第11話 不倫の代償

 田辺幸子の相続財産管理人である弁護士の事務所は新橋にあった。千夏は電車でそこへと向かう。元気は何も言わなくても付いてきた。どうやら、なし崩し的に関わってしまったこの案件のことが彼なりに気になるようだった。


 弁護士には事前に晴高が連絡をしておいてくれたおかげで、事務所の入り口で名乗るとすぐに個室に通され、分厚いファイルとともに初老の弁護士が現れた。

 個室のテーブルに弁護士と向かい合わせに座る。実は千夏の隣にはしれっと元気も座っているのだが、弁護士には視えないようだった。

 千夏は立ち上がるとまずは深くお辞儀をする。


「八坂不動産管理の山崎千夏と申します。今日は田辺幸子さんの賃貸物件の件で、調べたいことがありましてお伺いしました」


「練馬区にお住まいだった田辺幸子さんのことでよろしいんですよね」


「はい。彼女の生前のことと、あと彼女の財産が今どうなっているのか出来る範囲でいいので教えていただけませんでしょうか」


 弁護士はずり落ちかけていた老眼鏡をかけ直すと、分厚いファイルをめくった。

 そもそもこの相続財産管理人の選定を家庭裁判所に申し立てたのは八坂不動産管理だ。そのこともあり、そこの社員である千夏に弁護士は協力的だった。


 彼の話によると、かなり念入りに調べてみたが、やはり相続人となるべく親族は見つからなかったという。


「彼女の財産は、あの部屋にあったものが全てだったんですか?」


「ええ。あとは、駅前の銀行に預金ですね。そちらはほとんどなくて。その辺りは明細が……あったあったこれです」


 弁護士は明細の書かれた紙を千夏の前におく。確かに残高はほぼゼロだった。これでは、弁護士費用はおろか、家具の処分費すら出せないだろう。


「彼女は慰謝料の支払いを抱えてましてね。それで、あらかた預金を使ってしまっていたようですよ」


 弁護士の口から出た言葉に、明細を眺めていた千夏は弾かれたように顔を上げた。


「慰謝料、ですか……!?」


「ええ。彼女は、妻子ある男性とお付き合いされていたようです。それで、亡くなる一年ほど前に相手の奥さんに民事訴訟を起こされています」


 そこで幸子は少なくない額の慰謝料を背負ったとのことだった。


「それで、お相手の方は……」


「民事裁判を機に、もうすっかり関係は切れていたようです」


「そう、ですか……」


 千夏の脳裏に、女の霊が言った『アカチャン』という言葉が蘇る。

 ずっと気にはなっていたのだ。


 赤ん坊が本当に存在していたとして、幸子一人で子どもができるはずがない。そこには必ず男性の姿があったはずなのだ。それが誰なのだろう、もしかしたら事情を知っているのでは?と淡い期待もあった。


 しかし、まさか不倫相手だったなんて。

 千夏は胸に湧き上がるやるせない想いに、密かに唇をかんだ。


 幸子の過去と思しき記憶の中で見た、あの小さな箱。出されなかった出生届。

 幸子は流産したのかもしれないと思っていたが、もしかしたらおろしたのかもしれない。あくまで憶測にすぎないけれど。


 でも、もし幸子がそれを男性に秘密にしたまま亡くなっていたとしたら、男性にその件を尋ねることはできない。

 彼女が守り続けた想いを、死後に勝手にあばくことなんてしてはいけない。


 千夏は話を変える。


「彼女の持ち物はどこに処分されたんでしょうか。実は彼女に物を貸していたという方が私どもの管理会社に現れまして、それで彼女の持ち物がまだどこかにあるのなら調べたいんです」


 ここに来るまでの間に考えた嘘のストーリーだったが、その千夏の話を弁護士は信じたようだった。眉根を寄せて、うーんと唸る。


「そうでしたか。いやぁ、それは困ったな。実はこれ以外にも費用があれこれかかってましてね。それを少しでも賄う為に室内の家具類や本、小物や衣類などはまとめて業者に処分を依頼してるんですよ。売れるものは売るつもりでいましてね。……その買取明細が来てたかな。ちょっとあとで調べておきますね」


 弁護士によると、二週間前の部屋の引き渡し直前に、整理業者に室内のもの全てを持って行ってもらったのだという。その後、清掃業者が入るとすぐに部屋は大家さんに引き渡されている。怪異が起こり出したのはその直後だ。


 とりあえずその整理業者を教えてもらって礼を言うと、千夏は弁護士事務所を後にした。


 大通りを外れ、人気ひとけの無い路地に入ってようやく、千夏は心の中にわだかまったものも一緒に吐き出すように、大きく息をついた。


「彼女の言ってたアカチャンって、やっぱり不倫相手との子だったのかな」


 晴高の言いつけを守り、周りに人のいない場所にきてようやく胸の内を元気に吐き出す。


「その可能性は高いかもね。不倫相手には未練はすっかりなくても、子どものことは忘れられなかったんだろうな」


 隣を歩く元気も、神妙な顔で答えてくる。


「たった一人で、いろいろ抱えてたんだろうね……。私、幸子さんが亡くなった年齢と同い年なんだけどさ。そんなこともあって色々考えちゃうんだよね」


「同い年ってことは、いま三十?」


「そう。ついに大台に乗っちゃいましたよ」


 自分から言いはじめた話題だが、歳のことを聞かれると心がざらつく。そろそろ結婚も考えたい歳頃だけど、あいにく今は付き合っている相手すらいないのだった。


 一年前にお付き合いしていた人とは結婚も考えないではなかったけれど、お互いの仕事が忙しくなると連絡を取り合うのも億劫になってしまい、いつのまにか自然消滅した。


 肩を落とす千夏の様子に、元気はからっとした声で笑う。


「じゃあ、俺とも同い年だ」


「え。元気も同い年?」


「正確には死んだ歳、だけどね。享年きょうねん三十歳。生きてれば、今頃三十三になってたから、晴高と同年代かな」


 あっけらかんと元気は笑って言った。


「そっか、年上だったんだ」


 幸子のみならず、元気もまた自分と同じ年頃で命を失っていたことに少なからずショックを受ける。


 人はいつか死ぬ、必ず死ぬ。

 でも平均寿命が八十を超える現代。死なんて、遠い先にあるものだと思っていた。

 祖父母の葬式に出たことはあるけど、両親はまだ実家で健在だし、早逝した友人も幸い身近にはいない。


 でも同い年の人の死を立て続けに聞いて、千夏は急に怖くなった。

 死は決して老いた順に訪れるものでは無い。突然目の前に現れるのかもしれない。それを思うと、たまらなく恐ろしい。


「元気もさ。やっぱ、何か未練があったんだよね……」


「そうだね。たぶん、死んですぐは付き合ってた彼女が心配だったんだと思う。……

俺の葬式でさ。彼女は焦点の合わない目をしてたんだ。全部、自分のせいだと思った。……突然人生を終わらせられて、はいわかりました、って割り切れる奴はそうはいないよな」


「そうだね」


 理不尽に断ち切られる関係。伝えられない想い。だから、この世に霊はとどまってしまう。


「それを、少しでも良い方に持ってく手伝いができたらいいのかなぁ。この仕事って」


 霊障があるからといって一方的に除霊するのではなくて、少しでも未練を少なくして前向きに新たな一歩を踏み出せるような手伝いをしたいな。

 なんとなく、この仕事をする上での自分なりのやりがいみたいなものを、見つけた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る