23

「〝――――〟」

 一人が命じ、数人がイリスに向かってきた。イリスは観念して力を抜いた。それでも、近づく気配にこらえきれず目を閉じた。


 だが、彼らはイリスを素通りして、倉庫の中へ、地下へと降りていく。


「え?」

 拍子抜けしたイリスは、次の瞬間我に返り「ノイ!」と叫んで倉庫に戻ろうとしたが、その腕を掴まれた。

 マフィアの男は何かを言って首を振る。何故か、その手は振りほどけるくらい優しく、明らかに制止なのだった。

 これは、どういうこと? 何が起こっているの?

 理解が追いつかず目を白黒させていると、奥から怒声が聞こえてきた。イリスは顔を青くし、置いてきた少年の行方に最悪な想像をしてしまう。しかし、すぐに「イリス!」と声がした。彼女は泣き顔で駆けてくる少年を抱きしめた。

「ノイ!」

 温かい身体を抱きしめ、傷がないか確認する。

「ああ、ノイ」

 ノイはにっこりした。だからイリスももう一度安堵の息とともに抱きしめた。


 やがて慌ただしい足音を響かせて、「いてえ! いてえ!」と泣き叫びながらルイとマイクは腕をひねり上げられて姿を現した。マフィアたちは兄弟を突き飛ばすようにして二人を連行する。

 荒くれ男たちは、何故かイリスにもノイにも手を出さず――それどころか、ウインクを投げかけて何か言ってくるような人間もいて――イリスの思考を盛大に混乱させて、一人残らず去っていってしまった。

「……どうなってるの?」

「上から命令が、って言ってました」ノイが弾んだ声で言った。「迎えが来たんだ!」

「失礼いたします」聞き覚えのある声が響いたのはそのときだった。

「レディ・イリス、ノイ君、ご無事ですか?」


「スウさん?」こんな場所でもすっきりと執事の姿形をしたスウに、イリスの混乱は更に増すばかりだった。彼が来たということは、フラムは?

「お迎えに上がりました」スウは静かに言った。イリスの疑問を解き明かす答えのためのヒントを。だが、イリスはまだまったく想像もついていなかった。街の隅の倉庫から、自分がどこへ連れて行かれ、誰と会うことになるのかを。


「どうぞ、こちらへ」






 イリスは来た時とはまるで正反対な高級車に乗せられ、いずこかへと運ばれていった。土ぼこりにまみれた姿で、黒革のシートを汚すことに気がとがめたが、そんなことはスウの気にするところではないらしい。意外だったのはノイが平然としていたことだ。相手がスウだというばかりではない。これから起こることを、まるですべて知っているかのように落ち着き払っている。


 車はトゥイ市街の高級ホテルの前で停まった。イリスは、薄汚れたままのシンデレラがお城に連れてこられたのと同じ気分を味わった。

 スウに先導されるまま、ホテルの上階に向かうと、何故かそこでシャワーを浴びるように言われた。着替えは用意しているという。ノイはイリスを待つと言って、部屋に留まることを決めていた。自分のあずかりしらぬところで、事態はめまぐるしく動いているらしい。外側から内側へ、渦の中心へ。

 シャワーを浴びたイリスは、ホテルのスタッフによって全身を磨かれた。まるで結婚式にのぞむようだわ、とイリスはぼんやり考えた。新婦にはなったことはないけれど。

 髪をゴージャスにカールされた頃、イリスは再び見知った人物に目を瞬かせるはめになった。

「エレン?」イル・マリネンのデザイナーは、大勢のスタッフを引き連れてイリスの前に現れた。「どうしてあなたが?」

「ドレスを着せに」くすくすと笑いながらエレンは答えた。「自信作なんですよ」


 スタッフたちは、まるで女神にかしずく天使たちのように、イリスにぴったりとつき、彼女にドレスを着せていった。流れるドレープを見て、イリスは思わずため息をついた。流れるドレスは白、それだけでなく、青、赤、緑。オパールのようなきらめきで彼女の足下を彩り、彼女が動いたり、裾が揺れたり、見る人間が変われば、決して同じではない輝きを周囲に放った。周囲から吐息が漏れた。

「私の見立てに間違いはなかったみたいですわね」エレンは満足そうだった。「お名前をうかがったとき、決めたんです。虹の女神イーリスのようなドレスにしようって」

「エレン、私……」イリスの胸は高鳴ったままだった。美しいドレスもある、身にまとった自分もいつもとは見違えるほどだ。しかし、これを着て誰に会いにいけばいいというのだろう?

 エレンは戸惑う彼女の手を取った。片方の手はノイが握っていた。

「さあ、まいりましょう。あなたの会うべき人のところへ」


 いくつもの扉を抜け、導かれたさきには彼がいた。決して、トゥイの資産家一族ではなかったはずの彼が。


「フラム?」

 そんな格好をしているとトゥイの王子様のようだわ、とイリスは思った。黒い、トゥイの民族衣装の一揃えを来ている彼は、王子のようでもあり、騎士のように凛々しくもあった。

「〝トゥンイラン様!〟」イリスの手を離してノイが駆けていく。

 駆け寄ってきたノイを抱きとめた彼は言った。「〝すまなかった、よく黙っていてくれた〟」少年の頭を撫で、フラムは物静かさをたたえる黒い瞳で立ち尽くすイリスに微笑みかけた。

「私がトゥンイランです」フラムは言った。


「私の名前は、トゥンイラン・フー・ラム。トゥンイラン一族首家、コウ・イムの息子、フー・ラムです」

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