拳銃弾より高く放て
ボンタ
第1話 カウント・スタート
1.
「ああ! 合わない!」
同僚の内山がそう叫んだとき、時刻は午後の五時を回る頃だった。窓の外には秋口の夕景が広がり、肌寒い夜の到来を予感させている。
「何が合わないって?」
「メーンノズルの内径と燃焼速度の割合!」
重いタイガー計算機のハンドルを強く掴んでいた内山の手は、心持ち赤くなっているようだ。汗ばんだ掌を空中に投げ、彼は唸り声を発する。ちょうど「音を上げた」という表現を体現しているような姿勢だ。子供向け慣用句図鑑のポンチ絵そのものな彼の姿に吹き出しそうになったが、その時、部屋の奥に二つの人影が表れたことを視界の隅に捉え、私は早急に目の前の図面へと向き直った。しかし今日の仕事は終わっていることに気付き、私は再び視線を宙に漂わせることになった。
「そんなに苦心しているのですか」
丁寧な口調で、二つの人影の内の片割れ、丸眼鏡の男性が問いかける。内山は様子を一転、背筋を伸ばして彼に向き直ると、「いえ」と否定の声を上げた。
「こんなものは明日中に片付きますよ、糸川先生」
糸川先生。この産総研宇宙観測研究所の実質的な主人であるところの中年男性は、柔らかく笑って、そうですかと短く答える。
傍らの男性がドイツ語訛りの英語で、今の会話の内容を糸川先生に問いかけた。糸川先生が流暢なアメリカ英語で軽く説明すると、彼も薄く笑って言葉を発する。
千里の道も一歩から。多分そういうニュアンスの慣用句だろう。内山は恐縮してぺこりと一礼した。
「今日はここらで終わりにしましょう。打ち上げは、梅の花の咲く頃に」
その場にいる三十名あまりの技師が、はい、だとか、わかりました、と口々に返事をする。
「打ち上げは、梅の花が咲く頃に」。この言葉が一日の仕事の終わりを飾るようになったのは、丁度一か月前の事だ。初めて聞いた時には、なんて詩的な表現なのだと感動した覚えがあるが、よくよく考えてみればこれ以上の皮肉もない、と、私は流れる車窓を眺めながら考えてみる。
あの大戦を辛うじて生き残った都電が私といくばくかの同僚を乗せ、かつて花の都と呼ばれた荒野を走る。線路の傍らには、もはや住むものが狸くらいしかなくなったであろう冷たいコンクリート塊が宵の闇に黒く落ちている。たしか昔、このあたりは銀座だった。しかし、連合軍が三発の原子爆弾を東京に落としてからというもの、日本の首都は埼玉の大宮に、日本一の都は大阪になってしまった。東京は元来の水源の豊富さからか、戦後、バラックに住み続ける僅かな人々を残し、やがて芦の茂る湿地へと変遷していった。梅の花なんてとうに淘汰されているのではないだろうか?
そう、この東京という地は、江戸ができたよりも以前の姿へと帰ろうとしているのだ。そう考えると、何だか納得いくような気分がしたが、そのうかつな考えをすぐに頭から振り払う。自分たちは人間社会のバロック建築ともいえるような計画に参画しているのに、そんな諸行無常の心でいたら、とてもじゃないがやっていけないのだ。
外の景色からずらした目の焦点が、いびつなガラス窓に映る、照らされた車内へと移る。荒野のど真ん中に、連合国の支援を受けて作られた産総研宇宙観測研究所は、その職員の住居を周辺の土地に建設した。庭付きのアメリカ式の、随分立派な邸宅だ。だが私は母が暮らす、焼け残った山の手の実家から通勤していたため、こうして都電の電動車両に乗り込んで、廃墟と化した石畳を帰っているのだ。
もう陽が落ちて一切が真っ暗闇となった世界で、この電車だけが人の生きる証を主張しているように思えた。橙の白熱球に照らされる下に、もう既に私以外の乗客はいない。
「ねえ」
そう思った瞬間、話しかけられた。直ぐ傍から声がする。が、視線を横へ向けてもそこにだれもいない。ただえんじ色の座席が、電車の進行する方へ向かって奥へと続いているのみだ。
「それよりも下よ」
言われるがままに視線を下に向けると、そこには少女が座っていた。金髪を肩で切りそろえて、黒い外套を身に纏っている。明らかに日本人ではない外見で、しかし流暢な日本語を操って彼女は語り掛けてきた。
「あなた、産総研宇宙観測研究所の多田、で合ってる」
それは確かに私の事だ。でもなぜそれを知っているのか?
「資料にあったから」
「資料?」
「監視対象の資料。あなたたちのね」
監視対象。その言葉を聞いたとき、私は得たいの知れなさを味わった。秘密警察が使うような、なにか私の身に起きている筈の、良くない事件を表す語句だ。
「わたしは貴方を監視、護衛しながら、裏切り者を探さないといけない」
「裏切り者?」
さっぱり理解が追い付かない。この少女は何者なのだ? それに、だとしたら。
「なんで今、ここで姿を現したんだい?」
少女はにやりと笑う
「資料にあった通りだわ。やっぱり理解が早いのね」
彼女は座席から立ち上がると、悪路に揺れる床をものともせず二本の足で直立し、肩に斜めに掛けたポーチからなにかの塊を取り出した。
それは銃だった。銃? そう、あの、銃だ。それで人を撃ったりする………。
「これが気になる? そう。確か日本語で………」
彼女は拳銃を操作して安全装置を外し、弾を装填する。
「ピストル、チャカ、自動拳銃」
「なにを」
なにをするのか。
そのまま引き金に手を掛け、私の方へと向けた。
発砲。麻袋を思いっきり叩いたような、くぐもった音。銃身内に発生した千気圧が銃弾を音速で押し出し、私の顔の脇を通っていく。
いや、通っていったようだ。後ろで人が倒れる鈍い音がした。振り返ると。薄茶色のコートに身を包んだ男が、頭からうっすらと流血しながら倒れていた。手には少女と同様に、拳銃が握られている。懐に忍ばせることができるような、小型の物が、床へごろりと無造作に投げ出されていた。
「君は」
続けて、彼女の素性を問いかけたかった。だが乾ききった喉からは、これ以上はかすれた声しか出なかった。
しかし、その言葉の意図は通じたらしい。
「私は作戦名B-1。この東京に、務めを果たしに来たの」
今度こそ本当に、誰もいなくなった車内に、宣言が響いた。
私たちを乗せた列車は、山の手に光る僅かな民家の灯りへと、少しずつ近付いていった。
◇ ◇ ◇
「わたしの素性が知りたいの?」
B-1。そう名乗った少女は、左手に転がり出た薬莢を弄びながらそう聞き返した。通常なら空中へと排出されるはずの薬莢が、どういう仕組みか使用者の袖口へと回収されるようになっているのだ。
空中へ視線を投げて、少しの間考えるそぶりを見せた彼女は、その、外気によって十分に冷却された、さっき一人の男を撃ち殺した銃弾の殻を指に挟んで、私の鼻先に突き付ける。
「この銃弾みたいな存在。目標に向かって飛んで行って、ただ相手を貫くだけの使い捨ての部品。違うのは多少考える装置が搭載されているってだけ」
「………それは………コンピューターみたいな?」
私はその手を恐る恐るおしのけながら、冗談をとばした。そうでもしないと私まで撃ち殺されてしまいそうな雰囲気だったからだ。目の前の人間が、鞄を提げて学校に通っているような真っ当な少女などではなく、組織の末端として完璧に働く、何かの意志によって統制された人物であることだけは理解できたからだ。意志と言ってもそれは、少女に平気で人を撃ち殺させるような、冷静な狂気とでもいうべきものだろうが。
少女、B-1は、僅かに引き上げていた口角を下げ、急に真顔になった。私は迂闊なことを言ってしまっただろうかと不安になる。車体が航空爆弾で出来た大きなクレーターの補修跡を乗り越えて、がたり揺れる。
「ええそう、この小さな小さな頭蓋骨の中にコンピューターを積んでるの。でもあなたの物ほど高性能じゃないわ、日本の火星人さん」
日本の火星人、その言葉を聞いた私はきっと渋柿を口に含んだ時より渋い顔になっているだろう。手で触ってみなくても分かる。それだけに、今ここで言われたくない言葉だった。
火星人、と名の付く人物の事を知っているだろうか。アメリカ合衆国の数学者、ジョン・フォン・ノイマンその人の事である。今科学者の間で盛んに取り上げられる画期的な発明品、人間の代わりに計算をこなすコンピューターという機器を開発したその人であり量子力学という新しい学問の成立に大いに貢献し、経済学にも顔を出した天才だ。そしてなにより。その天賦の頭脳を生かして原子爆弾を生み出し、これを東京に集中して用いるべきとの助言をした人物である。つまり、今焼け跡と湿地がこの東京に広がっているのは、このノイマンという男のせいと言っても過言ではない。
いや、それはどうでもいい。時勢が悪かったのだし、彼への恨みは特にない。
彼のあだ名はいくつもあったが、その中の一つ。悪魔のごとく優秀な頭脳を評して「火星人」と呼んだという逸話を引用して、なぜか私まで、産総研の内部で「日本の火星人」と呼ばれているのだ。確かに人より多少計算は早い方だが、いくら何でも大げさに過ぎよう。
「その呼び名はやめてくれないか」
「あら、じゃあなんて呼べばいいの?」
「どうせ知っているんだろ、剣呑な刺客さん」
「そんな怖い物じゃないわよ、私はアメリカ育ちのかわいいスパイちゃん。あなたは?」
まるで、先に名乗ったのだからと言わんばかりに、私へ向けて自己紹介を要求する。私は観念して、震える喉を振り絞って声を発した。
「私は多田義人。タダ、ヨシト、だ。これでいいかい」
少女はふんわり笑った。手に握られた黒い物体と似合わぬ年相応の笑顔に、私は一瞬目を奪われる。
「上出来よ。じゃあヨシト、わたしのここに来ての二番目の任務、手伝ってくれるかしら」
「二番目の任務?」
「走る電車の扉を開いて、これを捨てること」
少女が足元の人間だったものをドンと足蹴にした。白眼を剥いた死体が転げてゆっくりとこちらに正面を向けたのを見て、私は早くも、少女へと名乗ったことを後悔し始めたのであった。
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