第八話 特急わかしお十二号
【上総一ノ宮~茂原間 12:35】
特急わかしお十二号は定刻通りに上総一ノ宮駅を出発した。
六号車の自由席は空席が目立つ。津島は二人掛けの通路側に座った。
すぐに進行方向の扉が開き、五十歳くらいの男が入ってきた。車内を見回しながら、通路を挟んで彼の隣へ座る。
津島の顔に緊張が浮かんだ。
男は髪が薄く、グレーのスリーピーススーツにえんじ色のネクタイを締めていた。
再び前の扉が開いた。車掌は車内に入ると一礼をする。
「特急券を拝見します」
「東京まで」乗車前に買う時間のなかった津島は、車掌に特急料金を支払った。
「東京まで。スイカで支払いますね」隣の男も特急券を買った。
「この列車は車内販売しているんですか?」
「いえ、この列車での車内販売はありません。申し訳ございません」
「いやいやそんな気にしないで。そうじゃないかと思ってお茶は買って来てあるので」
男はバッグを開けてペットボトルのお茶を車掌に見せた。
車掌は帽子のつばに手をやり頭を軽く下げて、後方へと進んでいった。
二人のやり取りを見ていた津島がバッグからコーヒーを取り出した。ボトル缶のキャップをひねり喉を潤す。
「あなたも用意してたんですね。やっぱり必要ですよね、飲み物は。車内販売があったとしても飲みたいときにやって来るとは限らないんだから。何事も備えあれば
突然話しかけてきた男に早口でまくしたてられ、津島はとっさには何も返せなかった。軽く会釈をするとさらに畳みかけてくる。
「東京までは約一時間、ちょっと本を読むもよし、仕事のアイデアを練るもよし。このすきま時間をどう使うかで、人生さえ変えてしまうのではないかと僕は思っているんですよ。これは決してオーバーなんかじゃなくって、この特急に十回乗れば、何もしない人とは十時間の差がつくわけですから」
無視することも出来ずに津島は生返事をした。
【茂原駅 12:41】
二十分ほど前に見たばかりの景色を巻き戻すように、特急わかしおがホームへと入っていく。
津島は黒いガラケーを取り出した。開いても、そこに着信を示す表示はない。すぐに閉じて胸ポケットに入れた。
「たしか東京までっておっしゃってましたよね。お昼ご飯はもうお済ですか? 僕はさっき駅前で味噌ラーメンを食べてきました。なかなか美味しかったですよ。なんて言ったっけな、あのお店」
男は休む間もなく津島へ声を掛ける。
「その書類ケース、かなりの厚みですよね。これから会議ですか? それとも終えられて会社に戻るのかな。まだお若いのにお一人で移動されてるということはそれなりのお立場なんでしょうね」
「何なんですか、あなたは。いきなり失礼な。少し静かにしてもらえませんか」
津島がいら立った声をあげた。
それにも動じず、男は笑みを浮かべたまま通路越しに手を伸ばして名刺を差し出した。
「失礼しました。私、細川と申します」
そこには人材コンサルタントと記されている。
「ヘッドハンティングの仲介や人材紹介をしております。実はここだけの話、平日昼間の特急に一人で乗車されているスーツ姿の方は、圧倒的に仕事ができる方ばかりなんです。経験上、間違いありません。仕事柄、こういう機会に一人でも多くお見知りおきになっておきたいと思いまして」
いぶかしげな表情の津島に「移動時間を有効に使うのが私の信条なので」と細川は言い放ち、さらに「もしよろしければお名刺をいただけませんか」と頭を低くして上目づかいで再び微笑む。
「お断りします」
「それは残念です」そう言いながら、名刺を返そうとした津島の手を押しとどめた。
「いやいや、いつかお役に立てるときがあるかもしれませんのでお持ちください。
先程までのなれなれしい態度とは打って変わって、深々と頭を下げた細川はスマホを取り出し、静かになった。
【大網駅 直前 12:48】
もうすぐ大網駅へ到着する。大網を出ると蘇我、海浜幕張の順に停車し、東京駅へは十三時三十五分に到着すると車内アナウンスが告げた。
津島はスーツの袖をまくり腕時計を見る。
【大網~蘇我間 12:55】
この車両へ大網から乗り込んできたのは二人。私服の若い男性と老婦人だった。
津島は男の座る席を目で追っている。
車窓を流れ去る景色から目を手元に移し、南条はスマホに指を走らせる。
画面には散冴からのメッセージが表示されていた。
『そちらはどうですか』
「順調。対象に動きは無し」
すぐに散冴から返信が来た。
『彼の様子は? 冷静さを欠いているように見えますか』
「警戒は強いが落ち着いている」
『では予定通り、海浜幕張を出た頃に』
そのメッセージを確認すると、南条はすぐに画面を切り替えた。
【蘇我駅 13:02】
扉が閉まり、速度を上げて列車はホームから遠ざかっていく。
蘇我からは五人の乗客が増えた。津島は座ったまま伸び上がるようにして前後を確認する。
検察に来た車掌へ彼が声を掛けた。
「トイレはどの車両ですか」
「後ろの七号車になります」
立ち上がった津島がちらと細川へ目をやった。あれからは話しかけてくることもなくなり、スマホを操作しながら合い間に車窓を眺めている。
身代金が入ったトートバッグだけを肩にかけ、彼は通路を歩いていった。
【海浜幕張駅 直前 13:10】
津島は黒いガラケーをしきりと気にしている。しかし、ショートメールが着信した様子はない。
【海浜幕張駅 13:11】
終点、東京への最後の途中駅となる海浜幕張を列車は出発していく。
「どうして接触してこないんだ」
津島のつぶやきを聞いていたかのように、胸ポケットの黒いガラケーから振動音が車内に響く。急いで取り出した彼は、ガラケーを開いてショートメールを表示させた。
『十三時四十分発の快速で新宿へ行き、十四時発のあずさ二十九号へ乗れ』
「えぇっ!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて顔を上げる。
こちらを見ていた細川へ軽く頭を下げ、表示されているメッセージをもう一度見つめた。
あごに手を当ててしばらく何かを考えるそぶりを見せた後、座席の背もたれに体を預けて目を閉じた。
ゆっくりと息を吸い、一気に吐き出すと目を開く。
バッグから自分の名刺を取り出して裏面に何かを書き始めた。
【東京駅 直前 13:33】
身支度を終えた津島は立ち上がると細川へ声をかけた。
「すいません。これ、私の名刺です」
そこには金央建設株式会社 設計部 第三設計室長の肩書がある。
「え、よろしいんですか」
驚いた表情を見せる細川へ名刺を渡しながら耳元でささやいた。
「東京駅に着いたら裏に書いてある人へ連絡してください」
細川が聞き返す間も与えずに津島はデッキへと移動した。
名刺を裏返すと、そこには『どうしても行けない事情が出来てしまいました。申し訳ありません。と伝えて下さい』というお詫びの文とともに、坂崎という名前と携帯電話の番号が記されていた。
【東京駅 13:35】
特急わかしお十二号が東京駅の地下ホームへと入っていく。
扉が開くと同時に津島は飛び出した。
ホームを走り、長いエスカレーターを駆け上っていく。
その後姿を細川――南条が見送った。
スマホを取り出して通話を始める。
「もしもし? サンザ君が書いたストーリー通りだねぇ。もう少しアドリブを使える場面があっても面白かったのに」
ホームのベンチへバッグを置き、立ち止まった。
「うん、うん、そうだね。このまま彼は新宿まで行くはずだよ。僕に置き土産も残したし」
南条は胸の内ポケットから津島の名刺を取り出した。
「この坂崎っていうのがプロジェクトの責任者だったよね。僕が坂崎に連絡をしてくれていると彼は思っているんだろうなぁ。可哀想に」
トランプのカードを扱うかのように、表と裏を交互に見せながら指の間に名刺を滑らせて再びポケットに入れる。
「はい、了解。それじゃ、僕の仕事はここまでだね。また連絡して」
通話を切った南条はゆっくりとエスカレーターに向かっていった。
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