さ……、なんで憂里の血統を持ってるの?」

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