3分で読める掌編集『遍在するこの人』

Haruki-UC

ある男

 狭いテーブルの上に、コンビニで買った発泡酒の空き缶が散らかっている。灰皿が満タンになって久しいが、掃除する気力は一向に起きない。さらにどうでもいいことだが、きょうはおれの三十八歳の誕生日らしい。


 おれに家族はいない。子どももいない。親しく話す相手すらいない。くだらない仕事場で、獣の鳴き声に似た言葉を交わすくらいのもんだ。上下関係によって、一方が一方に怒鳴りつけるだけで、会話とは呼べそうにない代物だ。


 もはやおれには誰かが意見を語っているだけで腹立たしくて我慢ならない。偉そうに何言ってるんだよ。そんなものは間違っている。考えるだけ無駄だ。幼稚すぎる。ごちゃごちゃ言う前に黙って働けよ。おれの仕事を少しでも減らしてくれよ。お前なんてどうせ大した人間じゃないんだからさ。


 夜にこうして酒を飲んでいても、おれの話を聞くのはテレビだけだった。リモコンを操作し、仕方なくクイズ番組に目をやる。

 おれが答えられる問題を、馬鹿なタレントが間違うと少し嬉しくなった。「おれは物知りなんだ!」思わず大きな声が出る。


 しかし、近頃は歳を取ったせいか、おれも馬鹿げた話を信じたくなってきている気がする。本心では求めているところを突かれるとどうにも抗えない。男性の年収や容姿を気にしない若い女性が急増しているとうたう結婚相談所の広告から、果ては人生を一発逆転できるらしい「簡単な仕事」の話にまで心を動かされてしまう。


 目の前に餌を置かれると、飢えた犬のようによだれを垂らしてしまう。牛丼でもカップ麺でも期間限定の味のポテトチップスでも何でもだ。細かいことをいちいち気にしている余裕はない。少しの間だけでも嫌なことを忘れさせてほしい。


 もちろん金はない。仕事場でも資格を取っただのどうだのぬかしてる輩がいたが、そんなものは無駄だ。どうせ何の役にも立たない。とにかく考えるのが面倒だ。


「おれには関係ない!」テーブルにこぶしを振り下ろした。空き缶が床に転がり落ちた。どうでもいい。畳に寝転ぶことにする。


 そうしていると、今度はどこからともなく昔の記憶がよみがえってくる。

 学生時代に好きだった女の子、まだ若くひたすらに白球を追っていたおれ、そしてちょっと見た目がいいだけのサッカー部の男。どこかへ去っていく二人の後ろ姿から、男は一度だけ振り返っておれのほうを見た。その視線には嘲りの色が濃く漂っていた。


 打ち消すように、「うるせえ!」とおれは怒鳴った。

 テレビの中の司会者が、「それではまた来週~」と答えた。それで終わりだった。

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