第二十八話 雨にけむる
運河沿いに建つ高層マンションは、こんな日でも雨にけむる幻想的な都会の街並みを見せてくれる。しかし、それにはまるで関心がないかのように、散冴は垂れこめた灰色の雲を眺めていた。
その背中にめぐみの声が投げつけられる。
「ラファくんの言うとおり、なんであなたが連絡してこなかったのよ。ここだってあなたの部屋なんでしょ?」
散冴が振り返ると、こちらを向いためぐみの向こう側に座っているラファと目が合った。ラファは口をへの字にして肩をすくめる。
窓際に立ったまま、散冴は彼女へ頭を下げた。
「あのときは一刻も早くあなたへ危険を知らせて、ラファに護ってもらいたかったんです。私のせいでまわりの人たちに危害が及ばないよう、様々な情報を集めて対策を検討する時間が欲しかったので」
「そう言われちゃうと何も返せないじゃない……」
すねたように口をとがらせて、めぐみは捻っていた体をもとに戻した。散冴が淹れてくれたコーヒーに手を伸ばす。
散冴も窓を離れて、ラファの隣に座った。
「ここでの生活はいかがですか」
「とぉーっても楽しいわよ、ねーっ、ラファくん」
話を振られたラファはあいまいな笑顔を浮かべた。散冴は気にも留めずに話を続ける。
「変わったことやおかしな動きは?」
「特にないですね。つけられている気配もないし、サンザさんの狙い通り、彼女がここにいることはまだバレていないんじゃないですか」
「それならいいのですが。いずれ気がつかれる可能性もあるので、まだしばらくの間は彼女から目を離さないようにしてください」
「オゥケィ」
「でも、なぜあなたが
めぐみは顔を伏せ気味にして上目づかいで散冴を見た。それもまた、彼は気にする様子がない。
「この件に私が首を突っ込んだことを面白く思っていない輩がいるのでしょう。なぜだかは分かりませんが、龍麒団のことを調べ始めてからすべてが動き出した気がします」
二人は黙って散冴の言葉に耳を傾けている。
「あのまま私が動かなかったなら、ただの喧嘩で収まっていたかもしれない。警察が接触してきたのも奴らに拉致されたのも、寺さんに情報収集を頼んだ後のことです」
「それじゃ、その情報屋から洩れているかもしれないですね」
「いや、それはないでしょう。天才と呼ばれたハッカーがハッキングされる側になるとは思えないし、寺さんも南条さんと同様に金のために動く人ではないので」
黙ってうなずくラファの隣で、何やら思案気な顔を散冴が浮かべた。
「あなたが殺される心配は……ない?」
また上目づかいのめぐみが小さな声で問いかける。
「おそらく今のところは」
おだやかな笑みをたたえた散冴が首を縦に動かした。
「そのつもりなら林を殺したとき、おびき出された私も一緒に殺していたはずです」
「ずいぶんと簡単に言うのね」
「いずれにしろ私の存在は後づけですから、何かきっかけがあるのは間違いない。おそらく――」
「わかった! 犯人はあいつらよ、きっと」
散冴の話を
「あいつらって?」
ラファが向かいに座るめぐみへ顔を向ける。
「わたしを誘拐しようとした奴らよ。なんか龍麒団とは揉めてる話をしてたし、あなたにはボコボコにやられちゃった恨みがあるでしょ。きっとその仕返しにあなたを犯人に仕立て上げて相手のボスを殺したんじゃない?」
「さすがですね」
散冴に褒められてめぐみはまんざらでもない笑顔を浮かべた。
「神栄会の話は龍麒団にも伝えておきました」
「なーんだ。もう犯人がわかってたんじゃないの」
めぐみが口をとがらせる。
ラファはソファの背もたれに寄りかかって「奴らが犯人なら俺は納得するなぁ」と両手を頭の後ろで組んだ。
「でも、上林たちが絡んでいるとしたら大きな疑問があるんです」
散冴は右手を口許に当てて身を乗り出す。
「あの時刻に私が林のもとへ行くことを、なぜ知っていたのでしょう」
彼の言葉に耳を傾けていた二人は黙ったまま顔を見合わせた。先にめぐみが口を開く。
「偶然、のはずはないわよね」
「もしそうだとしたら、私を陥れようとしたという前提が崩れてしまいます。神栄会の仕業という根拠も薄れる」
「奴らのスパイが龍麒団にいるんじゃないですか」
「その可能性はありますね。でもそれならば事故に見せかけるとか、別の方法もあったはずです。わざわざ拳銃を使って殺したのでは犯人像も絞られます。そもそも、なぜあのタイミングだったのか」
うーんと唸ったラファは両手のひらを上に向けて肩をすくめた。
めぐみが腰を浮かせ、浅く座り直す。
「あなたを目障りに思っているのは神栄会だけじゃないってことね。きっと新井病院の院長だって面白くないだろうし」
「知らないところで私を恨んでいる人は数知れないかもしれませんが、龍麒団と関わってくるとなると……」
「何か心当たりはないの?」
散冴の視線は彼女を通り越して窓の外に向いていた。
薄灰色へと変化した雲だけを見ていては雨が止んだのかさえ分からない。
「今はまだ情報が足りなくて。些細なことでも色々な角度からの情報を集めて分析すればきっと何かが見えてくるはずです」
「情報といえば
めぐみは散冴の視線を自分へ戻させた。
「山木産婦人科クリニックで中絶手術をした中韓の女性はみんな不法滞在だった。そんな彼女たちでも治療してくれるというので、あのクリニックが裏で評判になっていたみたい」
「優しい顔をしながら患者に違法薬物を投与するなんて、医者としての倫理観などまったくないようですね」
「ひどいのはその後。中毒性が高いから女性たちは無理をしてでも薬を手に入れようとする。でもお金が払えないと、龍麒団が売春させているらしいのよ」
「汚ねぇやり方だな」
ラファが眉間にしわを寄せて言葉を吐き捨てた。
「副作用でどうなるのかを奴らは知りたがっているという話もあったわ」
「自分たちで売りさばいている覚醒剤なのにですか。まるで新薬の治験……うん、たしかにそう考えれば、薬を使う対象を限定して自分たちの監視下に置いていることも筋が通ります」
散冴の話にめぐみも眉をひそめる。
怒りを押し殺した顔のまま、ラファが彼へ向き直った。
「それにしてもやることが何から何まで汚いし、やっぱり殺人事件は仲間内の抗争なんじゃないですか。権力が目当ての」
「その線も残りますね。新しいリーダーは本国から来ると大城は言っていましたが、その人物からの指示で林が殺されたのかもしれません」
すっかり冷めてしまったコーヒーのカップに散冴が手を伸ばした。口へは運ばず、両手で包み込んでじっと見つめている。
「AAAについては、国内に広く流通させるための準備段階と考えていいでしょう」
「こんなに中毒性の高い薬物が東京から広まってしまったら大変なことになるわ」
「そっちは俺たちで何かできることがありますか?」
二人の視線は目を伏せる散冴へと注がれた。
顔を上げた彼は再び窓の外に目を向ける。
「鮎川さんがAAAを調べ始めたことが今回の殺しと関連があるのか。神栄会、あるいは龍麒団のかかわり、そして中途半端に私を陥れようとしたのはなぜなのか」
ひとりごちると散冴は口を閉ざした。
ラファは膝の上に肘をつき、組んだ両手の上にあごを乗せる。
めぐみはテーブルの上に置いてあるカップを見つめた。
切れ間の見えてきた空からも、けむる雨が街をかすませている。
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