第26話 動き出した時間
その後、杉山のことは元気に任せて、千夏は晴高の車で仮眠をとらせてもらった。悪霊に襲われたせいか思いのほか消耗していたようで、あっという間に眠りに落ちた。
そして、朝十時を過ぎてから皆んなを乗せて車は西新宿へと向かう。
マンションから杉山が務めていた会社のあった場所までは、車だとほんの十分ほどの距離だ。
近くのコインパーキングで車を止めると、彼の働いていたオフィスビルへと向かう。
杉山は相変わらずカバンを胸に抱きしめてビクビクした様子だったが、それでも目的のビルが見える場所まで来ると、彼自身も気になったようで歩く足が速くなる。
その手には千夏が渡した法人登記簿謄本が握られていた。
そのビルのエントランスの前で、杉山は立ち止まる。
千夏も思い出す。杉山の記憶の中で見た、あのエントランスと同じ光景が目の前にあった。
「行きますか?」
千夏が尋ねると、杉山はしばらく迷ったあと、こくんと大きくうなずいた。
千夏がここに来たのは二回目だ。一回目のときは、杉山の思い出の中で見た景色を頼りにここへとたどり着いた。思い出の中にあった窓から見えた景色の高さからすると、彼の会社があったのはここの五階。現在そこに入っているテナントやほかのフロアのテナントから聞き取りをした結果、杉山が務めていた会社名を割り出すことができた。
エレベーターで五階まであがる。杉山はずっとカバンを抱きしめたまま、その肩はわずかに震えていた。
事前に連絡しておいたため、現在五階に入っているテナントのスタッフは快く千夏たちをフロアに通してくれた。
現在はそこは、フィットネスクラブになっている。
杉山の記憶で見た、上司に酷く叱責されていたあの場所。
そこはいまは、窓から明るい光が差し込むフローリングスタジオになっていた。
ただ、窓の形は、あの記憶の中にあったものと同じだ。向かいの雑居ビルと、その向こうに西新宿の高層ビルが見えている。現在は窓にはこのフィットネスクラブの名前がデカデカと張られていた。
『ソウカ……ソウナンダ……』
杉山は窓の前で立ち尽くした。
『ソウなんだ……』
彼の腕から、それまでずっと握りしめていたカバンがするりと落ちた。
そして、ぎゅっと両手が拳を握る。ぽたぽたと涙がフローリングに零れ落ちた。
千夏たちは、ただ彼の震える背中を見守るしかなかった。彼がいま何を思っているのか、それは千夏にはわからない。でも、彼の中の時間が動き出したのはわかった。
『……僕はこれから、どこに行けばいいんだろう……』
会社がなくなった事実を目の当たりにし、呆然と呟く杉山。
その声に応えたのは、晴高だった。
「お前にはもう、どこへ行くべきか見えてるんじゃないのか?」
『でも……僕は、自分で命を絶ってしまった。そんな人間は天国なんていけないんでしょ?』
彼は晴高の方を向くと、うつむいた。
「その償いなら、もうとっくにしたんじゃないか?」
それは諭すでもなく、彼らしく淡々と事実を伝えるだけのような口調だった。
『へ?』
杉山は怪訝そうに、晴高を見る。
「あんだけ何度も飛び降りて毎回死ぬ苦しみを受けてれば、自分の命に対する責任なんてもう十分だろう」
『…………』
「お前は、死ぬ前だって散々苦しんだんだろ。他人に対して何か悪いことをしたわけでもない」
『で、でも。急に死んだから、きっと沢山の人に迷惑を……』
「たしかに迷惑ではあっただろうが、悪いことではない。どうせ人間は大概みんな、急に死ぬもんだ。それに」
はっきりと晴高は断言する。
「そんだけ苦しんだ奴が救われないわけがないんだ。ほら、お前の身体を見てみろ」
『え?』
晴高の指摘どおり、杉山の身体はいつのまにか輪郭がキラキラと金色の光を帯び始めていた。
「お迎えだ」
杉山は驚いた目で自分の身体の光を見ていたが、ぶわっと双眸に涙をため、顔を両手で覆った。
『僕、死にたくなかった……死にたくなかったんだ。ただ、逃げたかっただけなんだ。辛くて、辛くて……仕事からも……人生からも。でも、逃げる方法を間違えたのかな……』
今度は、それまで黙って杉山と晴高のやりとりを見ていた元気が口を開く。
「死にたくなる前に仕事辞められたら、もっと違う人生があったのかも……って思いたくなるよな。でも、死んだ後に後悔しても、もう身体は戻らないんだよな」
彼も自分の死に対しては思うことはたくさんあるのだろう。その一言一言は、杉山に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「だからさ、もし生まれ変わったら。今度は命捨てる前に、もっと捨てていいもん捨てて軽くなろうぜ。その方が、絶対生きやすいからさ」
杉山は顔をあげて、こくんと頷き返した。その顔にもう涙はなかった。
『うん。そうするよ。……ああ、もう、逝かなきゃ……』
「いってらっしゃい。お元気で」
千夏は杉山にそう声をかけた。こういうとき、お別れにどういう言葉をかければいいのかいつもわからない。でも、なんとなく前向きな言葉がいいような気がするのだ。その先に待つ新しい未来に向けて彼らは旅立つのだから。
『ありがとう……』
杉山は小さくはにかむように微笑んだ。途端に、彼の身体を覆う光が強くなると、ふわりと光の粒子が空気に溶け込むように彼の姿は見えなくなった。
「……逝ったな」
ぽつりと晴高がいう。
「いってらっしゃい」
もう一度、千夏は杉山に声をかけた。もう今頃、彼は千夏の声の聞こえない場所にいるのだろう。そこがどこなのか千夏はよくは知らないが、誰もがいずれは行くはずの場所に違いない。
彼の行く末に想いを馳せていた千夏の隣で、晴高はハァと疲れを吐き出すように嘆息した。
「……なんとかなったな。今回はヒヤヒヤしっぱなしだったが」
「あれ? 今回は送り火だっていってタバコ吸わねぇの?」
と元気に言われると、ギロッと彼を睨んだ。
「ここで吸ったら怒られんだろ」
たしかに、フィットネスクラブの入口のところに全館禁煙ってプレートが貼ってあった。
「ああ、そうか」
「……あとで、吸う」
結局、吸うらしい。
フィットネスクラブの職員に礼を言って、オフィスビルを出ると直ぐに晴高は咥えタバコて火をつけていた。
「さてと、どうします? このあと」
コインパーキングへ向かって歩きながら尋ねると、彼は紫煙を燻らせる。
「お前は代休申請しとくから、今日は家に帰っていい。俺は、後始末しにいく」
「後始末ですか?」
「もう一回、あのマンションの除霊。散らしたとはいえ、あれだけの悪霊が集まって
たからな。また寄り付いたら面倒くさい。できれば、本職に定期的にお祓いしてもらえたら安心なんだが……課長に相談しとくか」
晴高は、タバコを指に挟んだまま頭を掻いた。
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