第8話 彷徨う影 ※ホラーあり

「最後に見たのは、彼女に渡そうとした指輪が目の前に転がってる光景だった。俺、どんだけついてないんだろうなぁ」


 こちらに視線を戻した元気は、目尻をさげて笑った。もう全てを受け入れてしまった、そんな穏やかな笑み。でも、とても切なく儚い光を宿しているような、そんな彼の目を千夏は見ていられなくて彼から目を逸らすと、膝を抱いてぽつりと返した。


「そっか……」


 かける言葉がみつからなかった。千夏が黙っていると、元気は自分から話し出す。


「もちろん、彼女のとこにも行ってみたよ。しばらく、そこにいた。……でもさ。あの日から、もう三年も経つんだ。彼女も、いつまでも同じ所に留まっているわけがないよね。……半年くらい前に、別の人と結婚したんだ。幸せそうだった。これからも、幸せでいてくれたらいいなって……思うよ」


 元気の声はとても穏やかだった。かつての恋人の幸せを願う彼の言葉に、一遍の嘘偽りも滲んでいない。彼の口調からは未練らしきものは少しも感じられなかった。


(じゃあ、なんで元気は未だに、この世に留まり続けているんだろう……)


 残した彼女が心配だ、というのならわかる。でも、その彼女は既に新たな人と新しい人生を歩み出しているという。なら、なぜ元気だけが昔のまま留まっているんだろう。何か他に未練があって、この世に残っているんだろうか。


「元気ってさ……」

「ん?」

「……人が良いよね。すごく」

「そうかな。そんなこともないと思うけど」

「幽霊なのに」

「幽霊だねぇ」


 そんな意味の無いやりとりを交わして、どちらともなくクスリと笑みを漏らす。

 そのときは、ここが幽霊物件だということをすっかり忘れていた。


 その心の隙をつくように、ズンと突然、部屋の空気が重くなる。


(え…………)


 ぞわっと、全身の毛が逆立つような悪寒が走った。


 反射的に窓の外に目をやると、さっきまで見えていた向かいの建物の明かりや街灯が一切見えなくなっている。ついで、バチバチッという音を立てて天井の照明が明滅。バチンという音とともに、停電でもしたかのように室内の電気がいっきに落ちた。


 目の前が真っ暗になって、何も見えない。

 手探りで背にしていたクローゼットを触って、位置を確認した。ごくりと生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。


(寒い…………)


 急に室内の気温が下がったように感じられた。春先とは思えないような寒さだ。


「げ、元気……?」


 いままで隣にいたはずの幽霊男の名前を呼ぶが、なんの反応もない。そちらに手を伸ばすものの、千夏の右手は空しく空を切るだけ。考えてみたら、彼は実体がないのだからたとえそこにいたとしても触ることなど出来ない。


「元気、どこ……? いるんでしょ?」


 と、そのとき。




 ォォォォォォォォォォォォォ




 地の底から響いてくるような呻きとも悲鳴ともつかないような音が耳を掠める。


 闇に少し慣れた目をこらして室内を見渡すと、ヌルッと闇夜の中をうごめく影のようなものを目の端にとらえた。


(何か、いる……)


 あれは、見たらマズイものだ。そう本能が警鐘をならす。心臓の音が、バクバクと高鳴った。


 闇の中、黒い影はふらふらと移動しているようだった。

 まるで彷徨さまよっているようでもあり、何かをしているようでもある影。




 オオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォ




 うめくような声が、しだいに泣き声のように聞こえてきた。しくしく泣いているのではない。それは、慟哭どうこくだ。何かを悔いているかのような、恨んでいるかのような、激しい悲しみの声。


 影は左の壁際でなにやらうごめいていたかと思うと、今度は窓の前をフラフラと移動して隣のリビングへと移った。しかししばらくすると再び窓の傍を通ってこちらの洋室へ戻ってくる。さらに壁伝いにのそりのそりとこちらに近づいてきていた。千夏が今いるのは洋室の奥にあるクローゼットの前。


 影はまだ、千夏の存在には気付いていないようだった。でも、あのまま壁伝いにこられると、そのうち千夏のところまでやってきてしまう。


 千夏は息も出来ないほど緊張していた。恐怖のあまり、耐えきれなくて目を瞑る。


(だめ! 逃げなきゃ)


 今すぐダッシュして部屋の外に逃げ出さなければ、アレに掴まってしまう。そう思うのに、身体が硬直して動かない。

 距離はあと、二メートルくらいしかなかった。


 今のうちに、逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 動かない身体を無理矢理鼓舞して、よし逃げよう!と目を開けた瞬間、千夏の鼻先に触れるほどの位置に白い顔があった。


「ひっ…………!」


 思わず目を見開いて息を飲む。


 青白い女の顔が、まるで千夏の行く手を遮るかのように目前にあった。長い髪を振り乱し、目は白く濁っている。唇だけが異様に赤い。


『ワタシノ……アカチャン……ドコ……アカチャン……』


 女は口を動かしていないのに、頭の中に直接、かすれた声が聞こえた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 千夏は気を失いそうになる。しかし遠のきかけた意識をなんとか手放さずにすんだのは、もう一つの聞き慣れた声が聞こえてきたからだ。


「その人を脅かすなよ!」


 そう声がするとともに、女の顔が千夏から離れた。


 怒気を孕んだ力強い声。元気の声だ。そう思った瞬間、千夏は寸でのところで正気を保つことができた。


 闇に目を凝らすと、元気が女の霊を後ろから掴んで千夏から引き剥がしたようだった。

 引き剥がされた霊は、よろめくように床に倒れこむ。


 さらに『ドコ……ドコ……』と呟きながら、しきりに床を手で探っているようだった。しかし、探し物が見つからないらしく、再び千夏に這い寄ってくると足に縋り付いてきた。


『ドコ……アカチャン……ドコ……』


 足を掴んできた彼女の手は氷のように冷たく、にもかかわらず床に引きずりこまれそうなほどの強い力だった。


「ひいいぃぃぃぃぃ!!!!!」


 ひきつけを起こしたように千夏は声にならない声を上げる。過呼吸を起こしたのかうまく息を吸えない。


 女の身体を遠ざけたくて手で押しのけようとするが、千夏の手は女の身体をすり抜けて空を切るだけだ。

 向こうはこちらを掴んでくるのに、千夏は女の霊に触れられない。


 ずるっと引きずられそうになったとき、千夏の足に絡みつく霊の手首を、元気がしっかりと掴んで押し留めた。


「だから、やめろって言ってるだろ?」


 霊はようやく千夏から手を離した。


 そうか、元気は幽霊だからこの女の霊にも触れられるんだ。そんなことを考えながら、ようやく女の手が離れたことに安堵して千夏は肩で息を弾ませる。


 元気は女の霊を後ろから抱え込むようにして拘束していた。霊は元気の腕を振りほどこうともがくが、しっかりと掴まれていて振りほどけない。


 霊は長い髪を振り乱したまま俯く。


『アアアアアアアアアアアア』


 女の泣き喚く声が、夜の室内にこだました。




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