第12話

 ――現金を盗むフリをして折り紙を入れる、折り紙窃盗騒ぎ改め、折り紙『窃盗未遂』騒ぎから一週間が過ぎた。

 黒幕であった高岡俊彦先生は東雲君の最後の脅迫――ではなく、問いかけに答えるどころか、その場に立ち崩れてがっくりと肩を落とした。

 その後、巳波先輩から猪野先生を通じて校長と理事長に伝わり、高岡先生は退職が決定。学校には教育委員会の調査が入ったが、こぴっどく叱られた程度で済んだ。

 学校側も教育委員会も、なぜ高岡先生はどうしてこんなことをしたのかと不思議で仕方がなかったらしい。それもそうだ。いつも温厚で生徒の話に耳を傾ける先生が、脅すような事をするなんて、誰も想像できなかったのだから。


 これは後から巳波先輩から聞いた話だが、高岡先生は威厳のない自分が嫌だったらしい。

 この学校に赴任し、生徒指導の担当になってからも自分をバカにする生徒は絶えることなく、歯向かう生徒も過去にはいた。そしていつの日からか、どうしたら生徒を見返すことができるのかと考えるようになったという。

 新年度になって一ヵ月も経たないある日のこと、二年A組のある生徒が万引きをした事が発覚。謝罪をしに行って生徒を引き取りって学校に戻ると、生徒が高岡先生に「何でもするから家族には言わないで」と泣きながら頼み込んだ。その時、彼の中で今までにない優越感が芽生えた。

 ――ああ、今まで見上げていた生徒を見下ろすのはこんなにも楽しいものなのか、と。

 それからここ二、三年前から始まった反省文を書かせ、二度としないと誓わせる措置を利用し、原稿用紙に自分が隠したい事実と指示に従うことを書かせると、自分のデスクの引き出しに仕舞い込んだ。それを皮切りに、高岡先生は謝罪しに行っては問題の生徒を脅し、反省文を書かせていたという。

 暫くして高岡先生の指示に従うことになってしまった五人を見て、「一斉に盗難被害が出たら誰が怪しまれるだろう」となんともふざけたことを思いついた。

 別にお金に困っていたからではない。純粋に気になったのだと言っていた。「適当に生徒の財布に折り紙を入れてこい。その代わりに盗んだ金は自分のために使え」と指示し、盗難騒ぎが次第に拡大していった。

 ロッカーに付いていた南京錠を外したのも、知らぬ間に開いていたら鍵を掛けた本人はどうなるだろうと思ったから。高岡先生はいつしか、支配下にある五人に勝ち誇った気でいた。

 ――しかし、高岡先生が優越感に浸っている中、違反者だとレッテルを貼られた生徒は皆、本当に改心しようとして指示に従うフリをして、折り紙を入れて「盗まれた」と錯覚させる方法を思いついたそうだ。

 B組でロッカーに南京錠を掛けていた被害者の男子生徒については、偶然にも桜井さんの従兄弟だったらしく、彼女から「使って。返さなくていいから」と言って一度抜いた一万円札を手渡しで返していた。

 また、桜井さんに戸田君を利用するよう助言したのも、高岡先生だったことが分かった。

 これは東雲君の言う通り、理事長の息子だということで何か問題を起こしても学校からの処分が無い、または軽度のものになるのは考えずともわかっていた。学校運営のスポンサーでもある戸田家の息子に何かの処分を与えたら、きっとこの学校は早い段階で廃校になっていたかもしれない。

 原稿用紙を破ってゴミ袋に詰めて倉庫に置いたのは、東雲君が言った通り生徒指導室で今までの資料や反省文を点検し、更に自分のデスクの中も整理して一斉に掃除することが伝えられていたからだ。

 その日が丁度、東雲君が戸田君に宣言していた日と同じだったのは、本当に偶然だった。『運も実力のうち』だとはよく聞くが、これも彼の運なのだろうか。


 そして最大の謎だった「関係のない牛山鼓が、なぜこの騒ぎの犯人として濡れ衣を着せられる筋書きだったことになったのか」、ということに関して。

 最初の方にも言ったが、私がC組のクラスメイト以外で関わりがあるのはD組にいる馬場実咲くらいで、同学年の特進科や専門科に知り合いはいない。無断で他のクラスの教室に入ることなど在り得ないのだ。加えて指導を受けるほど校則違反をした覚えはない。校内でピッキングをしたのも、あの倉庫が初めてだ。

 高岡先生の気まぐれだったとしても、ピッキングしているフリの動画を撮影したり、わざわざ合鍵を作ったり、適当にしては手が凝りすぎていたのが異様に引っかかっていた。


   *


 東雲君の脅迫まがいな問いかけの後、A組の教室から移動して生徒指導室に入ると、私と東雲君、巳波先輩、戸田君、そして先生側に付いていたA組の五人の生徒、そして生徒指導担当の教師数名を前に、高岡先生に問うとあっさり口を開いた。

「……牛山が学年の中で一番印象が薄かったからだ。成績も運動も普通、どの部活にも所属せず、学校が終わったらすぐ教室を出て帰宅する女子生徒……そんな君が気になってね、勝手に君の家族を調べさせてもらった。

「お父さんが空き巣の常習犯なんだって? 随分不幸な家庭に生まれたなぁと思ったよ。自分の父親が犯罪者なんて、誰にも言えやしない。もしかしてそれで一人で帰っていたんじゃないのかなって思った時に閃いたんだ。

「五人は私の意図的にはならなかったが、この盗難騒ぎの犯人を君に全て擦り付けたら、君は泥棒の道に進むんじゃないかって思った。

「随分ふざけたことを考えたなって思っただろう? 私も思ったんだよ! でもそれ以上に、考えただけで楽しそうでさ。

「だって泥棒の子はピッキングくらい簡単なんじゃないか? 私なんてしたことないからさぁ、南京錠なんて合鍵の作り方くらいしかわからなかったんだ。

「そうだ、あの倉庫はどうやって開けたんだい? 鍵……というか、丸落としって言うんだっけ? ゴミ置き場に必要な鍵でも落ちていたのかい? 手元も見えない中、ゴミ山の異臭の放ったあの空間で、どうやって鍵を開けられたんだ? ぜひ聞きたいなぁ! ねえ、教えてくれよ!」

 ……狂ってる。

 今まで見てきた温厚な高岡先生の姿はどこにもなく、変わり果てたように狂った高岡先生がそこにいた。

 私が泥棒の娘だから全てを擦り付けた?

 ピッキングをしたら、私は泥棒の道に進むと思った?

「……牛山、何を黙っているんだい? 

「そうだ、こんなこと他の生徒や進学先にバレたら不味いだろう? 今回はお互い無かったことにしよう。そうしたら君も私も万々歳だ。どうだい? 悪いことじゃないだろう?

「そんなに怖がらなくてもいいんだよ。生徒は先生の言う通りにしていればいい。怖がる必要は何もないんだ。牛山の今まで隠していたことは恥じるべきことじゃない。

「むしろそれに乗っかってみたらどうだろう! 『泥棒は悪い大人』のことだと誰が決めた? 生徒を正しい道に導くのが教師の務めなら……今まで私がしてきたことは何だったんだよ? 生徒なんて、私の言う通りに動いていればいい。

「……なんでそんな悲しそうな顔をしているんだい? 君と私の利害は一致しているはずだよ?

「……やめろ、そんな目で見るな! 戸田も桜井も他の違反した生徒も要らない、使えない生徒は要らない!

「みんなみんな、私の言うことだけ聞いていればよかったのに!」

 辛うじて引っかかっていたネジが外れたのか、狂ったように叫び出す。教師としては到底信じ難い言葉を並べ、頭を掻きむしり、声を荒げた。

 無茶苦茶な提案にどう答えていいのか困っていると、高岡先生の目の焦点が合っていないことに気付いた。人はこんなことで欲望に盲目になってしまうものなのか。恐ろしく感じてしまった私は、震えを抑えるために拳を固く結んだ。

「全部全部、お前らが私の言うことを――」

「――アンタに何がわかんの?」

 狂った笑い声が教室中に響く中、東雲君の苛立った低い声がはっきりと聞こえた。

「自己満足で脅迫した五人に犯罪まがいなことさせて、泥棒と繋がりがある生徒を見つけたらそれさえも利用する? 

「挙げ句の果てに『随分不幸な家庭に生まれた』だって?

「アンタ、牛山のことをどこまで知ってるの? 

「牛山だけじゃない、桜井達のことをどこまで信用しようとした? 近くにいたくせにコイツらの何を見てたんだよ?

「例え校則違反者だったり泥棒の子だったとしても、一番近くで見ている家族の期待を裏切りたくないから、自分の決めた軸だけは守ってんだよ。

「不幸な家庭? 確かにそう思ってる奴はいるかもしれない。でもそれって何も見ていないアンタが決めること?

「……他人の声ってそんなに必要? 俺は家族との時間にあまり良い印象はないけど、その価値って他人が決めることじゃないだろ」 

 ――ああもう、コイツなんなの。

 東雲君の背中を見据えて、更に拳を強く握る。私が叫びたくて仕方がなかったことを、なんで彼は全部言ってしまうんだろう。自分の口から言えなくて代弁してもらうのが、こんなに悔しいとは思わなかった。

 言葉にするだけでは足らなかったのか、東雲君は高岡先生の胸倉を掴んで顔を近づける。あと数センチで鼻先が触れそうな距離で、焦点がずれた目を合わせようとする。

 先程の脅迫を思い出したのか、高岡先生は肩を大きく震わせた。

「……やめてくれ、今にも野垂れ死にそうな虫を見るような目で私を見るな。見るんじゃない!」

「別にアンタの生き方と考え方に文句を言ったところで変わらないのは目に見えているんだけどさ、そこにいるA組の奴らは自分の将来を犠牲にしても自分の軸だけは守ったよ。アンタはいつ折れたの? 要らないのは指示に従わない人間じゃない。この世界に本当に要らないのは、自分のことしか考えない大きすぎる自己中心的な思考そのものだ。それがわかっていたから、騒ぎ程度で収まったんじゃないの?」

 東雲君の言葉が脅迫に聞こえたのか、感動したのか、それとも図星を言い当てられたのかはわからない。高岡先生の頬に零れた涙が伝うと、噛み締めるように声を抑えてその場に蹲った。


   *


「――高岡先生は気付いてたと思う。自分が間違っていること」

 東雲君は唐突に言った。

 盗難騒ぎから一週間後、私は東雲君と共に五階の資料室に来ていた。ソファーに座って新調したふかふかのクッションをいじりながら、作業台の前に座ってファイルを整理している巳波先輩が、どこからか仕入れた今後の高岡先生の話に耳を傾けていると、ソファーに寝ころんだ東雲君が唐突に口を開いた。やけに眠そうな目を擦りながら彼は続ける。

「間違っていても止められなかった。止めたところで自分を守る術がないことも気付いて、結果的に攻めることしかできなかった」

「……それはあれか? 『攻撃は最大の防御』的な?」

「まぁそんなところだろうな。本当に脅すなら原稿用紙なんて捨てずに持ち帰るなり隠すなりしただろうし、バレるとわかってて犯人を作ったりすることはしねぇよ」

 確かにあの状態の高岡先生なら、もっと卑劣な脅し方ができたかもしれない。桜井さん達を脅してまでやりたかったことがこれだったとしたら、一体彼は何がしたかったのだろう。

 「使われる立場はどうだい?」と焦点の合わない目の彼に聞いたところで、教育にもならないことを理解していたとしたら、それはきっと高岡先生のどこかに潜めていた罪悪感だったのかもしれない。それを確かめる術はない。

 ……いや、知っていても確かめることはないだろう。私自身、これ以上高岡先生に関わりを持ちたくないのもあるが、一番は東雲君の興味が逸れたからだ。

「そういえば、合鍵の型を取った空き缶が金工室のゴミ箱に紛れていたのは俺が見つけたけど、合鍵はどこにあったんだ? 倉庫?」

 思い出したように巳波先輩が手を止めて東雲君に聞く。

 言われてみれば、東雲君はいつ合鍵を見つけたのだろうか。高岡先生の前でポケットから出したときは持っているなんて聞いていなかったし、少なくとも私がピッキングしていない時、彼がゴミ袋を漁っている様子はなかった。

 すると彼はポケットからあの時と同じ合鍵を取り出して掲げ、大きな欠伸をして言った。

「……作った」

「……は?」

「あんなクソ広いところで小さい鍵もどきが見つかるわけねぇじゃん。だから先生と同じ方法で作ったんだよ。ちゃーんとネットで調べて、同じ方法で。半信半疑だったし、鍵が回った時はマジで驚いた! ちなみに鍵が開くかどうかはあの時が初めてだったから、一発勝負。やっぱ俺、なんか持ってるんだろうなー」

「…………」

 先程の眠そうな目はどこに行った?

 話していくうちに目が覚めたのか、興奮しながら説明してくれる東雲君に、私と巳波先輩は口を開けたまま愕然としていた。……いや、饒舌に喋り出したのもあるが、合鍵を自ら作ったことが一番の驚きだ。

「ちょっと待って……え? じゃあぶっつけ本番で鍵開けたってこと?」

「そうそう。バレないように表情隠すの大変だった!」

 あの緊迫した状況で大変だったのが表情を隠すこと? ――いやいやいや、しっかり嗤って煽って脅していたじゃないか! 

「倉庫で見つけた合鍵は偽物で、本物は? あれが東雲君が作った鍵なら、実際に高岡先生が作ってた鍵はどこに?」

「んなの、桜井がちゃんと捨てたに決まってんだろ。失敗を許されず脅され続けている奴が証拠隠滅を考えてないわけねぇし、一か月前に開けた南京錠の合鍵なんてずっと持ってるわけねぇよ」

「いや……それだけで断言していいのか? 逆に脅されていた証拠として今も隠し持っているんじゃ……」

「持ってねぇよ。桜井の顔色を見ればわかる」

 確かに合鍵を見た高岡先生は真っ先に桜井さんを睨みつけていた。彼女の震えた声も真っ青になった顔色も、演技には到底思えなかった。

 巳波先輩が言った通り、桜井さんは証拠として残しておくこともできただろう。しかし彼女にとって脅威だったのは高岡先生が作った空き缶の合鍵よりも、自ら書いて筆跡と名前まで残っている原稿用紙だったのかもしれない。

 紙っぺら一枚で今後の人生が変わってしまう、せっかく特進科に入ったのに全てがおじゃんになってしまう。目指していた夢も好きなこともすべて暗転してしまう恐怖は、私もよくわかる。


 脅迫を受けていた二年A組の桜井さんを含めた五人は、隠蔽しようとした校則違反の件で担任教師と生徒指導と面談後、高岡先生が退職した日と同時に一週間の自宅謹慎が言い渡された。

 五人のしたことに対して対処が軽いという声もあったが、彼らも被害者の一人である。脅されていたという事情含め、特進科の教員同士で話し合って「自宅謹慎中の課題」という名目で問題集を作成し、謹慎明けの登校日までにすべて問題を解いてくることになった。これはすべて先生が一から作成していたもので、両面印刷されたプリントを幅のある紐でくくられている。その厚さ、約二センチ。ホチキスだと上手く刺さらない、絶妙な厚さのそれを五冊分渡されるのは、いくら特進科の生徒でも大きな溜息を吐いたことだろう。

 さらに今回、理事長の息子である戸田君に対して、権限の悪用が理事長に知らされると五人と同じ問題集に取り組むよう、理事長直々に言い渡されたそうだ。

 彼は自宅謹慎にはならず、登校しながら問題集を全て終わらせることになっているため、五人に比べたら倍の勉強量をこなすことになる。作成した学校側からはやりすぎなのではと心配されたが、理事長に「恥を知れ」と怒鳴られたらしい。それ以来、すっかり大人しくなってしまった。あの鼻で哂う表情は暫く見ていない。

 ……というより、近くに寄ってこない。原因はわかっている。東雲君だ。彼曰く、一週間経った今でも戸田君とすれ違うと、すぐ顔が真っ青になってどこかに逃げてしまうらしい。あの時の脅しが相当怖かったのだろう。

 ……そういえば、謝られていないな。まぁいっか。

 ちなみに桜井さんには振られた。(謹慎処分が解けた後、瑛太のファンクラブに加入したと私達が知るのは数日後の話だ。)


 ――ああ、忘れていた。

 私が泥棒の娘だと少人数ながら高岡先生に暴露された話は、狂った言動として捉えられた人が多く、あっさりと流されてしまった。

 しいて言うなら、担任である猪野先生には伝えた方がいいのかと思って声をかけたが、猪野先生は「牛山が家族のことで悩んで、どうしても詳しい事情を私に話さないといけないときに言いなさい。私は黙って勝手に調べるようなクソッタレ教師じゃないわ」と言って笑いながら教室を出て行ってしまった。

 それ以来、他の生徒も教師も私に今回の件を話しかけてくることはなかった。きっと裏で猪野先生が手をまわしてくれたのかもしれない。

 ……せめてそれが、恐喝でないことを心から祈っている。

「とりあえず、折り紙盗難騒ぎも落ち着いたことだし、新しいクッションも手に入った。……うん。幸先がいいぞ!」

 ファイルをまとめ終えた巳波先輩が作業していた机から立ち上がって大きく伸びをする。【校内事変 三十八】も許容範囲を超えそうなのか、大きく膨らんでいた。

「牛山、疑いが晴れてよかったな」

「はい。ありがとうございました。……あの、東雲君」

 クッションを脇に置いて姿勢を正す。ソファーの上で寝転がっていた東雲君が顔をこちらに向けると、私は深く頭を下げた。

「無実を証明してくれて、ありがとう」

「……何、熱でもあんの?」

「失礼な。私だってちゃんと感謝くらい伝えるからね? ……でも本当に助かった」

 きっと彼がいなかったら、私はきっとあの時頷いて自分がやったと口にしていたかもしれない。桜井さん達と同じように、高岡先生に脅迫されて反省文を書かされていたかもしれない。高岡先生に逆らえず、見知らぬ生徒のロッカーの鍵を開けろと指示されたら開けていたかもしれない。

 あの時、東雲君がいなかったら――そう思うと本当に私は救われた。

 彼だけじゃない。一緒に証拠を探してくれた巳波先輩も、私の代わりに怒ってくれた実咲も、ずっと心配してくれていた瑛太も。一度クラスメイトどころか学校全体を敵に回した私を、彼らは助けてくれた。自分が見えていないだけで、実は沢山の味方が近くにいるんだって教えてもらった。

 私が満足げに笑ったのを見て東雲君は鼻で笑い、上半身を起こした。

「別に俺は推理とか真実をドヤ顔で堂々とバカを晒す戸田君に腹が立っただけ。……それより、どーすんの?」

「どーするって、何が?」


「アンタがピッキングできるっていう話。俺らに悪用されると思わないわけ?」


「…………え?」

 ニヤリ、と。それはもうとても楽しそうな笑みを浮かべた東雲君に、私は頬を引きつらせた。

 待って。彼は今、何を企んでいる?

「悪用する、の? 何か悪いことでもしでかすつもり……?」

「いや全然。でも必要に応じて利用するかも。でもアンタは両親との約束を守りたいんだろ? 皆には黙っててあげるから、ちょっと利用されてくんない?」

 口元は笑っていても目が笑っていない。

 高岡先生の時のような言葉攻めではなく、じわじわと圧力をかけていく脅迫ではないか。――そもそも脅迫の時点で同じなのだが――私は助けを求めるように巳波先輩の方を向くと、苦虫を潰したような顔をしていた。この人絶対助ける気ないな。

「あー……実は俺も祥吾と同意見なんだよなぁ」

「……どういう意味ですか?」

「こう……生徒会長としてのこのファイルをまとめてはいるが、情報が入ってこないうえ一人で作成するのには時間がかかる。だから次期生徒会長候補を呼んで一緒にやったりとかしているけど、やっぱり人手と情報が足りないんだわ。祥吾とは別件で世話になってからずっと手を借りてるんだけど、お前もひと肌脱いでくれよ」

「……セクハラ?」

「違う違う! 情報集めに協力してくれってこと! 盗難騒ぎが終わっても祥吾がここに連れてきたってことは、力になってくれるって思ったからだろ?」

「いやそこまで言ってないし」

 ……要するに、巳波先輩の生徒会長としての裏の仕事が片付かないから東雲君と一緒に手伝えと。

 壁一面の本棚に敷き詰められたファイルは、既に校内事変だけで三十八冊。更に今までの資料やスナップ写真集を含めると膨大な数になる。確かにこれを一人で情報を集めて作成し、整理するのはいくら時間があっても大変な量だ。

 加えて巳波先輩は先輩というだけあって三年生だ。噂では留年になるかもと校内に広がっている中、受験勉強はおろそかにできない。

「……どうして、東雲君は手伝っているの?」

「特に理由はねぇよ。ただ――」

 ここに来れば、大体楽しいことに巻き込めそうだから。――と、仏頂面ながらも口元を小さく緩ませた。

 彼は巳波先輩の近くにいれば今回の窃盗のような、校内の事件に遭遇できるとでも思っているのだろうか。

 一度容疑者として扱われた身としては、もう二度と盗難事件になんて出会いたくないし、ゴミ置き場の倉庫に閉じ込められたくもない。

 苦い顔をしながら巳波先輩に問う。

「私にメリットはあります?」

「そりゃ勿論、この資料室に出入りし放題だし、そこのクッションにいくら八つ当たりしてもいい。例え壊したとしても新しいものを買うからな!」

「……私がいたら毎回買い替えることになると思うんですけど大丈夫ですか?」

 横に置いた真新しいクッションを見て言うと、巳波先輩は一瞬で顔を歪めた。

 それはそうだろう。なんせクッションが一週間前と違うのは、私がクッションに八つ当たりをして穴を開けてしまったからだ。

「……そ、それは祥吾も同じだから問題はない! いや、問題なんだけどな?」

 それはごもっとも、と東雲君が笑いをこらえながら呟くと、巳波先輩は軽く睨みつけた。質の良いクッションが資料室にあるのは巳波先輩の興味らしい。お気に入りを購入し、愛着が湧いて暫くして破れる頻度が多いなら、最初からここに置かなければいいのに。

「とにかく、学校での暇つぶしとか思ってくれてもいい。現に祥吾はそんな感じだろ?」

「ええー……そこで俺に振る? まぁ確かに、思っていた以上に変な事件に巻き込まれるのは意外に楽しかったりする」

「犯人扱いされたり監禁されたりすることが楽しい? 全然共感できないんだけど」

「それは実際に濡れ衣を着せられたアンタの方が詳しいんじゃない? 誰も好んで監禁は頼まねぇ。……でも俺は、このまま平和な学校生活を終えるのはすごくつまらないとは思う」

「……東雲君、学校がつまらないの?」

「つまらないね。たまに息苦しくなる」

 目線をそらして、軽く首元に触れながら呟いた。

 彼に何があったかなんて知ったことではないが、教室に居ても誰とも話さずに眠っていることは何か関係があるのだろうか。

 ――いや、彼は本当に眠っているのか?

 私が猪野先生と彼の机の近くで話していたとき、机に突っ伏していたから顔は見えなかったが、実は起きていて私達の話を最初から聞いていた。つまりそれは、彼が寝ているフリをしていたことを証明している。

 なぜ寝たフリをする必要があるのだろう? 本当に授業中に当てられて教科書を十ページも読みたくないから? 過去に何か気まずいことがあったからクラスメイトと話しにくいとか、苛めに遭っているから人と関わるのが怖いとか、実は人見知りで自分から話しかけにくいとか。考え出せばいろいろ出てくるが、答えになりそうなものは見当たらない。

 むしろどんどんマイナスな考えが頭の中で飛び交って混乱していると、東雲君がかははっと笑った。

「別にクラスで何かあったとか、人見知りとかじゃねぇから」

「えっ……なんで考えてることわかったの……?」

「顔に書いてあんだよ。『ツヅミちゃん』は表情に出やすいな」

「…………ん?」

「え、なに?」

「つ……は? ちょ、なんで……うぇ?」

 一瞬、思考が止まった。

 今まで「牛山ちゃん」と呼んでいた人物から急に下の名前で呼ばれて変な声が出る。人って、ほんの些細なことで驚くと身体のすべての機能が止まりかけるものなのか。

 呼んだ本人は不思議そうな顔をして首を傾げた。

「びっくりしすぎじゃない? 別にいいじゃん。名前で呼ぶなって言われてねぇし」

「言ってないけど……ええ……?」

「顔真っ赤じゃん。あ、別に俺のことも名前で呼んでいいよ? 呼べるなら」

「……ぜ、絶対……呼ばない!」

 ただでさえ顔が熱いのを自覚しているうえで答える。

 作業台の近くで足をバタバタと暴れながら大声で笑っている巳波先輩に向かって、近くにあったクッションを投げつけた。

「せっかくクッション新しくしたんだから投げんなよー!」

「先輩笑いすぎです!」

「だって……ひぃーっ! よかったな、牛山! 祥吾が名前で呼ぶなんてレアだぞ、レア!」

「今度は本棚のファイル投げてもいいですか……!」

「待って、歴代会長の歴史だからやめて!」

 独特な笑い方の先輩にイラッとさせられるも、本棚にあった分厚いファイルの背表紙に触れた途端大人しくなった。

 しかし、巳波先輩の言うことも一理ある。東雲君から名前で呼ばれるのはかなり珍しいのかもしれない。特に私は同じクラスでも話したことがなければ「名前なんだっけ」と問われるほど関わりがなかった。

 そういえば一年の時に彼と同じクラスだった実咲にも、苗字で呼んでいるところしか見たことがない。それ以前にクラスで誰かの名前を口にしていることはあるのだろうか。

 多分、私の覚えている限りでは「猪野チャン」が断然トップだ。

「俺、気に入った奴しか呼べないから」

「呼ばない、じゃなくて呼べないの? それ大丈夫?」

「結構不味いと自覚はしている……ここだけの話、二年に進級してクラス替えしただろ? クラスメイトの名前どころか、顔も怪しい」

 苦笑いで答える東雲君。先が危ういのが目に浮かんだ。

「でも今回の件でいろんな人と結構話した気がする。あの騒ぎ以来、クラスの人から声をかけられることが必要以上に増えて……全然顔と名前覚えてないけど、授業中の板書はすごい助かってる。クラス分かれたからもう関わりがないと思っていた馬場ちゃんは相変わらず馬場ちゃんだったし……ああ、犬塚君は想定外だった」

「瑛太が? 後輩だから?」

「俺は委員会も部活も入っていないから、後輩っていう存在が未確認生物と一緒なんだよ。あんなに生意気な奴がいるとは思わなかった」

「でも仲良かったじゃん。私、瑛太があんなに毒吐いて言い合いしているところ久々に見たよ。すごい楽しそうだったから、てっきり知らないところで仲良くなってたんだと思ってたんだけど」

「仲良かった……? あれが?」

「良かったと思うぞ。俺もそう捉えたけど……違うのか?」

「ちょっと待て……後輩に舐められてる裕司先輩は絶対違うじゃん。ある意味惨敗だったよ」

「うっ……! 俺だって言い返せるぞ! ……多分」

「自信持てよ。だから論破されるんだろ」

 一通り笑い終えると、東雲君は座り直して真正面から問う。

「で、どーすんの? 俺は付き合ってくれると楽しいんだけど?」

「付き合っ……! いやいやいや! あのな、俺は別に交際をしろとは……」

「そっちじゃねぇし。なんでそんなピュアな捉え方すんの?」

「うっるせぇ!」

 なぜか巳波先輩の頬が赤く染まる。誰もこんな展開は期待していない。

 小さく溜息は吐きながら私は「いいよ」と一言呟いた。しっかり耳に届いていたのか、二人とも驚いた顔をしてこちらを見る。

「……脅した二人がなんで驚いているの?」

「え? だって……いいのか?」

「だって拒否権なさそうだし」

 拒否権はない――これは事実だと断言してもいい。

 東雲君のことだ、私がピッキングできることは話さなくても要請はしてくるだろうし、それを嫌だと断っても、きっと私は目の前に錠前があれば鍵を開けてしまうだろう。

 そして何より、私もあんな状況が楽しいと思ってしまったのだ。

 学校は学業を学びに行く場所、社会に出る前の準備をする場所。それを少しの時間でも全部忘れたい場所が校舎のどこかにあってもいいんじゃないか――なんて、そんなものは甘い考えなのは十分承知している。「高校生になってまで子供じみたことを」と影口を叩かれても構わない。人生は一度きりだし、高校生活は順調に行けば残り二年もない。

 だったら楽しい方が良いに決まってるじゃないか。

 私が口を開きかけて止まっていると、不思議そうに巳波先輩が声をかける。

「どうした?」

「……ううん。二人にはお世話になったから。借りたものはちゃんと返さないと失礼だなーって」

「なんか物騒なことにしか聞こえないだけど」

「物騒って何? ねぇ、物騒って何?」

 ふざけた冗談に突っ込むと、東雲君は楽しそうに声を上げて笑った。

「いいじゃんいいじゃん! アンタ、やっぱりやんちゃだったね」

「前も同じこと言ってたけど、どういう意味?」

「だって一歩間違えたら停学、退学もあり得る秘密じゃん? そりゃ口封じのために俺達は利用するかもだけどさ、本当はいろんな鍵を開けたくて仕方がないんじゃねぇの? 今もポケットに入れているんだろ?」

 ニヤリと口元を緩ませ、ポケットの辺りをトントン、と叩く。

 隠す必要もないので小さく溜息を吐くと、制服のスカートのポケットに入れていた手の平サイズの南京錠を取り出す。

「やっぱり。持ってると思ったんだー」

「……なんで持ってるのわかったの?」

「音。歩く時にペチペチ聞こえた」

 スカートのポケットに入れていたから必然的に歩く度に太腿に当たる。その音が聞こえたのか。

「それにしても南京錠とは……なんでまたそんなモン持ってんだよ?」

「……お母さんからの、挑戦状的な?」

 倉庫の丸落としを開けてから、やけに手元が落ち着かないことを母に話したら、満面の笑みを浮かべてこの南京錠を渡されたのだ。

 これは昔、父でさえ開けるのが困難だったという母特製の南京錠らしい。なぜこれをくれたのか、母に問うと「これはあの人でも三日はかかった南京錠なの。きっと暇つぶしになると思うわよ」とやけに誇らしく話していた。よほど自信があるのだろう。しかし、その自信が嘘ではないことは貰ってすぐ家の自室でヘアピンを使ってピッキングしてわかった。今まで南京錠はいくつか開けてきたが、この錠前は一向に開く気配がない。ついに学校にまで持ってきて、一人になった時にこっそり開けようとしている。勿論、東雲君や巳波先輩の前ではやったことがない。だからスカートのポケットに南京錠が入っているのをどうして彼が見抜けたのか不思議だった。

 両親といい東雲君といい、どうしてこう私のまわりには変人ばかりなのか。

「東雲君も結局変質者か」

「『も』って何? 裕司先輩と一緒にすんじゃねぇよ」

「俺もお前に言われたかねぇよ! つか牛山、もっとオブラートに! 優しく包んで! 中華まんのように柔らかい皮でアツアツの餡をふんわり優しく包むかの如く!」

 オブラートはどこに行った。

「やめろ、冷たい目で俺を見るな! 悲しくなってくる……!」

「返答のしようがなかったので。……なんか肉まん食べたくなってきた」

「俺、ピザまんがいいな。裕司先輩、買ってー」

「なんで肉まん……! 遠慮がねぇのな!」

 この二人の前だと口が軽くなって悪くなる。口に出さずに思っていることが気付けば出ている感じは、信頼すると決めた証拠なのだろう。

 私と巳波先輩のやり取りを見て一通り笑い終えると、東雲君はソファの上に座り直しながら言う。

「あー……笑ったぁ……人は貪欲だとアンタが証明してくれてるよね」

「……東雲君、思っていた以上に口が悪いね」

「おっ。褒めてくれんの?」

「むしろ貶してる」

「最高ー……いいね、楽しくなってきた」

 同じクラスでも話したことがない。むしろあの事件がなかったら一生話さなかったかもしれない。

 東雲君はとても楽しそうな笑みを浮かべた。

「改めて、これから宜しく。『ツヅミちゃん』」

 一難去ってまた一難。苦笑いをする傍ら、これから巻き込まれるかもしれない厄介事に胸を弾ませて待っている自分がいる。

 目の前で楽しそうに嗤う、かなり変わったクラスメイトの変人を前に、私はやれやれと小さく溜息を吐いた。

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