第20話 アサヒ

「パン?」

「え?」電話の向こうで不思議そうな声を上げる。

「今目の前に、パンがいた」

幻覚だろうか。いや、幻覚だとしてもそれでいい。その姿がまた消えてしまう恐れの方が強かった。

「向こうの方に行った」

「ちょっと!石川さん」

気がつけばその曖昧な影を追って走っていた。路地を抜け、横断歩道に辿り着く。車が灰、黒、灰……と無作法に通り過ぎていく手前の歩道に、猫の姿を見つけた。猫は、右左からやってくる車の隙間を伺っているかのようにじっと道路を眺めている。私は躊躇なく彼の名を大きく呼んだ。

「パン!」

声に振り返った猫は私の予想通り、あいつだった。パンの口元には子猫が安堵しきった様子でだらりとぶら下がっていた。その格好は誰がどう見たって親子のようだった。

パンが目の前にいて、生きている、それだけで心が舞い踊る心地がした。けれどパンは私を無視してさっさと横断歩道へ飛び出していった。追いかけようとしたその時、横から大きな車が走ってきた。私は何も考える間もなく道路へ飛び出した。そして咄嗟にパンと子猫を抱きかかえた。

――にゃあ。と鳴き声が一つ宙を舞う。一瞬、鈍くて重い衝撃が背中から伝う。と、共に視界は暗くなり、景色がぐるりと歪み、視界を素早く一周した。耳鳴りが鳴り、自分の体が重い荷物のような感覚に陥る。コンクリートにぶつかって、少し遅れてから、ようやく自分が轢かれた事に気がつく。その時には痛みは麻痺して、遠くから篭ったどよめきが聞こえてくる。どれもこの世の言語だとは思えず、自分が異物のように感じて、泣きたくなった。霞んだ視界の中、パンが目の前にいた。

――パン、お前、ずっとお前に会いたかった。

口にしたつもりだったが、上手く声が出せない。パンはか細く鳴いて私の顔をぺろぺろと舐めてくる。その後ろにパンとそっくりな模様をした子猫が立っていた。

──お前にも家族がいたんだな。

折角会えて、何か会話をしたくて堪らないのに、どうしようもない程の眠気が訪れる。重い瞼を閉じようとした間際、パンが知らない男に、邪魔者扱いされているのが見えた。おい、そいつをそんなに乱暴に扱うな。礼儀を知らんのか、馬鹿者。その猫はそんじょそこらの猫と違うんだ。その猫は世界一賢くて、高貴な猫なんだ。高貴な……。




吾輩は猫である。この謳い文句は吾輩の人生の中でも最もお気に入りの一句にゃ。何故にゃら、吾輩の尊敬する恩師が愛読をしていた本の一文だからにゃ。吾輩の命を救って育ててくれた石川陽一にならい、文学の真似事等をあたかも自分のモノのように他の猫達にひけらかしていたにゃ。まあ理解出来る猫なんて他には居にゃかったのだが。皆、にゃあにゃあと嘲笑うだけ、挙げ句の果てに異端児扱いにゃ。野良猫という連中は礼儀がなっていないもんだから、仕方がにゃい。奴等は平気で獲ったごきぶりを食べたりする野蛮な奴等にゃ。

吾輩は人間の文学に対する姿勢に焦がれ、人気の少ない古本屋に紛れこんでは、あらゆる本を拝借はいしゃくした。吾輩には才がある。いつだったか、陽一は言ったにゃ。吾輩も自慢ではないが、そんじょそこらの猫と自分が違うという事は頭で分かっていたにゃ。猫が本を読める時代になったなんて、全くお伽噺も良いところにゃ。しかしこれは現実である。人は知らないものや自分の想像を超えるものに対して畏怖をし、ふぃくしょんだとか、ろまんてぃっくだとか、ふぁんたじーと言った単語をつらつらと並べ、辻褄を合わせたいだけなのにゃ。

陽一は人間のくせにしばしば、吾輩の言葉を理解していたように思える。それは吾輩が人間の言葉を理解出来たように。科学では証明できないような不思議な奇跡。神様は時々、何だかよく分からぬような贈り物をしてくる。吾輩は全くもって運のいい猫だったのにゃ。

吾輩は何度も神社に行き、猫神様に感謝とお供え物をした。そのお供え物は、他人様のお皿から拝借したもの――特に焼き魚といった類のもの――だったが、猫神様は心の広いお方だから許してくれるに違いにゃい。

猫神様に、陽一の事を話した。吾輩の事を救ってくれた事。親代わりとなって育ててくれた事。文学と思想、いろいろな事を話したにゃ。猫神様は黙って耳を傾けてくれた。


月日を重ねると共に、知識は十分に蓄えられていく。土の中に撒いた肥料を吸ってむくむくと伸びるように、一つ知る毎に吾輩は何処までも遠くへ行けた気がしたにゃ。決して一時いっときを無駄にした事はにゃい。日々、人間の複雑な心情や、生きる上で何かと無駄な事を考える性質を、愛し暮れた。時には強く人間になりたいとさえ願った。ただし猫神様は聞いてくれなかったにゃ。猫だから、吾輩はこんなに人を愛せるのかもしれない。そう思った。

吾輩を愛してくれた陽一には感謝しかにゃい。平穏に月日が経ち、吾輩もそろそろと老猫となり、人生の終わりの蜜を味わおうとしていた頃、陽一の命も微かなものとなっていた。乾いて血色の失った唇から告げられた。息子を頼む、と。

吾輩はまだ死んではならにゃい。まだ生きて、陽一に恩返しをしなきゃならにゃいのだ。

赤い鳥居を潜り抜け猫神様にお願いをした。親愛なる猫神様。お願いが御座います。我輩の寿命をもう少し伸ばしてくれませんでしょうか。吾輩にはまだ果たしていない使命が御座います。どうか何卒。猫神様。

その時、白い光が吾輩を包み込んだにゃ。光の奥から優しい声が聞こえた。猫神様にゃ。猫神様は、吾輩の願いを聞き受けて下さったのにゃ。

吾輩は寿命が延び、晴れて陽一の息子、陽二……今は親しみを込めてアサヒと呼び名を示す。アサヒの元へ行くことが出来た。アサヒは陽一と違って猫嫌いにゃ。覚えていにゃいようだが、吾輩が一度石川家の周囲を散歩していた時に偶然、まだ若かりし頃のアサヒに出くわした。その時我輩は礼儀正しくにゃあと挨拶をしたのに、アサヒと来たら我輩を蔑むように見下ろして、「何だこの汚い猫めが、あっちに行け」と吐き捨てた。我輩はランドセルを眺めた。その事があったから、最初のうちは遠くからアサヒの事を見守っていた。

時折壊れたブロック塀に体を縮こまらせて庭に侵入し、うたた寝をしているアサヒを覗いていたにゃ。たまに窓が空いていた時は、部屋にお邪魔してアサヒが書いた小説を読んだ。

机の上の原稿を読んで、アサヒが紙面上では旭田陽一と名乗っていることが分かった。陽一は父の名にゃ。上の字は最初読めずにいたが、古本屋で辞書を拝借し調べたらあさひと読めた。意味は朝のぼる太陽。その光。旭の「日」は太陽。「九」は折れ曲がって抑えつけられている様子を表すそうにゃ。押さえつけたものをはねのけ、日が地平線に出て輝く様子を表現している、と辞書には書かれていたにゃ。アサヒは、そんな自分になりたかったのではなかろうか。我輩はそう考える。

縁側で対面を果たした時から、吾輩は毛嫌いされていたが、陽一の最期の願いの為にアサヒに仕えた。この人間は大変頭が堅くて気難しく、神経質で根性がねじ曲がっており、おまけに性根が暗くて全く手が焼けた。それでも猫の言葉を聞き取れたのは、父親譲りの純粋な想像力のお陰だろう。

彼は愛を疎ましく思う反面、他人の愛やぬくもりに執着しているのは、何となくに感じた。吾輩は、アサヒを幸せにする為に外の世界に連れ出そうとお節介をやいたにゃ。アサヒの大好物を盗み、まずは外の世界へ連れ出す事から始めたにゃ。


本当に色々あったにゃあ。アサヒは気難しかったが、我輩は一度も嫌いになった事がにゃい。どんな欠点も人間らしく思えて吾輩には羨ましく、憧れの存在だったにゃ。アサヒは吾輩のことをどう思っていただろう。


吾輩はこの光景を前に一度見た事がある。母親が血を垂れ流している場面。アサヒは唇を微かに動かしていたが、何も言葉にならなかったにゃ。初めて自分の理解や知識を呪ったにゃ。

……アサヒ!アサヒ!吾輩は必至に呼んだが、アサヒは答えられにゃかった。知らない男に退けられた。そいつがアサヒを跳ねた男だった。男は心配そうに大丈夫ですか?と声をかけ、どこかに電話をかけた。その間も吾輩は傍でアサヒの名前を呼び続けた。

やがて救急車がやって来て、血塗れの体が二人の男によって台に乗せられ、白い車の中に運ばれていく。我輩も一緒に車に乗ろうとすると、人間に「こらこら、猫は入っちゃだめだよ」と言われ、体を抱えられた。だからそいつの顔に爪をお見舞いしてやったにゃ。男は痛がって吾輩を離した。諦めずにもう一度乗り込もうとすると、今度は他の人間が吾輩を抱えて抑えこんだ。腕の中で暴れ回ったが、人間の力に叶わなかった。車の背が閉ざされ、アサヒの姿は見えなくなる。

車に駆け寄って何度も大きく名前を叫びながら飛びかかったが、無駄だったにゃ。車はアサヒを運んで走り去っていった。

ずっと、アサヒ!と名前を呼んでいた。吾輩と吾輩の子猫は人間の手によって道路から掃けられた。硬くて冷たい地面に血だまりだけが残されている。それを見たらいても立ってもいられなくなったにゃ。子猫を咥えると、人間の目を盗んで、素早く道を駆け抜けた。吾輩は月夜さんの元へと向かった。猫だけしか通れない狭い道を跨いで、全速力で走ったにゃ。

あっという間に辿り着くと、月夜さんは紺の薄手のカーディガンを羽織り、携帯を握りしめながらアパートの下に立っていた。

「パンちゃん、どうしてここに」

駆け寄ってきて、しゃがむと驚きの眼を向けた。アサヒが、アサヒが大変にゃ。そう伝えると、吾輩の声が月夜さんに通じた。


吾輩を見つけ駆け寄るとしゃがんで驚きの眼を向けた。アサヒが、アサヒが大変にゃ。月夜さんにそう伝えると、吾輩の声が通じた。

「やっぱり。先生の身に何かあったのね。先生が急にパンちゃんの話をして、問いかけても何も返ってこないと思ったら変な物音がして、その後知らない男性から連絡があったの。先生が事故にあったって……」

「にゃぁ」

「パンちゃん、私に知らせに来たんだよね。ありがとう。大丈夫だよ。先生は死なない。あの人は太陽みたいに強いんだから」

そう言いながら、月夜さんは瞳から涙を絞らないように必至に目に力を携えていたと思う。

月夜さんは病院先の連絡が来るのを、暫くの間待っていたにゃ。吾輩は先を急ぎ、子猫を咥えながらアサヒの家へと向かった。丁度身支度をした花谷さんが玄関の所までやってきて。

「パンちゃん!まあ今までどこに行ってたの。先生が大変な事になったって今連絡が来たの。私、これから病院に行ってくるわ。パンちゃんはお留守番しておいて」

忙しなく、靴を履いて外へと出て行こうとした。扉を開ける寸前で振り返った花谷さんは不思議そうに吾輩達の事を見つめたにゃ。

「ところでその子、どこの猫ちゃん?」

その後小さく首を傾げて、パンちゃんの子かしら。と一言呟いてから出ていったにゃ。

誰も居なくなり静かになった途端、吾輩は子猫を床に座らせて言ったにゃ。

「吾輩の言う事を聞くにゃ。今、吾輩のご主人様が大変な事になっているにゃ。だから吾輩はご主人様を助けに行かなきゃならないのにゃ。大人しく留守番出来るか?」

子猫は小さく間延びした鳴き声でにゃあと返事をした。吾輩は頷き、足早に廊下を走って電話台に飛び乗ったにゃ。

やはりうっかり屋の花谷さんはテーブルの上にメモを置き忘れてたにゃ。そこには、アサヒが運ばれていった病院の住所が書かれていたにゃ。吾輩は住所を頭で暗記した。メモを取りに戻ってきた花谷さんが慌ててやって来た隙に、吾輩は外へと飛び出したにゃ。花谷さんはわあっと吃驚した声を上げていたが、それでも気にせず、吾輩は走ったにゃ。アサヒの元へ行く前にまずは月夜さんの元へ寄った。月夜さんは相変わらず、心配気に外へ立ち呆けていたが、吾輩の姿を見るなり驚き目をまんまるく見開いたにゃ。

「パンちゃん!」

吾輩は暫くにゃあにゃあと鳴くだけだったが、何度も何度も鳴き続けるうちに、月夜さんは吾輩の声を聞き受けた。

「……千田病院?そこに先生がいるの?」

何故月夜さんに猫の声が届いたのかは分からない。だけども恐らく、これは完全に推測でしかないが、月夜さんはその時外の声に耳を傾けず、吾輩の声を聞いていたからだと思う。月夜さんは言ったにゃ。

「アサヒ先生、こんな風にパンちゃんの声が聞こえてたんだ」

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