第16話 簡単海鮮丼と春キャベツの味噌汁

 千夏の家は、大田区京急線沿いの住宅街にある賃貸の1LDKマンションだ。

 幸子のアパートとよく似た間取りだが、こちらはカウンターキッチン。LDと洋室の間が壁で仕切られていて完全に個室になっている。


 家の鍵を開けてパンプスを玄関で脱ぎ、家に入るとキッチンの横を通ってリビングダイニングへ向かった。部屋干ししていた洗濯物をかたずけて隣の洋室に放り込むと、後ろからついてきていた元気に声をかける。


「ちらかってるけど、どうぞー」


「……お邪魔します。わぁ、結構いいとこ住んでんね。家賃高くない?」


「んー。築年数結構たってるしね。駅からちょっと歩くから、そうでもないよ。そっちの個室は、私の部屋だから入らないでね」


 幽霊とはいえ、一応相手は同年代の男性なのでそう念を押すと、元気は苦笑した。


「入らないよ」


「こっちのリビングで過ごす分には、好きに過ごしてくれればいいから。さて。とりあえずお腹すいたから、ごはん作っちゃうね」


 帰る途中に寄ったスーパーで買ってきたものをキッチンカウンターに置く。そして、一旦洋室に入るとスーツを脱いで、いつも部屋着にしているスウェット上下を手にとりふと考えた。


(ちょっと、よれよれすぎない……?)


 幽霊に気を遣うのもどうかと思うが、幽霊でもやっぱりアレは同僚みたいなものなのだ。あまりヨレッとしたところ見せるのもなぁとしばし考えて、クローゼットに買ったときのまま突っ込んでいた新しいロングTシャツとスウェットのズボンを取り出した。


「よし。とっとと作っちゃお」


 キッチンへ行くと、カウンター越しに元気の姿が見えた。彼は、レースがかかった窓の外を眺めている。

 また、あの幽霊然とした俯き加減のぼんやりフォームになっていたらどうしようかと思ったけど、いまのところそんな様子はない。


「テレビ、つけようか?」


「ああ、うん。ありがとう。……なんか、手伝いたいけど」


「幽霊なのに、そんなこと考えなくていいから。待ってて、いま、夕飯つくるから」


 笑ってソファの上に転がっていたリモコンを手に取り、テレビをつけた。バラエティ番組の音声が、静かだった室内を急ににぎやかにする。


「あ、俺、別に飯とかいらないから」


 確かに幽霊は食事を必要とはしないだろう。でも、初めて元気とあった日、彼はサブレーを食べて「うまい」と涙を流していた。

 ということは、味はわかるんだと思うんだ。


「ちょっと味見くらいしてってよ」


 そういうと千夏はリモコンをソファ前のローテーブルに置くと、パタパタとキッチンへ戻った。


 さて。今日は帰るのが遅かったから、すっかりお腹ぺこぺこ。いつもならこんな日はコンビニでお弁当を買って済ませてしまうことも多いのだが、二人となると何か作ろうかなという気になってスーパーに寄ってきたのだ。


 買ってきたのは、50%引きになっていたお刺身。それに、みょうがとシソと春キャベツ。


 洗った米を炊飯器で早炊きモードで炊きながら、鍋に水を張ってだしパックを一袋投入すると火にかけた。次に春キャベツを洗ってまな板の上で食べやすいように切る。春キャベツは普通のキャベツにくらべて、さくさくと柔らかい。


 切り終わったころには鍋の水が煮立ってきたので、だしパックを菜箸で取り出して、代わりに切ったキャベツを入れた。

 キャベツが煮立ったら、味噌を溶かし入れて春キャベツのみそ汁はできあがり。


 みょうがとシソを刻んでいると、ごはんが炊けた。

 食器棚からどんぶりを二つ取り出して、はたと考える。


 元気の分は、どれくらいの量にすればいいんだろう。祖父母の家ではお仏壇にご飯を供えるとき、小さな専用のお皿でお供えしていたっけ。あのくらいの量でもいいんだろうか。


 それに元気はモノを食べるといっても、食べたものの実体はそのまま残るのだ。

 サブレーを食べていたときも、元気が食べていたのはサブレーの幽体ともいうべき半透明なサブレーで、サブレーの実体そのものはデスクの上に残ったままだった。

 ということは、元気に夕飯を出しても、それはそのまま残ってしまうのだろう。


(ま、あとで私が食べればいいか)


 そう考えて、どんぶりにいつもの半分ずつご飯をよそった。そして、ちぎった海苔の上にお刺身を乗せ、さらに刻んだみょうがとシソ、それにゴマを散らした。


「はい。簡単海鮮丼のできあがり、と」


 早速ダイニングテーブルに運ぶと、ソファに座ってテレビを見ていた元気を呼ぶ。


「うわぁ、すげぇ。……これ、俺の分?」


「そう。残ったものは私が食べちゃうから、遠慮しないで」


 千夏の座る向かいの席にセットされた、丼とみそ汁を見て元気は目を丸くした。箸は昔付き合ってた彼氏が置いていったものだ。コップに麦茶をそそいで差し出す。


「ほら、座って。あ、そっか。私が椅子を引いてあげなきゃだめか」


 一度立ち上がって元気の側の椅子を引いてあげると、再び自分の席に戻って千夏は手を合わせた。


「じゃあ、いただきまーす」


 席についた元気も手を合わせる。


「いただきます」


 元気ははじめは戸惑っていたようだったが、箸を手に取るとパッと顔を輝かせた。きっと、生前は食べることが好きだったんだろうな。

 千夏もまずお味噌汁を手に取って口をつける。


「うん。おいしい」


 しゃきしゃきとした春キャベツの甘みが、みそ汁の塩気と混ざり合って優しい味になっている。丼には、小皿に垂らした醤油にチューブわさびを溶かしてかけた。半分ほどかけてから、


「醤油かける? ワサビ入りでも大丈夫?」


「ああ。うん。ありがとう」


 そう言うので、元気の丼にもワサビ醤油をかける。

 即席の簡単海鮮丼だけど、お刺身は新鮮で醤油のかかったごはんともよく合う。どんどん箸が進んだ。


 ふと、向かいの席の元気に目をやると、ぱくぱくと大きな口で海鮮丼を掻き込んでいた。


「お口にあったかな?」


「うん、めちゃめちゃ美味し……っ、げほっげほっ」


 突然咳き込み始めた元気。とんとんと拳で胸をたたきだした。急いでかきこんで、喉に詰まったようだ。


「ほら、お茶飲んで。お茶」


 麦茶のコップを渡してやると、元気はそれを手に取ってごくりと飲み干した。


「……ああ、死ぬかと思った」


「ご飯なんかで何度も死なないで」


「あはは。そうだね……なんか俺、泣きそう。このみそ汁もめちゃめちゃ美味い」


 箸を止めると、元気はしんみりと目の前にある料理を眺めた。

 目にうっすらと光るものが見えるのは、きっとご飯が喉につまって咳き込みすぎたせいだけではないだろう。


 なんでだろう。

 この人が嬉しそうにしていると、私も同じように嬉しくなる。

 千夏はどちらかというとモノグサなタイプのはずだったのに、元気のためには色々としてあげたくなるのだ。喜んでいる姿を見るのが嬉しい。彼を見ていると、じんわりと心の中に温かなものか広がっていく。


 そしていつ見ても不思議だけれど、料理の実体自体は全く減ってはいない。それと重なるようにしてうっすら見えている半透明の幽体は、元気が食べるのに合わせてちゃんと減っていた。食べてくれているのがわかるのは、うれしい。食べてくれる人がいれば、作り甲斐もあるというものだ。


「何度でもつくってあげるってば。これから毎日でも」


 つい『毎日』という言葉をつけてしまって、自分で、え?毎日ってどういうこと?と焦った。確かに元気と一緒に帰ってきて、買い物して、ご飯を食べるのはなんだかとても新鮮で、心浮き立つのを隠すのが大変なくらいだった。毎日でもできたらいいな、って思ったのは本当だけど。


「え……それは、さすがに悪いし……」


 元気も目を泳がせ、戸惑うように言う。でも、もう後には引けなかった。引きたくなかった。


「ど、どうせ! 私は食べないと生きていけないんだから」


 今考えた取ってつけの理由だったけど、元気は納得したように、


「そっか……」


 と呟いた。


 食事が終わった後、引き挙げた食器に残っていた元気の分。食べてみると、少し乾燥していた。しばらく食卓に置いておいただけにしては乾燥が進みすぎている気がする。おそらく、幽霊が食べるというのはそういうことなのだろう。

 思えば祖父母の家の仏壇に供えていたご飯も、ガビガビのガチガチになっていたっけ。


 食器の片付けが済むと、千夏はシャワーを浴びた。元気にもシャワーか風呂を使うか聞いてみたが、いらないといわれる。


 パジャマに着替えてバスタオルで髪を拭きながら千夏は自室に戻ると、クローゼットから薄手の毛布を一枚ひっぱりだしてきた。それをリビングのソファの上に置く。


「はい、毛布。ベッドは一つしかないから、寝るならソファを使って。あとはあっちの部屋に入ってこさえしなければ、タブレットも自由に使って良いわよ」


「ああ、ありがとう」


 元気は毛布を手にした。やっぱり元気が手にできるのは毛布の幽体だけで、実体はソファの上に置かれたままだ。


「それじゃ、おやすみ」

「おやすみ。あ、あのさ」


 就寝の挨拶を交して、自室に戻ろうとした千夏を元気が呼び止めた。

 振り向くと、彼は毛布を片手に頭を掻く。


「今日は、ありがとう……でも、俺、幽霊だから。そんな、気、使ってくれなくていいからな?」


 元気はそんなことを言うが、夕飯を出したときも、お風呂はどうか聞いたときも、そして毛布を渡したときも、いつも彼は嬉しそうな顔をするのだ。本人は無自覚なのかもしれないけど、何か人間扱いされると彼はいつも顔に出るほど嬉しそうにする。

 そんな彼を見るのは、嫌じゃない。


「いいの。私が好きでしてるだけだから。じゃあ、おやすみなさい」


「ああ、おやすみ」


 パタンと自室のドアを閉めると、そのドアにもたれて千夏は小さく息を吐いた。


(何やってるんだろう、私……)


 そう思いながらもその反面、気持ちはいつになく軽く晴れやかだった。


「あ、そうだ」


 缶ビール、出してあげるのを忘れてた。冷蔵庫で冷やしっぱなしだ。まあ、いいか。また明日の夜で。


(第2章 完)

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