美しきにはメスを(10)
建付けの悪いドアの中途半端な隙間に苦心して滑り込むと――いいえ、
「うわぁ……」
一歩足を履み入れると、そこここに点在する油絵具や木炭、チョーク、シンナー、木屑、古びた紙などが発する独特の淀んだ香気が鼻先をくすぐります。わずかに開いた遮光カーテンの隙間からやや傾いた日差しが辛うじて差し込んできて、オレンジ色の煌めきの中に舞い立った埃たちが微生物のように踊ります。さらに奥へと足を進めると、頑丈そうな鉄製ラックの中に大量の作品が置かれていました。
「随分とたくさんあるのね」
「全て我が校の貴重な財産で芸術だからな。さすがにある程度年数が経過したものは、群を抜いて素晴らしい出来栄えの作品を除いて、学校で契約している倉庫に預けるようにしているよ」
ところどころに目印として『平成○年度』と書かれたインデックス代わりの色画用紙が挟まれています。これによれば――ああ、今年の分はここにあるみたいですね。
早速一枚一枚確認していく赤坂先生でしたが――どうも様子がおかしいです。
「おかしいな……。途中退部とはいえ、全部ここにある筈なんだが。……見当たらないぞ」
「浅川さんと竹宮さんの描きかけの作品が、ってこと?」
「いいや、そうじゃない」
赤坂先生は一旦探す手を止めて、今度はシーツを被せて立てかけてあるイーゼルの方を一つ一つ見て回ります。が――やはり成果は
「あんたはずっと『描きかけだ』と言っているけどな。浅川の方は描き終わっていたんだが」
「……え!?」
予期せぬ赤坂先生の一言に、思わず安里寿さんとあたしは小さく悲鳴に似た叫びを漏らし、目を合わせました。何故ならあたしたちは、
そんなあたしたちの動揺をよそに、赤坂先生は無雑作に髪に手を突っ込んでぼりぼりと描きながら、不思議そうにこう言葉を添えます。
「何を驚いてるのか知らないがね、俺には浅川には才能の片鱗が見えたよ。特徴を掴まえるのが上手いし、線が物怖じせず生き生きとしていた。まあ、素人の怖いもの知らず、って奴だ」
「それが……見つからないんです?」
「ああ、ないな。その代わりに竹宮の作品なら見つけた。こっちは正真正銘の描きかけだが」
赤坂先生はラックから一枚のキャンバスを取り出し、あたしたちにも見えるようにうっすらと埃の浮いているスチール机の上にそっと置きます。その色の無いモノトーンの線画は、辛うじて人物画であるようだと察することができる程度の大雑把な出来で、幾重にも引かれた鉛色の線が乱雑に絡み合いもつれ合っていて、まだまだ完成にはほど遠そうに思えます。
「まだスケッチの段階、ってところかしら? でも……変ね? 二人の人物が描いたみたい」
「あんた、妙に勘が良いな。本当に一体何者なんだ?」
赤坂先生は細くすぼめた眼を見開くと、隣に立つ安里寿さんを
「竹宮はな、センスに乏しいが教わるのが上手かった。……いや、建前はなしだ、竹宮は霧島との付き合い方、扱い方が上手だった、そういうことだ。だから、過剰に手を出し口を挟み懸命に教えようとする霧島の行動を一切拒まなかった。自分の作品に手を入れられようともな」
「でも、それを快く思わなかった子もいたのね。でしょう?」
「……こんなやり方は、熱意に水を差すようなもんだ。指導でも教育ですらない」
赤坂先生は安里寿さんの質問には答えず、そういっただけで苦々しく首を振るだけです。
「だが少なくとも竹宮と霧島の二人は、彼女たちなりの関係性を築こうとしていたんだと俺は思っている。たとえそれが、他人の目から見て明らかに間違ったやり方だったとしても、だ」
「なあんだ。意外とちゃんと見守ってあげてるんじゃない、セ・ン・セ・イ?」
からかうような安里寿さんの台詞に露骨に顔を
「しかし……一体どうなってるんだ? どうして浅川の作品だけが無くなってる?」
「あ、あの……いいでしょうか」
そこでほぼ空気になりかけていたあたしは、遠慮がちにこう指摘します。
「無くなった作品は、二つ、なのではないでしょうか?」
「……続けろ」
ぎろり、と赤坂先生が鋭い視線を向けたので反射的に
「こ――この準備室から無くなった作品は二つあります」あたしの脳内で徐々にその考えは確信へと近づきます。「そのうち一つは浅川さんの作品。もう一つは――霧島さんの作品です」
しばらく赤坂先生は瞬きもせず怖い顔をしてあたしを見つめています。一方、その隣に立つ安里寿さんも口は開きませんでしたが、その瞳には何かの閃きが宿っていました。
長々とした溜息が聴こえます。
「霧島の作品がどうなったのかは君が良く知っている筈だろ? 当事者の一人なんだからな」
「えっと……。あ、赤坂先生は、それをご自身の目で確かめましたか?」
「……何?」
怒るより先に、戸惑い、狼狽したような赤坂先生の声にあたしはこう告げます。
「あたしが見たのは、真っ赤な油絵具で一面くまなく塗りたくられ、X字に切り裂かれてしまったキャンバスだけ、それだけです。あれは本当に霧島さんの作品だったのでしょうか?」
あたしの質問を耳にすると、赤坂先生は咄嗟に口を開きかけ――閉じて、顎に手を当て何やら小さく呟きながらその時の様子を思い出そうと考え込みます。
「あのイーゼルは確かに……いや、たとえイーゼルが霧島の物だったとしても、そこに掛けられていた作品が必ずしも霧島の物とは限らない。あの時は君たち二人の無事ばかり気になって、台無しにされてしまった作品が一体誰の物だったかはきちんと確認していなかった……」
そして徐々に尻つぼみになっていく台詞とともに、赤坂先生の表情が険しくなります。
「もしかして……あれは、浅川の作品だった? おい、そういうことなのか!?」
「か、かもしれない、って可能性の話ですよぅ……」
「もし仮にそうだったとして、誰がそんなことをするっていうんだ? 何のために!?」
「ちょ――ちょっと落ち着いて」
けほ、とあたしは咳払いをします。だって、突然だったんです。いきなり動揺を露わにした赤坂先生に胸倉を掴み上げられてしまい、数秒あたしの身体は宙吊りになっていたのです。安里寿さんが慌てて割って入って止めてくれなければどうなっていたことでしょう。
ああ、こういうことがあると、やっぱり、って思ってしまうのです。
男の人なんて、みんなこうなんだって。
粗暴で、感情的で、ひとたび目の前が見えなくなると動揺して途端に腕力に頼るのです。
そんなものでは何も解決しません。何も。
とりわけ、今あたしたちの目の前に転がっている謎に関しては特に。
その時、あたしたちの背後で準備室の扉がゆっくりと開きます。そこから恐る恐る覗き込んできたのは――何事かを悟ったかのような強張った表情を浮かべた小さな顔だったのです。
「そろそろ時間だから、と部長に頼まれました。あと部活が終わったら……お話があります」
霧島
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