ふつう、でいいのに。

 No.6の向井が予約してくれた店は、街の中心部にある大きな駅の裏側にあった。久しぶりに行った界隈だったけれど、店は幸いすぐに見つかった。

 入り口で店員に予約の名前を言うと、すでに来ていた向井のテーブルに案内された。


 店内全体が騒がしい居酒屋で、隣のテーブルとも距離が近くて、落ち着かない店だった。


 私が軽く会釈をして上着を脱ぎ始めると、向井は立ち上がって「初めまして」と言った。ちょっとおどけたように大げさなお辞儀をして、人なつこい笑顔を浮かべていた。弟キャラのような屈託のない様子に、私は一気にリラックスした。

「初めまして、北沢です」と言うと、彼は指をきちんとそろえた手のひらを上に向けて、恭しく自分の向かいの席を示した。どうぞ、座ってください、というつもりだろう。


 なんだろう、このソツのない感じは。

 こういうタイプは仕事の場などではよく見てきたのだけど、婚活で会ったのは初めてだった。そもそも、どうしてこういう人好きのする感じの人が、こんなところにわざわざ年上女に会いに来るのだろうという疑問が湧かないでもなかった。


 まずは、ビールとチューハイで乾杯。お互いの仕事のことや家族のこと、今回の席を取り持ってくれた彼の先輩や、その友だちである由佳子の話をした。


 向井は歳は私より一つ下だが、学年は二つ下だった。大して違わないはずなのに、妙に若々しい。食欲も旺盛で、私の希望を訊きながら、自分の食べたい物もいっしょにどんどん注文していた。お酒もグイグイ飲む。顔を少し赤くしながらも、酔ったことでどこかおかしくなるということもなく、ただただ陽気に盛り上がっていくのだが——。


「だから僕、言ったんすよ。『ちょっと、それはどうなんですかぁ〜?』って。そしたらね、……」

 彼が陽気にしゃべればしゃべるほど、私は引いていくことになった。


 唾だ。

 唾が飛びまくるのだ。

 たぶん、酔ったからじゃない。そもそも食べ方が汚い。常に口角に食べ物の汁気を溜めている。

 しかも、咀嚼してると時々ポロポロと食べ物の破片が落ちる。そして、それを拾って口に入れる。

 ずっとそんな感じで、彼は物を食べるのだ。


 彼の唾が散々飛んだであろう料理の皿に、私は途中から手を付けなくなった。


「どうしたんすか? 小食ですね?」と、向井が訊いてきた。

「うん、今日、お昼食べたの遅かったから」と私はごまかした。


 この場は何とか切り抜けられても、今後つき合ったり結婚したりすれば、食事をともにするたびにこれなのだ。彼の向かいで食事をしながら、唾やこぼれた食べかすを気にして生きていくことは、私には耐えられそうもなかった。


 一応、話だけはずっと楽しく続けていた。

 そのせいか、帰りに最寄り駅まで送ると言った向井は、私との距離をどんどん詰めてきた。近い近い……と、歩きづらさすら感じるくらい、私の方に体を向けたまま、横歩きをしながらしゃべり続ける。まるで、はしゃいだ子供のようだった。


「宝くじって、買います?」

 もう閉まっている売り場のブースを見ながら、向井が唐突に訊いた。

「メインのはね。でも、細かいのは買わない」

 私がそう答えた時に、駅へ下りる階段の前に出た。


「じゃあ、私はここで」

「今度、いつ会えます?」

「ごめんね。もう、会えないかな」


 向井は素早く私の前に移動すると、通せんぼするように歩みを止めさせた。

「ちょっと待って。もう会えないの? 僕、このままつき合えると思いました」


 驚きながら眉尻を下げた表情は、見るからに悲しそうだ。さっきまでのはしゃいだトーンは、すっかりどこかに吹っ飛んでいた。


「ごめんなさい。すごく楽しかったの。だけど、やっぱり私、恋愛を考えたら、年上の人が好きみたい」


 嘘だった。

 年上が好きだなんて、一度も思ったことはない。気が合えば、年齢なんて上でも下でも同じでもよかった。ただ、食べ方が……などとは、口が裂けても言えない。


 向井はガックリと首を垂れて、しばらくそのまま立っていた。


「本当にごめんなさい。向井くん、すごくいい人で、楽しくて。年上だったら、どんなによかったかって思ってる」

「歳? そんなの、どうして先に言ってくれなかったんですか」と、軽く拗ねたような口調で私を見た。


「いい人だって言われて、もしかしたら、年齢関係なく好きになれるかなって思ったの。だけど、理屈じゃないんだなって、自分でもわかった。やっぱり私、上の人に甘えたいのかもしれない」


 よくもペラペラとデタラメが出てくるなと思ったけど、彼を傷つけないように、という一心だった。


「わかりました。ここはおとなしく引き下がります。でも、気が変わったら、由佳子さんに連絡してください。僕、たぶんしばらくは待ってますから」


 こうして、彼を残して、私は駅へと階段を下りていった。


 いいヤツだった。ただ、食べ方さえだったら。


 そうだ、ふつう、でいいのに。

 駅のホームで、私はため息をついた。

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