アリス――鏡の中の(6)



「……何でてめぇがここにいるんだよ、おぅコラ?」


 タクシーに揺られ、しばらくして到着した先にあったのはとある病院。そして、薄暗い廊下を背を丸めて歩く白兎はくとさんを必死で追い駆けているうちこの病室へと辿り着き、ベッドの上で腕組みしている部屋の主にいかにも不機嫌そうな顔付きで、じろり、と睨まれたのでした。


「おいおいおい。随分なご挨拶だな。こっちはわざわざ見舞いに来てやってるっていうのに」

「ちっ、頼んでねぇっつうの。あ、お嬢のご学友の、そちらのお嬢さんは大歓迎ですからね」

「あ、あは……あははははは」


 この二人、相変わらずですね……。


 そう、そこにいたのは薄青の作務衣さむえを着た蛭谷ひるやさん。一見、パイプベッドの上で寛いでいるだけのようですけれど、半身を覆う寝具の端からは数本のチューブが垂れ下がり、にび色のスタンドから吊り下げられた点滴へと繋がっています。ぽたり、ぽたり――途中にある透明な筒の中で、同じテンポで滴が落ちていくのを見つめていると、時間の流れが遅くなったよう。


「お元気そうで良かったです、蛭谷さん。あたし、心配してたんですよ?」

「そりゃあ、何だか悪かったな。へへっ、まあこの程度の傷の一つや二つ、何ともねえって」


 蛭谷さんはわざと陽気にそう嘯くと、ぽん、とお腹のあたりを平手で叩くフリをします。


 が――何故だか室温が一気に下がったような錯覚が?


「そうやって大見栄張って……すぐ調子に乗るのがあなたの悪い癖です、蛭谷」

「お、お嬢……っ!? い、いや、そ、そのぅ……こ、これはですね……アレですよ、アレ」

「お嬢は止めてください、と何度言えば良いのです? もう数えるのも面倒なんですから」


 病室に入ってくるなり溜息をついたのは円城寺えんじょうじさん。トレイの上には切子模様の藍色の花瓶に活けられた一輪の向日葵ひまわりが載っています。もう一度、じろり、と蛭谷さんに冷たい視線を浴びせてから、円城寺さんはベッド脇の窓際に置かれたチェストの上にそっと飾りました。


「この向日葵、とっても可愛くって素敵ですね。これ、杏子きょうこが選んだんです?」

「ふえっ!?」


 なんとなーく尋ねてみただけなんですけれど。


 突然円城寺さんは真っ赤に顔を染めて普段あまり聞いたことがない変な叫び声をあげると、丸椅子の上で数センチ飛び跳ねたのです。


「た――たまたまよ? たまたまこれが目に入ったから! それだけ! それだけなのっ!」

「?」


 はて? やけに慌てた様子の円城寺さんには首を傾げるばかり。隣ではどうやら何か思い当たったらしい『自称・名探偵』さんが声を押し殺して笑っていましたが、半ば涙目になった円城寺さんに、きっ! と睨まれてたちまち姿勢を正すと、取り澄ました顔でこう尋ねます。


「こほん……。ところでこの野郎の傷の具合はどうなんですか?」

「あぁん? この野郎ってのは誰のことだ、喧嘩売ってんのか?」

「あのな。気を遣ってみやげまで買ってきたのに、何だその言草いいぐさは」

「腹切った奴にフルーツの盛り合わせ持ってくるたぁ厭味いやみか馬鹿か」

「はなからお前に喰わせるつもりがないからだろうが、気付けよ」

「そもそもな、てめぇのチンケな作戦がお粗末だったせいだろが」

「んだと、この野郎!」

「やんのか、あぁ!?」




 んっ――――――おほんっ。




「「……すみません」」


 円城寺さんが片眉を吊り上げ芝居がかったわざとらしさで咳払いを一つすると、二人はたちまち叱られた飼い犬のごとくうなだれ首をすくめます。はぁ、まったく進歩のないこと……。




 担当医曰く、腹部の刺傷は初見どおり臓器の損傷もなく、筋肉層に一部断裂があったものの内出血もごく少量だったため比較的短期間で治癒するだろう、とのこと。ただし、刺傷のケースで最も危険なのが細菌感染とのことで、当面は入院療養すべしとのお達しだったそうです。




「それで……あの……」


 ひとしきり他愛もない話をした後、円城寺さんが強張った表情でおずおずと切り出すと、白兎さんは一つ息を吐き、ゆっくりと口を開きました。


「聞きたいのは――田ノ中たのなか幸江ゆきえのことだな?」

「はい……」


 蛭谷さんの目つきが刺すように鋭さを増し、円城寺さんとあたしは沈んだ表情で俯きます。けれど、白兎さんただ一人は苦々しいながらも笑顔を見せました。


「大丈夫――だなんて、無責任なことは言わない。ただ、少なくとも当面は出てこれないな」

「……そりゃどういう意味だ?」

「正式な精神鑑定結果が出るまでしばらくかかるらしいがともかく正常じゃないってことについては確定的で、判決がどう転ぶかは別にしろ、メンタルケアが必要だと考えているようだ」




 逮捕後の取調の場において彼女は、終始自身が『円城寺杏子』である前提で受け答えをし、まるで田ノ中幸江だった事実すら忘れてしまったようだったそうです。白兎さんが情報元の方から伺った言葉をお借りすると、『一年前より昔の記憶の大部分を誰かに消されてしまった』としか考えようがない言動が数多くみられ、また、勾留が一日また一日と伸びるたび自傷行為・自殺衝動が目に余るようになり、そのあまりの異常・特殊さゆえ、精神鑑定結果以降も引き続き精密検査を行ったうえでしかるべき一定量の治療を行う、という判断に至ったそうです。




「ま、誰にでも分け隔てなく優しい君のことだ、きっと彼女のことについても同情しているんだろうが……。どういう判決でどういう結果になるにしろ、彼女はいずれかの施設に入れられて四六時中監視されることになるだろう。それも数年単位で。だから君は忘れるべきなんだ」

「………………はい」


 どうやら図星だったらしい円城寺さんは落ち着かなげに視線を泳がせながら、言葉少なにぎこちなく頷きます。一方ベッドの上の蛭谷さんは、衝撃的な話を真正面からストレートに伝えた白兎さんの無神経さに苛立ちをあらわにして不機嫌そうに乾いた舌打ちを一つしました。




 あたしも、もちろんショックでした――でしたけれど。




 と同時に、それ以上に奇妙な感覚を抱いている自分に気付かされ、ただ純粋に驚き、戸惑っていたのです。これは一体……どういう感覚、感情なのでしょうか。


 好奇心? 探求心? 正義感? 勧善懲悪的な何か?


 もっと、恐ろしい、怖い、と感じてもおかしくないはずなのに。

 気持ち悪い、嫌だ、見たくない、と逃げたっていいはずなのに。


 ひどく冷静に、いや、冷徹とも表現できる視点で『観察』しているあたしがいたのです。


(祥子ちゃんはこっち側のニンゲンかと思っただけだから――)


 そう、いつか白兎さんはそう言いましたっけ。

 ある意味、その見立ては正しい――正しかったのかもしれません。




「……まあ、いずれにしろ、だ」


 やがて重苦しい雰囲気の中で口を開いたのはまたもや白兎さんでした。


「『四十九院つるしいん探偵事務所』が請け負った依頼はこれで終わりじゃない。引き続き調査を進めていくつもりだし、彼女の動向には常に目を光らせておく。あとは……この野郎が無事退院できさえすれば、警備面での不安や問題はなくなるだろうし。……だろ?」

「この野郎、は余計だっつうんだよ、探偵」


 蛭谷さんは露骨に顔を顰めます。が、じきににやりと口元を歪めて不敵に笑いました。


「相手の正体が分からないままじゃあこっちも迂闊うかつに手が出せなかったが、分かっちまえばなんてこたぁない。ま、誰だろうが構うもんかよ。俺ぁ何度だって命張ってお嬢を守ってみせる」

「そうそう、その意気だ。その調子で一生かけて守り抜いて、絶対幸せにしてやるんだぜ?」


 真剣な眼差しで言い切る蛭谷さんと隣の円城寺さんを交互に見比べ、白兎さんは言います。


「な――っ!? て、てめぇ……何をふざけたことを……! って……えっと、お、お嬢?」

「………………よ、よろしく……お願いします」



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