第6話 じゃあ、お前がやれよ。

「……どういうことだ?」


 そう言って睨んでくる晴高の視線が痛い。声に明らかな抗議の色が滲んでいた。


「……すみません。つい」


 千夏はしゅんと肩を落とすと、素直に謝る。晴高が怒る理由は重々わかっていた。あと少しで完了しそうだった除霊を途中で妨げたからだ。


「お前は、俺の邪魔をしにきたのか?」


 晴高の剣呑な声が千夏に刺さる。


「……いえ、違います」


 彼の仕事の邪魔をしようという意識は微塵もなかった。でも、邪魔になっていたのは確かだ。元気が除霊されかけていたのを妨害したし、今度は本来の仕事であるこの部屋の霊を除霊することまで妨げた。それに関しては、言い訳のしようもない。


 晴高は千夏に聞こえるようにあからさまにため息をつくと、


「もう、いい」


 そう一言呟いて、カバンを手にすたすたと部屋の外に向かって歩き出した。


「……え? あ、ちょ……!」


 慌てて千夏は彼の背中を追いかける。


「待ってください。どこへ行くんですか?」


 千夏の静止の声に彼が応えて足を止めたときにはもう、彼は靴を履き終えて共用廊下に出たところだった。晴高は尻ポケットから取り出したタバコを咥えるものの、「くそ。禁煙してたんだった」と忌々しげに咥えたタバコを手で握りつぶし、睨むような冷たい視線で千夏を振り返る。


「どうもなにも。除霊されたくないんだろ。だったら、お前が自分でやれ。この部屋をなんとかしろ。期限は今週いっぱいだ」


「私、一人で……ですか」


「他に誰がいるんだ」


 千夏はただ視えるだけの人間だ。晴高のように除霊の術など持っていない。


 その上、今しがた目にしたあの恐ろしい霊とたった一人で向き合うだなんて、想像しただけで身体の芯から冷たくなってくる。


 でも、さっきあの霊が訴えてきた言葉が気になっているのも確かなのだ。


 ここで千夏が嫌だといえば、晴高は「ほれみろ」とすぐにあの霊を除霊しにかかるだろう。そうすれば、抱えている案件の一つが完了して、この仕事はおしまい。


 晴高は、もしかすると一人でやれと突き放すことで千夏がを上げて、除霊に同意するのを期待してこんな冷たい態度を取っているのかもしれない。元々、冷たい人なのかもしれないけれど。今朝顔見知りになったばかりの上司の考えることなんて、分かるはずもない。


 ただ一つ言えることは、ここで千夏が逃げてしまえば、あの霊の訴えが顧みられることは二度とないということだ。


 千夏は意を決して顔を上げる。そして、真っ直ぐに晴高を見つめて言った。


「やります。私、今夜ここに残ります」


 自分でも意外なほど、凛とした声が出た。鉄面皮のような仏頂面の晴高の目が、一瞬大きく開かれたように見えた。彼も、千夏のこの反応は予想外だったのかもしれない。

 無理もない、千夏自身だって驚いているんだから。


 でも、さっき。晴高がもっていたファイルを横から覗いたときに見てしまったのだ。見えたのは田辺幸子のプロフィール。彼女は、千夏と同い年だった。


 自分と同じ年月生きていた人が、なぜいまここで皆を悩ます霊になんてなっているのか、知りたかった。気になった。放っておけなかった。


 晴高はしばらく何かを考えているようだったけれど、カバンから何かを取り出すと、


「勝手にしろ」


 そういいながら、千夏に投げてよこした。

 取り落としそうになりながらも受け取って見てみると、鍵束のようだ。


「管理会社用のマスターキーとかだ。資料はあとで会社の個人アドレスに送っておく」


 それだけ申しわたすと、晴高はくるっと向きを変えて廊下を階段の方へと歩き去ってしまった。


 彼が階段を降りる音、ついで乗ってきた社用車のドアを開け閉めする音がする。車の去っていく音が消えたら、辺りはしんと静まり返った。


 各部屋には住民もいるはずなのだけど、まだ日が高いので留守にしているのか、それとも幽霊を恐れて帰ってこない人が多いのか。


 住宅街のど真ん中にあるというのに、ポツンと取り残されたようにこのアパートには人の気配がなかった。


 忘れかけていた恐怖が再び忍び寄ってくる。それを振り払おうと、千夏は空元気を奮い立たせ、無理して平気そうな声で言った。


「なんなら、あなたももう帰っていいわよ? べつに職員じゃないんだし」


 しかし元気は気の毒そうな顔でゆるゆると首を横に振る。


「俺もまだここにいるよ。どうせ帰るところもないし。助けてもらったから。……それにしても、あの晴高ってやつ酷いよな。今日異動してきたばっかの部下を、いきなりこんな現場に放置するなんて」


 元気は晴高の千夏に対する扱いの悪さを怒ってくれた。それで少しだけ胸のモヤモヤは晴れたけど、それ以上に予期せずして背負ってしまった仕事の重荷で胃がキリキリと痛み出していた。


「仕方ないよ。私が自分で言い出したことだもん」


 そして自分を奮い立たせるように努めて明るく言った。


「さて。少し早いけど晩御飯食べてきちゃうね。夜になって怪奇現象が起こり出すまで、ここで待機してなきゃだから」


 気がつくと廊下に落ちる千夏の影が長くなっていた。元気の足元には、もちろん影はない。


 赤くなり始めた空が、今日はやけに不気味に思えた。

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