記憶の欠片-新しい名前-

第18話

「今日から君の名前は淡藤あわふじだ。正確には、ここでは名前を識別名と言い、淡藤色あわふじいろが君の識別名になる」

「淡藤色? 私の名前は――」

「その名前はもう必要ない」


 窓すらない殺風景な部屋、椅子に座った黒髪の女が威圧的に言った。

 彼女は塔を管理する側の人間『管理官』で、蛍石ほたるいしと名乗った。


 名前らしくない。

 

 管理官の名前を聞いたとき、そう思った。そして、その管理官から与えられた“淡藤色”という名前も、自分の名前にするには抵抗のあるものだった。だが、管理官に逆らうことは許されない。


「塔に収容された者は色にちなんだ新しい名前が与えられ、それを使う。この意味がわかるか?」


 机を挟んだ向こう側から問われ、首を横に振る。


「ここは、外の世界とはまったく別の世界だということだ。これからはこの場所のルールに従い、生活していくことになる。いいね?」

「……わかりました」

「では今後、淡藤と名乗りなさい。私のことは、蛍でいい」

「はい」


 納得したわけではなかった。だが、否定を許さない口調に逆らうような気力はない。気に入ったわけではなかったが、淡藤という名前を受け入れるしかなかった。


 この部屋は、やる気を失わせると淡藤は思う。


 椅子が二脚と机、鍵の付いたロッカーのようなものが一つ置いてある部屋は無味乾燥すぎて、何かをしようとする気持ちになれない。真新しい制服も体に馴染まず、落ち着かなかった。


 淡藤は、下を向く。

 机の灰色に視界を奪われる。

 下へ引っ張られるように気持ちが沈んでいき、目の奥が熱くなっていく。淡藤の頭の中は、「帰りたい」という言葉で溢れていた。


「ここで生活するためのルールが書いてある。後で読みなさい」


 蛍が静かに言い、机の上に置いてあった冊子のようなものを淡藤の前へと押しやる。淡藤はのろのろと厚くもなく薄くもないそれを手に取ると、ぺらぺらとページをめくった。だが、文字の上を目が滑り、頭に何も入ってこない。


 能力訓練のため。


 念動力と呼ばれる力を持つ淡藤は、そう言われてこの塔に連れて来られた。いや、十七年間生活した世界から切り離された。高校は通っている途中で辞めることになり、両親や友人との繋がりを絶たれてここにいる。


 この塔は訓練のための施設と言うよりは、超能力者を閉じ込めるための施設のようだと淡藤は思う。

 実際、外の世界で良い噂を聞いたことがなかった。人体実験をしているだとか、一度入ると二度と出られないだとかまことしやかに囁かれていた。しかし、塔の中に入ってみると、噂は噂ではないと感じられる。人体実験はともかく、ここから出ることは叶わないことのように思えた。


「何か聞きたいことはあるか?」


 淡藤は、説明すべきことが終わったらしい蛍に尋ねられる。


「隣にある塔は、何のための塔なんですか?」


 淡藤がこの場所へ来るまでに見たもの。

 それが少し離れた場所にあった同じ色、同じ作りの塔だ。


「あの塔は、男性寮みたいなものだ。ここでは男女が別に暮らしている」


 男女を分けるほど人がいるからもう一つ塔があるのか、間違いが起こらないようにするためにもう一つ塔があるのかはわからない。だが、詳細は塔の住人に知らせる意味がないらしく、説明は端的に終わった。


「他に質問は?」

「ありません」


 人を寄せ付けない冷たい響きを持つ声に淡藤が短く答えると、トントン、と扉が叩かれる音が響く。


「入れ」

「失礼します」


 柔らかな声とともに、赤と紫が交わったような髪色をした少女が部屋に入ってくる。少女の長い髪は、紺色のリボンで一つにまとめられていた。


菖蒲あやめ。彼女は淡藤だ。塔の案内と詳しい説明をしてやれ」


 蛍の言葉に応えるように、菖蒲と呼ばれた少女が淡藤に微笑みかける。しかし、淡藤の唇は笑みを作るという行為を忘れていた。表情を作る筋肉は動かず、ただじっと菖蒲を見つめることしかできない。


「行きましょうか」


 殺風景な部屋に色を与えるような声音で菖蒲が言い、淡藤の肩を叩いた。のろのろと立ち上がって淡藤が机の上の冊子を持つと、菖蒲が扉を開けて廊下へ出る。淡藤は、慌てて後を追う。


「何歳なの?」


 潔癖なまでに白い廊下を歩き始めてすぐに、菖蒲から尋ねられる。


「十七歳です」

「同い年だね」


 そう言って、菖蒲がにこりと笑う。

 しかし、淡藤はまた笑い返すことができなかった。


 それが原因なのか、会話は続かない。菖蒲はどこから来たのかと尋ねることもなく、黙って隣を歩き続ける。


 よく磨かれた廊下は、靴底が触れるたびにキュッキュッと甲高い音を鳴らす。どれだけの人が塔の中にいるのかはわからないが、誰かとすれ違うこともない。

 蛍がいた部屋は、塔の中でも隔離された場所だったのかもしれない。


 窓もない白に塗り潰された道。


 足を進めるたびに、淡藤の心は冷たい海の底を目指して沈んでいく。

 今ごろ、家族は何をしているだろうか。

 友達は、どうしているだろうか。

 そんなことが気になって、ため息が漏れ出る。


「ここは、あなたが考えているほど悪いところじゃないから、そんな顔しないでよ」


 唐突にぴたりと足を止め、菖蒲が言った。

 その声は、神経を逆なでするような真っ白な空間をビリビリと破り、淡藤の胸の上にふわりと着地する。作り上げられた廊下から連れ出してくれそうな温もりに、淡藤は縋るように菖蒲の手を握った。


「……私、どんな顔してる?」

「こんなところにいたくないなーって顔」


 悪戯っぽく笑うと、菖蒲が淡藤の頬をつまむ。

 むぎゅっと引き伸ばされて思わず「痛い」と声にすると、菖蒲がもう一度笑った。


「まあ、外に比べたらつまらないかもしれないけど、衣食住の心配はいらないし、ある程度好きなことができるよ」

「…………」

「あたしもここに来たばかりの頃は、こんなところ嫌だって思ってたけど、慣れたらそれなりに楽しいよ。それに、つまんなそうにしててもここから出られないし、どこにもいけない。だったら、楽しくやった方が良いでしょ」


 羽が舞うように軽く言うと、菖蒲が淡藤の手を引いて歩き出す。

 きゅっと靴を鳴らして隣を見ると、赤みがかった紫色の髪が揺れている。白い空間に映える髪を持つ彼女は、真っ直ぐ前を向いていた。


「菖蒲さん、前向きだね」

「呼び捨てでいいよ。あたしも淡藤って呼ぶから」

「わかった」


 淡藤は、塔の外から連れてきた想いを振り切るように強く答える。


「今から、とっておきの場所に案内するからさ。元気出して」

「それってどこ?」

「図書館。ここ、図書館だけは立派だから」


 冷たい色を持つ廊下に、温かな声が響く。

 菖蒲の明るさに救われる。

 淡藤はこぽこぽと冷たく深い海の底に沈みかけていた心を引き上げ、少し先を行く菖蒲に歩調を合わせた。

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