第二十五話 すれ違い
「あら、もうこんな時間だわ」
リビングに掛かっていた時計を見て小夜子が立ち上がった。
「どうしたんですか」
「ラファ君と改札で待ち合わせをしているんです。散冴さまと連絡が取れなかったので、お仕事のことなら彼が知っているかもしれないと思って。電話をしたらこちらへ来ると言ってくれたのですが、
「そうでしたか。ちょうどよかった」
「散冴さまもラファ君に何か御用でしたか?」
「ええ、ちょっと頼みたいことがあって連絡しようと思っていたところです。一緒に行きましょう」
ハーフコートを手にした彼女に続いて散冴も立ち上がり、ジャケットとマフラーを身につける。テーブルの上にあった山高帽へ右手を伸ばして玄関へと向かった。
ホームからエスカレーターで上がってきたラファは二人の姿を見つけると小走りで改札を抜けてきた。
「サンザさん! 無事だったんですね」
「まぁなんとか」
「ごめんなさいね、ラファ君に連絡するのが遅くなってしまって」
紺色の半袖ポロシャツからのぞく彼のたくましい左腕に小夜子がそっと手を添えると、ラファは彼女の顔にちらと目をやり、あわてたように散冴へ顔を向けた。
「いいっすよ、そんなこと。サンザさんに何もなかったのならそれで充分です」
「心配させて申し訳ない」
「いったい何があったんですか」
「場所を変えて話しましょう。ラファに頼みたいこともあるので」
三人は駅から五分ほどの運河沿いにある公園へやってきた。
冬の柔らかな日を受けてきらめく
小学二、三年生だろうか。枯れた芝生の上でボールを投げて遊ぶこどもたちに小夜子は目を細めた。
ことの経緯をラファへ伝える散冴の背中越しに、彼女も耳を傾ける。
「あのときの刑事たちが絡んでいるなんて。あれは偶然通りかかったわけじゃなかったんですね」
「おそらく。龍麒団は新宿から池袋に掛けてを根城にしているようなので、聞き込みでもしていたのでは」
「それにしても、また彼女かぁ。面倒なことばかり持ってきますね」
小夜子が散冴の肩越しにラファの顔をうかがう。
「でも彼女は正しいと思って行動しているだけですからね。あのときも私がいなかったら、きっとひどい目に合っていたでしょう」
「ただサンザさんを利用しただけじゃないですか」
ラファの抗議を笑みでかわして、散冴は話を続けた。
「そこでお願いなんですが、彼女のボディガードをしてもらえませんか」
「え、俺が⁉」
そう言うと、散冴の後ろからのぞく小夜子の顔へ視線を動かし、すぐに逸らした。口を尖らすように結び、鼻から息を一気に出す。
「彼女からの依頼ですか」
「いえ、依頼者は私です。もちろん報酬も支払いますよ」
「どうして散冴さまが?」
口を開きかけたラファよりも先に、小夜子が割って入る。散冴は正面に向き直り、運河に目をやった。ときおり彼の顔に光が
「今回の件、きっかけはもちろん彼女で、私はたまたま居合わせただけにすぎません。龍麒団にとってもイレギュラーな存在だったはず。それなのに、昨夜は私が呼び出された先で奴らのボスが殺されていた。偶然ではなく、誰かが私を
「普通に考えれば、そうとしか思えませんよね」
ラファはベンチの背もたれに寄りかかり運河へ顔を向けた。
「いつのまにか標的が私に変わっている。どうやら単純な話ではなさそうなので、思わぬところで迷惑がかかるかもしれません」
「わたくしも、しばらくここへは来るなと言われました」
「それなら俺が小夜子さんのボディガードをやりますよ」
腰を浮かすようにラファが二人へ向き直った。
そんな彼の膝の上へ散冴が右手を置く。
「私の住まいは明らかになっていますが、小夜子さんの存在はまだ知られていないかもしれない。でも鮎川さんは顔も名前も把握されている。リスクがあるのは彼女なんですよ」
ラファは再び背もたれへ寄りかかると大きなため息をついた。太腿の横についたポケットから取り出したコーラを飲み干し、空になったペットボトルを手でもてあそぶ。
「オゥケィ」
「ありがとう。それじゃ、彼女への連絡もお願いします」
「ちょっと待って、それはサンザさんがしてくださいよ」
ラファの声に驚いたこどもたちが、動きを止めて彼らの方を見る。小夜子が微笑みながらうなづいてみせると再びボール遊びを始めた。
「私があいだに入っても面倒なだけでしょう」
「どうして俺がボディガードをやることになったのか、彼女は知らないんでしょ。そこはやっぱりサンザさんから説明してもらわないと」
「龍麒団のことはもちろん彼女も知っているし、ラファから話してもらえば十分ですよ」
「なんだか散冴さまが避けていらっしゃるように聞こえますけれど。その女性と何かあったのですか」
あいかわらず笑みを浮かべてはいるが小夜子の目は笑っていない。ラファも彼の顔を覗き込んだ。
苦笑いを浮かべながら、散冴はこどもたちを目で追っていた。
赤いパーカーを着た男の子が高く蹴り上げたボールは風にあおられてフェンスを越える。コンクリートの護岸に跳ね返り、運河へと消えてしまった。
赤パーカーの子と、もう一人がネットフェンスをよじ登る。
散冴がすっと立ち上がった。
「どうなさったのですか」
その様子に、小夜子も彼の視線を追いかける。
「あっ!」
声をあげたのは彼女だった。
ボールを取ろうとしたのか、赤い小さな塊が運河へと消えるのを小夜子は見た。
「これをお願いします!」
言い終える前に山高帽とマフラーを外した散冴が駆け出していた。ジャケットを脱ぎながらフェンスへ走り寄ると、手をかけて乗り越える。そのままの勢いで、両手を前にそろえて頭から運河へ飛び込んだ。
「散冴さま!」
すぐに彼女も後を追う。それをラファが追い越していく。フェンスの向こう側で泣いているこどもに両手を差し伸べて抱え上げると、入れ替わりに護岸の狭い
散冴は水面で激しくもがいている赤パーカーの近くまで泳いで行くと何やら声をかけた。暴れるのが収まり、男の子は仰向けに浮き始める。その後ろから右手を回し、抱え込むように護岸へと戻ってきた。
しゃがみ込んだラファが右手を伸ばす。こどもの
「坊ちゃまっ!」
小夜子の短い叫び声にラファが振り向くと、散冴が左肩から沈もうとしていた。
「サンザさん、しっかり!」
飛び込もうとしたラファを小夜子が止める。
「わたくしが行きます」
「え? でも――」
「わたくしでは散冴さまを引きあげることが出来ません。それに……」
言葉を飲み込んだ彼女がフェンスに足を掛けながらよじ登る。ハーフコートだけでなくワンピースも脱いでいく。寒空のもと、靴も脱いで下着だけの姿になった小夜子からラファは視線を逸らした。
「それ、もらっていきます」
小夜子は戸惑っているラファのポケットから空のペットボトルを引き抜くと、乳房と下着の間に挟み込んだ。
その間にも散冴は必死にバランスを取ろうとしていたが、体を左へ傾けるようにして水の中へゆっくりと消えていく。
急いで冷たい運河に飛び込んだ小夜子は必死に手を伸ばし、かろうじて水面に残っていた彼の右手をつかんだ。散冴のシャツの隙間にペットボトルをねじ込むと、両手でしっかりと腕を握り直し、背面泳ぎで護岸へ近づいていく。
ラファは左手でフェンスの足元をつかみ、体を目一杯に伸ばして右手を差し出した。小夜子から渡された右腕をつかむと一気に引き寄せる。
ぐったりとした散冴の上半身が水の中から現れた。
騒ぎを知って駆けつけたのか、スーツ姿の若い男性と二人掛かりで運河から引き上げた。心配げなこどもたちと野次馬が周りを囲む。
続いて引き上げられた小夜子は、濡れて肌が透けた下着を気にするそぶりも見せずに散冴の肩に手をかけて横向きに寝かせた。目を閉じたままの彼の頬に手を添えて、口移しで息を送り込む。
すぐに散冴がむせてせき込み、水を吐き出すとうっすら目を開けた。
「よかったぁ」
安どの表情を浮かべるラファの前で、小夜子は黄土色の芝生に座り込んだ。いま気づいたかのように濡れた肩を抱き、体を震わせる。すぐにラファが彼女の服を肩にかけた。
遠くからサイレンが聞こえてくる。
散冴は体を起こすと二、三度せきをした。顔を上げると見回して、助けたこどもの姿を探す。うずくまる彼のもとには買い物帰りと思しき女性がそばについていた。あらためて、隣にいる小夜子へ目を移す。
「ごめんなさい、無茶をさせて」
「坊ちゃまに助けていただいた命ですから。これくらいは当然です」
そう返す言葉も笑顔も弱々しい。呼ばれた彼もそれを聞き流した。
サイレンの音が大きくなり、すぐに止まった。公園の入り口に救急車が見える。
「歩けますか」
ゆっくりと立ち上がった散冴が差し出した手を、小夜子は黙ったまま握り返した。
「部屋へ戻りましょう」
病院へ行ったほうが、と声をかけてきたスーツの青年に散冴は微笑んだ。
「ありがとう。でも大丈夫。少し水を飲んだだけですから。いまはとにかく寒いんです。熱いシャワーを浴びさせてください」
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