中篇

 バーとは言いながら、神谷バーの賑わいはさながら大衆食堂のようだった。

 夫婦、友人、ご近所さんや元仕事仲間か何かと思しきグループ、観光客、相席テーブルで読書しながら「デンキブラン」を舐めるひとり客……。

 高年のメッカ状態なので、肩身が狭くなることもない。

 外食に苦手意識のある員子も徐々に緊張を緩めていった。

 ごま塩きゅうり、煮込み、かにコロッケ。遅れて運ばれてきた料理も、期待値よりはるかに美味しく、特に洋食にかかっているのは、ケチャップとは違う、古き良き、果実味が残ったなつかしいソースだ。

 員子も洋子も、くつろいで杯を重ねた。



 酒自体、非日常の飲み物だった。

 再会の高揚を鎮めるために冷たいものを飲めば、ますますカッカと体温があがり、気分が舞い上がる。

 ウェイターやウェイトレスを呼び止めれば、カウンターで食券を買わずとも、お代わりが自由に注文できた。

 員子は、ハチブドー酒――蜂蜜で甘くしたワインということだ――の白を二杯目に頼み、口に合ったので赤を三杯目に頼んだ。

 ……というふうに思っているのだが、ショットグラスに入った琥珀色の「デンキブラン」をおそるおそる口に運んだ記憶も、うっすらとだが、ある。

 他の色合いの酒を、手にした記憶すら……。

 員子はそもそも飲酒の習慣がない上、トイレが近くて水分摂取を控えめにしているのに、調子に乗って四杯以上も飲んだのだろうか、と後から振り返り、ふしぎではあった。

 それとも、洋子の分を少し飲ませてもらったのだろうか。

 どうにも思い出すことができない。

 そんなに耄碌しているとも思いたくないのだが、何にしても普段通りではないありさまだ。

 電撃的なアルコール度数が、老体に、びりりと効きすぎたのかもしれない――。



 ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん。



「結局、恋愛と友情って、どう違うんかね?」

「……うーん。愛があるかどうか、かしら」


 薄いムラサキツユクサの色水のような空気。

 いつの間にか、員子は洋子と横並びに座っていた。

 唐突な員子の問いを、受けて答えた洋子の顔の向こうに、窓がある。

 明るくて、昼間だ。窓の外には水がある。

 そこは、船の中だった。乗員は自分たちふたりだけだ。

 さび色の水面を蹴立てるようにして、船は前へと、進んでいる。

 後ろへ戻っているような錯覚も、少々あるのだけれど。

 員子は再び、問いを重ねた。


「愛とはなんぞや、じゃね。でもその前に。いったい、友愛はどうなるんじゃろ」

「……そうね。そこには愛が、含まれているわね……ちょっと待って」


 洋子は員子にそう断ってから、顔を少し傾けるようにして、窓の方をなんとはなしに見て考え込む。

 その様子から、自分の投げかけが洋子の内の何かに響いたことを感じ取り、員子は嬉しく思った。


 ――返事を待つ時間も、また心弾むものだ。


 と、決して催促をすることなく、洋子の声を待つ。

 大勢の行進のような律動を刻むモーター音がやかましい。

 船の振動がお尻に響く。

 それでいて、空気の色合いのためか、それはどこまでもロマンティックな時間だった。


「友愛は……愛情よりも範囲が広くて、平等な……、ううん、違うかな。今のなし」


 内にこもった洋子の低い声が、太刀魚のように細長く、ふらふらと船内を泳ぐ。

 彼女の視線は、未だに窓へと向かっていた。泥の中に隠れているかもしれない砂金を見つけようとするかのように、細心の注意を払って、たゆたう思考に揉まれている。

 員子は洋子の表情を、視線の端で、焼き付けるように見つめた。

 便箋の上では、一文字たりとも、ぶれたり震えたりすることはない、精緻な筆跡は、このような表情の後で生まれたものなのだ。きっと。


 ――私はあなたのことを、ほんまに何も知らん。そういう感じがするわ。洋ちゃん。


 だからたくさんのことを問うのだが、しかしその答えが、彼女が何者であるかをはっきり示してくれるわけではない。

 これは遊戯だ。どちらともなく始めたあそび。

 答えられたらえらい、という謎かけですらない。単なるおしゃべりだ。

 無造作に落ちている石ころを拾い上げ、「これ、なーんだ?」と問いかけるようなこと。

 本を読んで、時々得られることがあるような特別な輝石を、ともだちと足元に見出そうとするような、そういう他愛もないあそび。

 それが本物の宝石かどうかなど、関係ないのだ。

 一番楽しくあそべれば、それが完璧。

 放課後に路地を駆け回った、小学生の延長だ。

 自分たちは、ほんとうはあの子たちを未だに飼い続けている。

 外側ばかりは、すっかり大人になったくせに――。


 潜水からあがってきた人のように、洋子が長い息をついた。

 それで員子の方も、思考の海から自動的に引き上げられる。

 酸素を吸って。少し止めて。

 肺の中で思考の色を含ませながら、彼女は少しずつ、声を吐き出していった。


「――そうね。なんとも、言えないわ。友情は、柔いもの。そしてとても優しくて、すぐに破れてしまうもの。短い期間しかもたせられないことも多かったし、もう覚えていない人さえいる。私は、だけれど。後から考えると、こちらの友情をいいように使われただけかなっていうのもあるし、……きっと私が人にそう思われていることもあるんでしょうね」

「……そんなことは、ないよぉね……」


 あまりに断定的なような洋子の言い方を、員子はそっと否定する。

 彼女は魅力的で誰にでも好かれるし、きちんと周囲に感謝をする人だ。

 あまりさびしいことを、言って欲しくなかった。

 彼女は軽く首を横に振る。員子の慰めを容れない態度にも思えたし、顔にかかった髪を払うさりげない動作のようにも見えた。

 あらためて、員子を見る目、特に黒目が、水に浮かんだ球体のように耀いている。

 喉が一度、軽くけいれんした。唇が、再び開かれる。


「たくさんあった中に、つよいものがあるの。片側ばかりがつよいわけでもなく、相互作用で大きく育っていくばかり、不変の日常を思わせるほどに安定した――それを、友愛と言うのかもしれない、もっと単純に、愛で良いのかもしれない。私が出会ったそれは、とても言葉では表せられるものではないわ。感謝してもし足りない、生きてきて良かったと思える……」

「……や、……やめようや。洋ちゃん」


 員子が声をうわずらせると、洋子はくすりと肩を揺らした。


「あら、おかずちゃんが訊いたんじゃない」

「だって……聞いてて恥ずかしくなるんじゃもの」


 員子は笑う。笑って流す、しか、方法がない気がして。

 思うだけなら簡単だ。員子にもできる。

 しかし受け止める方には大きくて深い器がいる。普通の「大人」の大きさから、はみ出してしまうほどの。

 それを抱えられるだけの、智か、勇か、他の何かが必要だ。

 これは、……自分の手に余る。

 洋子は、「あらそう?」と面白がるような目で員子を見た後、視線を正面に据えた。


「むずかしい。ただの恋愛、ただの友愛。特別な恋愛、特別な友愛。短くすばらしい、短く意味のない、長く退屈な、長く有意義な。……ねえ、おかずちゃんはどうなのよ。違いは何だと思う?」


 水を向けられた員子は、照れ隠しのあまり、不愛想になりながら答える。


「……わからん」

「ええー?」

「私なんかが考えてもわからんけぇ、賢い洋ちゃんに聞いてみたんじゃろ」

「そんなの、ずるいわ」

「ほうよ、ずるいん、私は。ねえ洋ちゃん。ご主人とは別れて」


 つるりと出た。

 何度も試みたものの、文字にすることも、電話線に乗せることもできなかった言葉なのに。

 この流れで。


 ――ああ、かなうなら、手でいいからぎゅっとしたい。


 思いながら員子は続けた。言ってしまったのなら、もう言える。


「……別れんさい。お願いじゃけえ。……ともだちのお願いよ」

「ともだち」


 洋子は員子の言葉を復唱する。覚えたての言葉のように。


「……そう思ってくれたら、じゃけど」

「何を言うの。……おかずちゃん。あなたは私の、最高のともだちだわ」


 ――私はあなたのこと何も知らんのに、それでもそんな風に言ってもらえる資格があるんじゃろうか――。



 ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん。



 神谷バーの喧騒の中、員子は我に返った。

 ひどく遠くへ行き、忘れ物をしたまま戻って来たような落ち着かなさがあったが、自分の口は、まるで留守番役を仰せつかったかのように、機械的に会話を投げ返している。


「……ああ、洋ちゃんは楽しい人じゃね。まるで変わっとらんけぇ、ほっとする……」


 軽快、とまではいかないにしても、普段通りの声色を自分が使っていることに驚いた。


 ――思ったより器用じゃわ、私。


 白昼夢――と言ってもいいものだろうか。今のは。

 夢の中の不穏な会話、耐えがたい不安な予兆に絡め取られていた員子は、周囲が「普通」のままであること、また自分がその中に埋没していることが確認でき、安堵の息をついた。

 洋子は頬杖をついたまま視線を床に流し、のらりくらりとしゃべっていた。

 夢の中と同じように、内にこもる声をしている。


「変わってない……かしら? どうだろう、ずっと今のまま来たわけじゃないと思うけど。自分ではわからない……、どうなのかしらね。あ、ちょっと煙草、いい……ああ違う。今日は禁煙席だったわ……」

「洋ちゃん、吸う人だったんじゃね。喫煙の方に移る?」

「いい、いい」


 洋子はばつが悪そうな顔で、鞄に伸ばしかけた手を、所在なげに振った。

「失敗した」という表情に、珍しい、と員子は思った。

 こんな彼女は見たことがない。

 あまり外からはわからないが、洋子も酔っているのかもしれなかった。


「お酒が入った時だけ、吸いたくなってしまうの。ここに来るとついね。ああ……おかずちゃんに知られてしまった……」

「気にせんでも。うちのおじいさ……夫も、ずっと禁煙できんくってね、私ぁ慣れとるけぇ構わんのじゃが……」


 話しながら、員子はいつも洋子と連れ立って神谷バーに来て、ともに喫煙席に座る相手のことを、なんとはなしに考えていた。すると――



 ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん・ふぁん。



 突然、大きな音で、二席隣の男性客の、テーブルに置きっぱなしになっていた「スマホ」が震え出した。

 かたかたと、小刻みにテーブルにぶつかる音が耳障りだ、と思う間もなく、あちらこちらで、同じ音が鳴り始める。

 「スマホ」の持ち主たちは、聞き慣れない警告音のような、効果音のような大きな鳴動に怯えたというよりは、周囲にマナー違反をとがめられないか恐れるような様子で、端末を手に取り、画面を叩いた。

 員子は焦りを隠さずに、洋子を見遣る。


「……やだ、何じゃろうか?」

「緊急地震速報、とか、台風の時の緊急速報メールの時の鳴り方に似てるわね。少し違うけど」


 洋子は顔色ひとつ変えなかった。

 本当に地震が来るという瞬間も、もしかすると来てしまった後も、彼女はこんなふうに、冷静でいられるのかもしれない。

 員子にはとても無理な気がした。今もどきどきして、手が震えている。

 その、震える手を使って、員子はビーズ刺繍の手提げを探った。

 自分の「スマホ」が鳴らなかったのは、居住地の設定の関係かもしれない。

 だとしたら、見ても無駄だと思いつつ、スリープ画面を解除して、一見何の変哲もないメニュー画面を見つめてみた。

 時間差で、突然通知画面が開いて、先ほどと同じ音が員子の「スマホ」からも鳴り響く。

 員子は音の止め方がわからず慌ててしまった。

 適当に画面や側面のスイッチを押してみたが、反応しない。

 端末操作に慣れているらしい都会の人たちはとっくに通知音を切っていたから、田舎者の自分ばかり悪目立ちする冴えなさに、気持ちばかりが焦る。

 洋子が手を差し出すので、員子は藁にも縋る心地で、厄介な機械を手渡した。

 員子が知る限り、「スマホ」どころか携帯電話を持っていない筈の洋子は、しかしあっさりと耳障りな音を止めてくれる。

 端末画面に一瞬だけ目を留めたが、表情はやはりまるで動かさず、さらりと員子の手元に「スマホ」を返してくれた。


「はい。止まった」

「……洋、ちゃん、これって……」

「うん?」

「……何でもない」


 そうするべきな空気を感じて、員子は自分を律した。

 動揺はしている。だけど、周囲の誰も、目の前の洋子も、普段通り何ひとつ感情を表に出さないのだから、自分ばかりがその和を乱すのはおかしいことなのだ。

 員子のような学のない田舎者に、何がわかるわけでもないのだから。


 ――こんなの、ただのイタズラじゃわ。ほんまならもっと騒ぎになっとる。


 員子は何秒間か止まってしまった呼吸を再開し、どきどきする心臓を自ら励ました。

 周囲と同じように能面を纏って、静かに、画面に現れたボタンを押す。

 すると何事もなかったように、メニュー画面が現れた。

 員子がそうっと息を吐いた後、テーブルに「スマホ」を伏せるように置くと、その頃には少しずつ、周囲は談笑に包まれていっていた。

 一瞬だけ破壊された当たり前のいとけない日常が、戻って来る。

 笑顔の人たちをさりげなく見渡してから、員子は目の前の洋子に視線を向けた。

 いつも通りの彼女が、そこにはいる。

 員子はお追従のように笑って、動揺が滲み出る声をわざと聞かせた。

 隠しても詮ないことだ。どうせ自分の器は、この程度なのだから。


「……ああ、たまげた。こっちの人は落ち着いとるのね、私だけ、ばかみたいじゃわ」

「誤報も含め、よく鳴るから、慣れてるのよ、……でも、地震じゃなかったわね」


 音の瞬間、洋子の脳裏をよぎっていったのは、いつの地震の絵だろうか。

 一番記憶に新しい地震と言えば、多くの人は、2011年3月11日に発生した東日本大震災や、2016年4月14日に発生した熊本地震を思い浮かべるのだろう。

 そのどちらでも、員子の家はほとんど揺れなかった。

 だから員子が思い出したのは、別の地震。

 地元で昼間、震度5弱の揺れを観測した時のことだ。

 揺れた瞬間は、食器棚からものが壊れる音がして、ずいぶん怖い思いをしたし、お隣の様子を見に行こうとして、壊れた塀につまづき足をひねってしまった。

 もっと大変な負傷者がいるかもしれない時に、軽傷で医者に行くのは申し訳ないような気がして、すぐに病院にかからず、後で先生に怒られた。

 あの時の怪我はなかなか治らず、往生したものだ。

 知り合いの住む地域の状況が知りたくて一日TVにかじりついたが、緊急地震速報の字幕が浮かんだ後の続報は特に入らず、ドラマやバラエティの再放送が引き続き流されていた。

 夜のローカルニュース、翌日の地元紙朝刊で、震源地の近く、壊れた建物などを見て、血の気がひいたものだ。知り合いに被害はなかったが……。


 ――鈍くさい私にだけ降りかかった災難かと思ったら、あれまあ、大変じゃ……。


 全国ニュースではほとんど取り上げられなかった筈だが、洋子は手紙でその地震に触れて、気遣ってくれたものだった。

 なぜかその時の員子は、自分の怪我のことを言い出せず、なにげなく無事だと返してしまった。

 ……実際に軽傷であったし、それに、そう、今も別に、地震が来るわけではない。だから、何の問題もないのだが――。

 元通りのなごやかな喧騒を取り戻した神谷バー、そこで働くウェイター・ウェイトレスが、やがて全員の席を回り、「デンキブラン」のショットをひとつずつ配って回った。店からは一言もなかった。

 江戸っ子の粋なのかもしれなかったし、そういうものではないのかもしれない。

 ブランデー、ジン、ワイン、キュラソー、薬草などが混ざり合ったあたたかな琥珀の熱が、体の中でぽっぽと揺れた。


 そういうことなのだ、と、腑に落ちたところも確かにあるのだった。

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