第4話 アポイの丘で

 テストテスト。あーあー。

 聞こえますか? ぼくの声は聞き取れますか?

 えーと。元気にしてますか?

 ご機嫌ですか?


 ぼくは、そうですね。わりとご機嫌です。三年ばかり吹き荒れたプラズマ嵐も落ち着いて、精神の錯乱も少なくなりましたし、先月あたりからいわゆる気候も穏やかになってきて、極端な日較差がなくなってきたのでずいぶん過ごしやすいです。先月あたり……そう、この星でもぼくは地球のカレンダーでカウントしているんです。この星の公転周期とは一致してないんですけどね。でも幸いなことにだいたい7倍すれば地球のカレンダーと一致します。ここでは52日で恒星の周りをぐるっと回ってしまうんで、それを7回繰り返すと1年たちます。2週間おきに季節が変わるのでせわしないし、それ以上に日較差が半端じゃありません。


 理由はわかりませんが、自転はほぼ24時間です。これって何か同じになる必然的な背景があるのかもしれませんが、その辺のことはぼくにはよくわかりません。リンダがいれば、たぶんわかりやすく式にしてくれたり図にしてくれたりして上手に解説するんだろうけど、残念ながらここにはリンダはもういません。ここに来るまでの航海中に何度かリンダと一緒に起きている時間があったのですが、そういう時、彼女は世の中のいろんなことを、とてもわかりやすくぼくに教えてくれました。ぼくだってこういう仕事に就く以上、それなりに勉強もしたし、厳しい競争に生き残るだけの知識や教養を身につけていたつもりでしたが、リンダの前ではまるで小学生に戻ったような気分でした。見事だったな、あれは。


 ご心配なく。リンダは一世代上の女性だし、たぶんぼくのことも子どもくらいに思って何くれとなく世話してくれたり教えてくれたりしたのです。あなたが妬いたりするようなことは何もありません。ご安心を。あなたに妬いてもらえるとは思いませんが、まあ、ジョークとして聞き流してください。


 今日はいい天気です。次にプラズマ嵐が来るのは2年くらい先、季節にすれば14個先になりそうだし、今朝は氷点下5度くらいで始まって、いまが摂氏28度。お昼ごろにもせいぜい50度いくかいかないかですみそうです。ちなみにこれはこの星の日較差としてはマシな方です。もう2か月くらいこういう穏やかな気候になっているので、たまには外に出て散歩することもあります。今日、こうして通信することを思いついたのも、実はさっきの散歩の途中のできごとがきっかけなんです。


 その話をします。


 我々が、といってもいまはもうぼくしかいないんですが、我々が「アポイの丘」と名づけた高地は、全体がカンラン石でできていて、この土地にも火山活動があったことを示しています。全体にごつごつとして起伏に富んでおり、登るにも降りるにも困難が伴います。けれども苦労して登った、通称「見晴し台」からの景色は何ものともかえがたい絶景です。写真や、あるいは動画の資料などでご覧になったことがあるかもしれませんね。自分が登ってきた方を振り向くと、この星の最も優れたパノラマがそこにあります。


 黒々とした、ちょうど地球の夜空のような黒々とした紺色の空には、大きい方の太陽と、その影に連星の小さな太陽がひそみ、Qの字のようなフォルムで光を放っています。もうひとつあるはずの小さな恒星は常に隠れていて見えません。足元の広大な原野には変わり者の彫刻作品としか思えない奇岩やおそらくは植物体がにょきにょきと立ち並んでいます。その多くは高さが40〜50メートルもあって、体長20メートルの巨人が作った巨大なオブジェだと言われたら信じるしかありません。実際にホボルとクラカハフトの2人は、ひとつの植物体を選んで巨大彫刻の制作に取り組んだものです。まあ、それが原因で命を落としたので、ほめられた話ではないのですが。ただあの2人からすると、命を落としてでもそうするほかなかったわけです。


 見晴し台の反対側には大峡谷が出現します。いまは地表に一切水がないこの星にも、かつては水の流れがあって、山塊を削り、侵食し、どこか遥かな海まで土砂を運び去っていたことをうかがわせます。もっともこれも体長1キロメートルくらいの超巨人が、自分の楽しみで砂遊びをしたのだと言われたら信じてしまいそうなところがあります。長い年月をかけて水が浸食したにしては、ところどころで出鱈目な思いつきのようにえぐれていたり、急に出っ張っていたり、幾何学的な岩の塊、たとえば三角錐や正十二面体など人工物にしか見えない岩の塊が、あるいは斜面に埋もれ、あるいは細くなった岩の上におそるべきバランスで乗っていたりするからです。


 そしてここには強い風が吹いています。いつでも強い風が吹いています。息も詰まるような風、なんて生易しいものではありません。ときにはものすごい突風が吹いていて、そうでない時には、もっとずっとものすごい突風が吹き荒れている、といった具合です。ぼくはこの突風が大好きです。しがみついている岩肌からぼくをはがしとって、大峡谷に吹き飛ばそうとするこの突風が、たまらなく好きです。見晴し台なんてのどかな名前をつけていますが、本当は、ここはそこにいるだけで命がけの場所なんです。ここに来ると死ぬのなんて一瞬のことだなとよく思います。


 実際、到着直後に命を落としたリンダを始め、ンゴデバマク隊長も、シンシアも、さっきのホボルもクラカハフトも、命を落とした時は一瞬でした。幸いなことにここ、アポイの丘の見晴し台で死んだ者は奇跡的にいませんが、みんな死ぬ時は一瞬でした。唯一の例外が猫のオドレイですが(長い病気の果てに、でも最後はどこかに姿をくらましてしまったので、やはり一瞬で消えた印象があります)、いずれにせよ死ぬ時は一瞬だという定理を確認するために、まるでそのことを証明するためにこの星にやってきたようだとさえ思います。ああ、これはちょっとシニカルになり過ぎですね。


 今日も見晴し台に行ってきました。そして急にあなたのことを思い出しました。わたしグズなんだよね、とあなたは言いました。まるで会社の困った後輩の話でもするみたいに。やらなきゃいけないのはわかっているの、やればすぐ終わるのもわかっているの、でもなかなか手を付けられないの、ねえどうしたらいいと思う?と。あの時ぼくは上手に答えることができませんでした。思えばぼくはいつだって、あなたの質問のほとんどに上手に答えることができませんでした。もちろん答なんて必要なかったんだ、ただ黙って抱きしめてあげれば良かったんだ、という言い方もできます。あなたはそう言いました。答なんてなくていいからぎゅっとしてくれればよかったのよ。そしてぼくがそうしようとしたら、もう遅いのと言って、新しい彼のところに行ってしまいました。


 すっかり忘れたと思っていたのになあ。今日、見晴し台の岩にしがみついて突風に吹かれながら、あなたのことを思い出しました。大峡谷に面した何もかもを吹き飛ばし、惑星の表面にある一切合切をひきはがしてしまいそうな突風に耐えながら不意にあなたのことを思い出しました。そして思ったんです。ここにくれば死ぬのなんて一瞬なんだってわかるのにな、と。ぼくは最後の生き残りとして、そのことを肌身にしみて知っています。明日生きているという保証はどこにもない。アポイの丘からの帰りに転落死することだってある。ンギー隊長のように。それどころか、いまこの瞬間に吹き飛ばされて死んでも何の不思議もない。そう思うとね、ぼくは日々やり残したことのないように過ごそうと思うんです。基地に帰り着いたら、いつ死んでも構わないように、淡々とすべきことに取り組めるんです。


 だからもしあなたが、自分はグズだなと感じたら、ここ、惑星セペタ5の、アポイの丘のことを思い浮かべてみてください。そこには言葉では表現できないような絶景が広がり、星ごと吹き飛ばしてしまいそうな、この星ごと地球まで吹き飛ばしてしまいそうな突風が吹いて、あなたの命を奪おうとしています。死ぬのなんて一瞬だな。そう感じたら、あるいはあなたも、いつ死んでも構わないように、すべきことに取りかかれるかもしれません。それはあるいは、いまやっている仕事ではなく、もっと大事な、あなたにとってどうしても死ぬまでにやっておきたいことかもしれません。でもそれでいいのだと思います。仕事とは本来、そういうものであるべきだというのがいまのぼくの実感です。


 さあ。これが、いまぼくに贈ることができる最上の、仕事に手を付けるまでに時間がかかってしまうあなたへの妙薬です。何かの役に立てばいいのですが。この録音が、前回のように再びうまく回線に乗って、地球のあなたのところにまで届けばいいのですが。


(「仕事に手を付けるまでに時間がかかってしまうあなたへの妙薬」ordered by あとう ちえ-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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