第12話 回転の途中

 風景がひっくり返って、青空がおれの足元に広がり、明るい朝日を浴びた屋根や教会の尖塔がやけに目にもくっきりと飛び込んできた。本当は横転しながらとらえた情景なので一瞬しか見ていないはずだが、そのまま静止してしまったように思われた。いまでもその時のことを思い出すとその光景がありありと思い出される。

「死に損なったな」

 病院に見舞いに来た級友たちにそう言われたので「そうか死に損なったのか」と思ったが、自分ではあまりそんな意識はない。ただ自分の足先に広がる青空と、何もかもが明るくまぶしくカラフルに輪郭を際立たせて迫って来る風景のことを思い出すだけだ。そこでは空気は爽やかに澄んで、台風が過ぎた朝の異国めいた香りがかすかに漂う。


     *     *     *


 警察の人間が何回か訪ねてきて事故当時の様子を聞き出そうとしたが、おれには何を言っているのかさっぱり分からなかった。その時おれはそれまでのおれのことを全く何も覚えていなかったのだ。唯一覚えているのがひっくり返った光景だけで、その他は自分が誰で、どこに住んでいて、家族は何人で、いま何歳で、何をしているのか、全く思い出せなかった。だからどうしてそのトラックの横転事故に巻き込まれることになったか、なぜその荷台に乗っていたのかなんて経緯は知るはずもない。


 見舞いに来てくれる級友たちのことも誰一人わからなかった。たくさん来るのだから一人くらい思い当たる人がいるかと思ったがダメだった。先生も、ガキの頃からの近所の幼馴染も、全然誰だか分からない。母親に教えられて学校の関係者の顔と名前を覚え直し、親しかったという古い友人について復習し、教えてくれる母や父や妹について脳に刻み込んだ。


 不思議と不安はなかった。


 あの光景以外はまっさらになってしまったおれの脳みそは、いろいろなことを覚えることを喜んでいるようだった。それは身体が回復して退院し、学校に通うようになってからも同じだった。授業は面白かった。どの教科も最初は何を言っているのかさっぱり分からなかったが、そのあまりのわからなさがおかしくておかしくてたまらなかった。おれはほとんど噴き出しそうな顔をしていたに違いない。あまりにも幸福そうな顔をしているからか、どの先生もおれの方を向いて話しかけるようになった。そりゃあ、目がキラキラしている生徒の顔を見ていた方が教える側だって気分がいいんだろう。


 やがておれはどんな人にでもなれることに気づいた。セリフを用意して、それなりのシチュエーションを用意すれば、生真面目なガリ勉タイプでも、おとなしい引っ込み思案タイプでも、女の子に歯の浮くようなことを連発で言う軟派タイプでも、やろうと思えば何でもできたし、何をやっても楽しくて仕方がないので緊張することもなかった。それでおれは進学した大学で演劇部に入って役者になった。劇団の女優のほとんどと付き合ってそれがばれてやめさせられたけど、それでもおれはそのことも面白がった。


 やめさせた奴らを見返してやろうとか、そこまで考えていたわけじゃないが、プロの劇団に飛び込んで、早い段階でチャンスに恵まれて、舞台だけでなく映画やテレビにも出演できるようになって、まあ後はみなさんご承知の通り。写真週刊誌や夕刊紙やスポーツ紙のいいカモになってるのも、まあだいたい事実の報道だ。本当にひどいでっち上げの記事はごく一握りだ。後で調べたらあの記事を書いた記者はおれが一時付き合ってたアイドルの大ファンだったらしい。記者も記者だけどそれを通すデスクもどうかしているよね。


 なんでこんな話をしてるのかって? わからない。ただね、おれは思うんだ。いつかあそこに戻るんじゃないかって。あの瞬間に。天地がひっくり返った光景を眺めていたあの瞬間に。あのさ、鋭いことを言う人がいたんだ。学生劇団をやめさせられた後もしばらく、劇団の二学年上の制作の女性と付き合っていた。この人が言った。「どこにいるのかわからないのよ」ってね。「本当のあなたがどこにいるのかわからない」


 それどういうこと?と尋ねたら、「舞台でのあなたの演技はとても真実味があるけれど、現実のあなたは何を言っても全部がつくりものみたいに嘘っぽく感じられる」だってさ。それはね、もう全くその通りなんだ。なぜならおれはあの日のあの事故以来、からっぽだからだ。本当のおれと呼べるのは天地がひっくり返ったあの瞬間の映像だけ。あとは全部、その場その場でつぎはぎしたものばかりだ。


「嘘と演技か」

 おれがつぶやくと、ほらそれがもうセリフくさいのよと、その人は笑いもせずにタバコの煙を吹き上げた。その途端、急にあの光景が浮かんできた。宙で渦をまくタバコの煙に触発されたのかもしれない。静止していた風景が、煙と一緒に回転を始めたような気がした。このままおれは自分や周りの乗客が投げ出される様子を全て思い出して、なぜそのトラックに乗ったのかも、どこに行こうとしていたのかも思い出すんじゃないかと思えた。でもその前に煙は消えた。


 いつかまたそういうことが起きる気がする。その時にはそのまま風景が回り続けて、目が覚めたらおれはまだ高校生で、そこはまだ事故現場で、頭を抱えて道端に座ってるんじゃないかってね。それか、病院のベッドで見舞いに来た奴らに「死に損なったな」なんて言われてるんじゃないかって。え? 嘘っぽいって? まあな。まあ、そうかもしれんな。でもそうでなければ、おれはあの日以来ずーっと演技をし続けていることになっちまうんだよ。


(「嘘と演技」ordered by せごえ(水頼走戌) -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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