第2話の4

 べろり、と生っぽい感触がして、シロは目を覚ました。


 目の前には犬の顔があった。舌を出して大きな牙を覗かせ、黒い瞳でシロを見ている。


 喰われる、ともう一度目を閉じようとすると、遮るように火が弾ける音が響いた。シロの側には火が焚かれ、それは周りの岩肌を赤く照らし出していた。


 ただ、洞窟のような場所ではなさそうだった。奥まっていないし、近くに雨音が聞こえる。


 痛む首を動かしてみる。目線の先は開けていて、夜雨の森を見渡すことが出来た。どうやら崖をくり抜いただけの簡素な場所のようだ。


「お! 目を覚ましたか!」


 大声が聞こえて、シロの意識は瞬時に覚醒した。


 しかし起き上がることは出来なかった。体中が痛み、身をよじることも出来ない。


「無理はするな。話せるか?」


「……はい」


 首だけを向けると、そこには初老に見える大男が座っていた。肌が浅黒く、短い袖から伸びる二の腕は筋骨隆々で、見るからに野生と言った風貌だ。


「お前は崖下で倒れてたんだ。泥だらけで土の塊みたいでな。団十郎でなければ気付かなかったぞ」


『ばうわう!』


「……ありがとう」


 犬を撫でようとしたが指一本動かなかった。それを察したのか、団十郎と呼ばれた犬はシロの頬を舐める。


「師匠」


 雨だれの中から少女が現れた。ずぶ濡れで寒そうだが、服が貼り付いた身体は動物のようにしなやかだった。


「果物なってたよ」


「お、ハコバナナじゃないか! よく見つけてきたな!」


「栄養があるから、怪我に良いと思って」


「いま目を覚ましたところだ。エリも服を乾かせ。スケスケだぞ」


 少女は赤くなって、シロから隠れるように火にあたった。


「お前、名前は?」


 シロは自分の名前を思い出そうとしたが、細かい部分が思い出せなくなっていた。


「……シロ」


「覚えやすくていいな! シロはどこの人間だ?」


 口調は軽かったが、空気は静かになった。少女でさえも耳をそばだてているのがわかる。転生者、そう答えるのは嫌な予感がした。


「うちの村の人間じゃないし、港街の奴はこんな森の奥へは来ない。王都も遠いが、まあ来れなくはないな。罪人か奴隷か? 逃げ出してきたのか?」


「ち、違う……」


「なら……山賊の一味か?」


 静かになっていた空気が、より張り詰めるような気がした。


 転生者、と恐怖に駆られたシロは答える。


「……ん? すまない。小さくて聞こえなかった」


「転生者……教会でそう言われた」


「転生者ね。こんなところで行き倒れってことは、『能無し』か?」


「『能無し』……?」


「スキルのない転生者のことだ。ギルドで言われなかったか?」


「ギルドは……中に入らず逃げてきた」


「……え? なんで?」


「怖そうだったから……」


 シロがそう言うと、大男は本当に愉快そうに笑った。あまりにも面白そうに笑うので隠れていた少女もつられていたし、ともすれば犬でさえ笑っているかもしれなかった。


「そうかそうか! こんなところまで逃げるほど怖かったか! 確かに中にいるのは根無し草ばかりだ! どいつもこいつも汚いしな!」


 シロはすっかり恥ずかしくなっていた。言葉の代わりに顔を背ける。


「入らずに逃げて来たということは、目を覚ましたのは今日か?」


「そう」


「初日から災難だったな! ところで、聖女は細目で金髪の女だったか?」


「……そうだ」


「あの生意気なガキ、まだ刺されてなかったか!」


 大男は膝を叩いて笑う。さっきから笑ってばかりだ。


「大丈夫?」


 少女がシロの顔を覗き込んだ。服はもう透けていないが、ゆったりとした服から膨らみかけの胸が覗いていた。


「お水、飲む? 果物もあるよ」


「あ、ありがとう。水を……」


 少女はシロの口に水筒をあてた。少し乱暴だったが、喉が潤うと生きた心地が戻ってきた。


「あの、ここは……」


「ああ、そうだった。ここはヴァンダイク山脈の森だ。名前を言ったところでわからんだろうがな」


 シロは質問を続けなかった。大男の言う通りわからないことは山ほどあるが、知るべきことは何も無い気がした。


「俺の名はレドガン。そいつはエリ。犬は団十郎。エリは俺の弟子で、団十郎は俺の犬だ」


「……そう……」


「そしてシロ、お前は今日から俺の弟子だ」


「えぇっ!?」


 シロの代わりにエリが驚きの声を上げた。レドガンは雨の降りしきる森を見ていたが、やがてシロに振り向く。


「シロ、俺も転生者だ。怪我が良くなったらこの世界のことや、生きる術を教えてやる。忙しくなるぞ」


 レドガンはシロの顔を覗き込み、顔を皺だらけにして笑った。


「元の世界に戻りたいとか、死にたいとか、悩む暇は無いからな」

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