第六話 津島

『……ソウダ……ジハンキノマエデコーヒーヲカッテイル……アノ、オトコニシロ。……オマエガカンガエロ。……コノケータイモイッショニワタセ。……ワカッテルナ……』

 ボイスチェンジャーを通した無機質な声が途絶えた。



 スマホの電子音が鳴り続けている。

 今度はベッドの枕元に置いてある古い時計から、けたたましいベルの音が響き始めた。


「徹夜明けじゃ、すぐには起きられないよ」


 自分へ言い聞かせるように男はつぶやいた。

 手を伸ばし、スマホの時刻表示を確認する。

 大きく深呼吸した後、んっという気合と共に上半身を起こした。ベッドから下りて浴室へと向かう。

 熱いシャワーを浴びて出てくると、洗面所の鏡に向かって語り掛ける。


「大丈夫。お前ならできる。必ずできる。お前ならできる」


 タオルで髪を拭きながらスマホを見ると着信の点滅をしている。

 LINEを開くと「PLプロジェクトリーダー坂崎」に一件の通知表示があった。


『津島、起きてるか。今日のプレゼンは頼むぞ!』


 坂崎への返信を打ってから、A4の紙を開いた。

 そこには「国際サッカー場建設コンペティション ヒアリングスケジュール」と記されている。ヒアリング会場は国際フォーラム、金央建設のプレゼンは十四時から一時間となっていた。

 書類ケースから分厚い資料を取り出す。

「細かい箇所を修正していたら朝方までかかってしまったけれど、大丈夫。俺ならできる。あんなに何度も読み込んだんだから」

 自身へ暗示をかけるようにつぶやくと津島は書類をめくり始めた。

 読み終えてから遅い朝食をとり、ストライプ柄のネクタイを締め、気に入っているブルーグレーのスーツを着込む。

「よしっ!」

 鏡の前で気合を入れてから家を出た。


 津島の乗ったバスが西船橋駅のロータリーへと入っていく。時刻は十一時になろうとしていた。

 バスから降りた彼はまっすぐに改札へは向かわず、広場の自販機でコーヒーを買っている。その時だった。


「す、すいませんっ!」


 いきなり男が走り寄って声を掛けてきた。

 警戒した津島が半歩下がり身構える。だが、どうやら様子がおかしい。

 年齢は彼と同じくらい、身なりはごく普通のサラリーマンだが顔色は青白く、十一月も終わりだというのに鼻の頭には大粒の汗が浮かんでいる。

「大丈夫ですか? 具合が悪いのなら駅の医務室まで一緒に行きますよ」

 心配そうに男の肩へ手を掛けようとした津島の右手を、両手で包むように握ってきた。

「お願いですっ、助けて下さい!」

 戸惑う津島の右手を男は離さない。

「息子を、息子を助けて下さいっ! お願いします!」

 男は目に涙を浮かべながら、手を取って拝むように額をすりつけた。


 通り過ぎる老婦人が二人の男を奇異の目で見ている。

 津島は男を道の端に寄せた。

「いったい何を言っているのか、まったく分からないんですけれど」

「すいません、でも時間がないんです」

 男は思いつめた表情で津島から視線を外さない。

「まずは落ち着いて。何があったか話してくれないと、何もしてあげられませんよ」

 ゆっくりと右手を下ろしながら、男の手から離す。

「そうですよね。すいませんでした、いきなりこんなお願いをして……」

 男はゆっくりと息を吸い込むと間をおいて絞り出すように言った。


「息子が誘拐されたんです」


 驚きが大きいからなのか、津島は声も出ない。

 黙っている彼を見て男は言葉を続ける。

「要求された五百万円を届けに来たのですが、向こうは警察に通報したんじゃないかと疑っていて……。他人に運ばせろと言いだし、あなたに頼むよう指示があったんです」

「はっ? これってどっきり企画ですか?」

「本当なんです!」

 男は目に涙を浮かべながらかすれた声を出した。

「あなたが嘘をついているようには見えないけれど、いきなりそんなことを信じろと言われても――」

 そこへタイミングよく呼び出し音が鳴る。

 男が取り出したのは黒いガラケーだった。

「はい……いえ……今、代わります」

 黙って男はガラケーを差し出す。

 津島は受け取ると恐る恐る耳に当てた。

「もしもし?」


 何かを探すように津島があたりを見渡す。

 ロータリーには発車を待つバスとシルバーのワゴンが一台。

 歩く人のほかには、改札の近くで立っている半袖ポロシャツ姿の若い男性くらいしかいない。ラグビー選手のように筋肉質な彼はコーラのペットボトルを持ちながら、片手でスマホをいじっていた。

 会話の相手を見つけられずにガラケーを耳に戻す。


「この人に運ばせればいいじゃないか。なぜ僕を巻き込むんだ」

 津島は困惑した表情を浮かべながら相手の話に耳を傾けている。

「ちょっと何を勝手なこと言ってるんだよっ!」

 いきなりガラケーに向かって、見えない相手を怒鳴りつけた。

 様子を見守っていた男があわてて津島にすがる。 

「大きな声を出さないで! 廻りから不審に思われたらマズいです」

 二人は辺りを見回す。

 こちらを気にしている人はいないようだ。

 津島は通話をつづけながら男に頭を下げ、声を潜めて抗議の意を伝える。

「僕にだって今日は大切な用事があるんだ。どうしてもこの人を信用できないというなら、他の誰かにしてくれ」

 男は固唾をのんで話の行方を見守る。

「いや、それは……。分かった、僕も通報しない。約束する。だから――おいっ、もしもし? もしもし!」


 ガラケーを耳から離した。

 すぐに掛けなおそうとしたが相手は非通知設定になっている。

「切られてしまいました。この事実を知ってしまった以上、もうお前は無関係ではないと言って……」

「本当に巻き込んでしまって申し訳ないと思っています。でも、どうか息子の命を救ってください。お願いします!」

「犯人は、時間がないから急げと言ってましたけど」

「そうなんです。初めはこの西船橋駅までお金を持ってくるように指示されたんですが、その後で上総一ノ宮駅、十二時三十四分発の東京行き、特急わかしお十二号へ乗れと言ってきたんです」

「えぇっ!? 今から間に合うんですか?」

「十一時十五分発の総武線に乗れば、船橋で快速に乗り換えて蘇我で乗り継げば上総一ノ宮には十二時三十二分に着きます!」

 腕時計を見ると十一時十二分になろうとしていた。

「時間がないじゃないですかっ」

「どうかお願いします! 和樹を助けて下さいっ!」

 津島の右手を両手で掴み、男は深々と頭を下げた。


「あーっ! もうっ!」


 津島は怒りとも悲しみともとれるような顔を浮かべた。

 口を真一文字に結んでぐいっと左手を差し出し、お金が入っている小さめのトートバッグを男から受け取った。


「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 何度も頭を下げる男と一緒に改札へ走りながら、犯人からの連絡用ガラケーをポケットに入れる。

「あっ、私の携帯番号もメモします」

「早く、急いで!」

 津島はメモをひったくるようにして受け取り、ホームへと走った。

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