雫、十四滴。

 

 


 神父が一瞬言い淀み、しかしわたしの顔を見ながらハッキリと口にした。




「その……使徒様は黒を身に纏っていらっしゃいましたが、それは衣類だけでなく、髪や瞳もそうであったと伝えられております。そして肌は黄色みを帯び、顔立ちは年齢を問わず幼く、若々しいお姿であったとも。神々の世界に存在する極東の日出ずる国より参られたとのお言葉も記録に残っております」




 ヒヤリとした感触が背中を伝う。


 何となくそうかもしれないという予感はあった。


 横でハッと伯爵が息を呑む音がする。




「黒髪に黒に近い瞳、その黄色みを帯びた肌、幼い顔立ち、極東の日出ずる国の御出身」




 聞きたくない。言って欲しくない。




「貴方は神々の世界より参られた使徒様なのではございませんか?」



  

 わたしはそんなな存在なんかじゃない。


 何故だろう。怖くて横を見ることが出来ない。


 伯爵が今どんな顔をしてるのか見たくない。


 …………見るのが怖い。




「……いいえ」




 わたしは使徒じゃあないし、神々の国の出身でもないはずだ。


 だってその使徒達のように人々の役に立つ知識など持っていない。


 大勢の人の役に立とうだなんて、そんな大きなことを言えるほど出来た人間でもない。


 それに、もしも使徒だと認めてしまったらどうなるのだろう?


 使徒だから教会に来てくれと言われたら?


 今の生活を取り上げられて教会の中で生活しろと言われたら?


 この世界での宗教の権力は絶大だ。わたしを渡せと言われた時、きっと伯爵は断れない。伯爵でなくとも断れる人間は限りなく少ないだろう。破門されることは異教徒と判断されて人々からの扱いが悪くなる。


 例えあまり宗教に興味のない伯爵であっても無視出来ないことだ。




「いいえ、わたしは使徒様でもなければ神の国々の出身でもありません」




 だからわたしは否定する。


 それが本当は事実であったとしても拒絶するしかない。


 わたしの言葉に神父が困ったように眦を下げた。




「しかし、大聖堂の奥に安置された使徒様方の肖像画の特徴と貴方の外見の特徴は非常によく似ています。もしも使徒様でないとしても同郷のお方であることは確かでしょう。そんな方を放置しておくことなど出来ません。是非一度、大聖堂の司教様とお会いになられて――……」


「違います、わたしは関係ありません」




 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


 放置しておくことが出来ないって何だ? 一度でもそこへ行って使徒か、使徒の同郷の者だと認められたらそのまま外へ出してもらえなくなるのではないか?


 もう居場所を奪われるのも、大切な人達と引き離されるのも御免ごめんだ。


 二度とあんなつらい思いはしたくない。あんな怖い思いもしたくない。




「ですが、使徒様と同郷の尊いお方を働かせるなど見過ごせません」


「見過ごせない? そもそもわたしは使徒でもなければ同郷の者でもないのです。旦那様に拾われ、その御恩をお返ししたく、何よりこの仕事が好きで伯爵家にお仕えしているのです」


「そんな、貴方は本来であれば保護されるべき存在でいらっしゃるのに。教会に来ていただければもっと自由な暮らしをお約束致します。貴方は伯爵家ではなく教会の――……」


「やめて!!」




 思わず立ち上がったわたしを伯爵が呼んだがそれどころではなかった。


 どうしてわたしから奪おうとするんだ。


 どうしてわたしの気持ちを考えてくれないんだ。


 好きで働いてると言ってるのに。好きで仕えていると言ってるのに。


 何でわたしの言葉を聞いてくれないんだ。




「わたしは使徒じゃない! 攫われてココに来ただけだ! 居場所も、生まれ故郷も、家族も、友人も、わたしは全て失ってこの国にいる!! それがどれだけ辛いか分からないくせに、貴方達はまだわたしから奪う気か!?」




 


 視界がぼやけたことで自分が泣いていると気付いた。


 感情が昂って、怒鳴るというより悲鳴に近い声になったのが分かる。


 頭の奥が鈍く痛む。暑いような寒いような変な感覚に襲われ、グルグルと視界が回り出す。息が苦しい。気持ち悪い。耳元に心臓があるみたいに自分の早い鼓動が聞える。苦しい。胸が痛い。


 ――――もう、何も聞きたくない。


 暗転する世界の中で、こちらに手を伸ばす伯爵だけはハッキリと見えた。






* * * * *






「セナッ?!!」





 頭を抱えたかと思うと、グラリと傾いた体を慌てて抱き留める。


 その拍子に雫が腕に落ちた。


 慌てて顔を確認すればセナは泣いていた。


 力なく寄りかかってくる小柄な体を抱え上げ、ソファーへ横たわらせる。気を失っているはずなのに、何度ハンカチで拭ってもその閉じた瞳から零れ落ちる涙は止まらない。


 ローテーブルの反対側に座っていたフレドリック神父が立ち上がったが、それを手で制する。




「近付くな」




 普段よりもずっと低い、唸るような声がクロードの口から響く。


 その剣呑さにフレドリック神父の体が硬直した。


 まるで蛇に睨まれた蛙の如く冷や汗が背中を伝うのを感じた。




「セナは使徒ではないと再三言っていたではないか。例えセナが使徒と同郷であったとしても、教会に行くか伯爵家に残るかは本人の決めること。嫌がるセナが見えなかったのか?」




 クロードは沸々と体の内側に溢れる怒りを抑え付けながら問うた。


 セナが使徒、もしくは使徒と同郷の者だとは思ってもいない状況だった。


 馬鹿にしている訳ではないが、聖書に書かれていることを鵜呑みにするほど幼くもなかったため、両者が結び付くことはなかったのだ。


 だが、今問題なのはそこではない。


 見る限り、セナは伯爵家から離れることを嫌がっている。


 別の場所へ行くことに怯えを抱いていると言っても過言ではないだろう。


 教会で保護すると言われかけて半狂乱になって拒否するほどだ。


 もしも本当にセナが使徒だったとしても、同郷だったとしても、一つハッキリしているのは『帰れない』という点だ。それを恐らくかなり早い段階でセナは気付いていた。


 だから以前から「帰れない」「帰る場所がない」と口にしていた。


 てっきり故郷の国そのものが他国に滅ぼされたのかと想像したのだが、事実はもっと残酷だった。


 ……まさか別の世界から来たとは。


 何故言ってくれなかったのかと思う気持ちよりも、こんなことは誰にも言えなかったのだという理解が先に生まれ、その心情は想像を絶するものだろう。




「事と次第によっては脅迫罪で訴えることも辞さないが、どうお考えか?」




 全てを失った自分からまた奪う気かとセナは言った。


 別の世界から着の身着のままで来たセナに当然行く当てなどない。


 セナにとって伯爵家はこの世界での唯一の居場所なのだ。


 そこから引き離されることに強い拒否感を覚えるのも当たり前だ。


 既に一度、全てを失っているのだから。


 睨み付ければフレドリック神父が慌てた様子で弁明する。




「お、お待ちください! 私はただその方の幸福を考えただけなのです!」


「では聞くが、今のセナを見て、お前の言う通りに大聖堂へ行けば幸福になれると思うか? そう言えるのか?」




 善意であれば何をしても許される訳ではない。


 それはただの押し付けである。




「それは――……」


「セナの反応は当然だ。やっと新しい場所に馴染んできたというのに、また突然別の場所へ連れて行かれるのだぞ。その恐怖や精神的な負担が如何いかほどか考えなかったのか?」




 言い淀む姿に容赦なく追い打ちをかける。


 此処で此方が一歩でも引いたらセナは連れて行かれるかもしれない。


 それはセナも、そして私も喜べないことだ。


 肩を落として意気消沈するフレドリック神父に釘を刺す。




「間違っても大聖堂の司教達に進言はするな。使徒であっても同郷の者であっても確かにセナには知識がある。無理矢理連れて行かれたら何をするか分からない。何より私の庇護下から権力で引きずり出そうとしたならば、此方とて持てる権力全てを行使して報復する。冗談でも脅しでもなく――……これは警告だ」


「……畏まりました。このことは、私の心のうちに留めておきます」


「それだけでは足りない。今此処で教会の誓いを立てろ」




 人間の感情や言葉ほど移ろいやすいものはない。


 それでも、教会の正式な誓いを立てた聖職者は信仰心故に破れなくなる。


 絶対とは言えないが立てないよりは良い。


 フレドリック神父はローテーブルの脇へ出ると両膝を床につき、両手を胸の前で交差させる聖職者独特の礼を取った。




「主の名を用いて偽りの誓いを立ててはならない。その約束を破ることで、主の名をけがしてはならない。セナ・シェパード=ソークに関する約束は全て口にした通り、実行しなければならない」




 クロードの言葉にフレドリック神父が深々と頭を垂れる。




「貴方は主の御名においてセナ・シェパード=ソークの秘密を秘匿し、自由を奪わず、孤独に落とさず、決して教会への入門を強要しないと誓わなければならない」


「私フレドリック=ミラーはセナ・シェパード=ソーク様の秘密を秘匿し、自由を奪わず、孤独に落とさず……決して教会への入門を強要しないと主の御名において誓います」


「此処に誓願は成った。口にした約束は、貴方の主に誓願した通り果たせ」




 震える声でフレドリック神父が「……はい」と返事をする。


 それは文言の内容よりもクロードから発せられる怒気に怯えているせいでもあった。


 だがクロードは構わず、ソファーの隅に置かれてたクロークをセナに着せて目深にフードを被せ、自分もマントを羽織ると気を失ったセナをそっと横向きに抱き上げた。


 漸く涙は止まったけれど、苦しげに眉は顰められたままだった。




「それでは失礼する」




 セナを抱き上げた状態で器用に扉を開けてクロードは部屋を出た。


 もう何度も訪れた元来た道を足早に戻る。


 ゆっくりと休ませてやりたいが、此処では目覚めた時にどのような反応を見せるか想像がつかない。


 ただ混乱して暴れる可能性はある。それならば今のうちに帰った方が良い。


 途中で会ったシスターは驚いた表情を見せたものの、セナの具合が優れず倒れたことを告げれば心配して、礼拝堂に続く扉と外への扉を代わりに開けてくれた。




「礼を言う」




 礼拝堂の扉は大きくて重い。抱えたままでは開けられなかっただろう。


 だが逆にシスターに頭を下げられる。




「いいえ、お礼を言わなければならないのは私達の方です。ハーパー孤児院の子供達だけでなく、私達シスターにもご配慮くださり、ありがとうございました」




 今更礼を言われるとは思っていなかったクロードは一瞬面食らった。




「いや、大したことはしていない。気にするな」




 照れ臭くなり、突き放すような口調で言い置いてクロードは外へ出た。


 待たせていた御者は気絶したセナに驚いてたが、屋敷に戻ると告げればすぐに頷き、扉を開けた。


 馬車の片側の椅子にセナを寝かせ、クロードは向かい側に腰掛ける。


 扉が閉まって少しすると馬車がゆっくりと動き出す。


 具合の悪いセナを気遣ってか走り出しは普段よりも緩やかで、走る速度もやや遅い。


 未だに眉を顰めて苦しそうな表情で眠るセナの手を握る。


 ドキリと心臓が跳ねるほど、その手は冷え切っていた。




「心配せずともお前を教会には渡さん。お前は好きなだけ伯爵家うちで働けばいい」




 もう一度「大丈夫だ」と口にする。


 前にセナがクロードへ投げかけた言葉を、今度はクロードがセナにかける。


 冷たい手を握ってやることしか出来ない。


 そうして馬車は常よりも少し時間をかけて屋敷へ戻った。


 セナを抱えて馬車を降り、御者が開けた玄関扉を潜ると出迎えたアランとアルフが目を丸くした。




「セナが倒れた。恐らく心労だろう。アルフはベティに部屋まで運んで看病をするよう頼んで来てくれ。アランは私と共に書斎へ。お前に話しておかねばならないことが出来た」




 クロードの何時になく真剣な表情にアランも背筋を伸ばし、礼を取る。




「畏まりました。お医者様はどうなさいますか?」


「……ああ、そうだな、一応診させてやってくれ」


「すぐにお呼び致します」




 口の堅いお抱えのあの医者ならばセナを診させても問題ない。


 倒れる時に受け止めたため怪我はないが心労の方が心配だ。


 アルフはすぐにベティを呼びに行き、やってきたベティにセナを託す。


 それを見送り、アランを伴いクロードは書斎へと向かった。






* * * * *






 教会の礼拝堂にわたしはいた。


 石造りの冷たいそこは先日初めて行ったばかりの教会だった。


 祭壇の前で両膝を付き、両手を組み、祈りを捧げる。


 絨毯が敷いてあるといっても床は固く、冬の凍えるような寒さで冷え、足元から冷気が上がってくる中でそれでも懸命にわたしは祈りをやめなかった。


 どれほどの時間祈ったかも分からない。


 ただ、伯爵家から離れたくないと一心に願い続けた。


 礼拝堂の脇から神父がやって来て、私に何事かを口にしたが聞き取れない。


 差し出された手を思わず振り払う。


 その勢いで振り返って気付く。


 何時の間にかそこに伯爵がいた。


 片膝を床について右手を左胸に当て、そして深く頭を垂れている。


 何故、と思った。


 伯爵はわたしの主人で、わたしは伯爵の従者だ。間違っても跪(ひざまず)かれる立場にわたしはない。


 どんなに話しかけてその肩に触れてやめさせようとしても伯爵は顔を上げない。


 後ろから誰かの手が複数伸びてきて、わたしを連れて行こうとする。


 いやだ、行きたくない、わたしは伯爵家にいるんだ。


 夢の中だから簡単に涙が溢れ出す。


 滲んだ視界の中で伯爵の名を叫ぶ。




「伯爵……っ、クロード! 助けて!!」




 跪く伯爵に手を伸ばす。


 すると伯爵がゆっくりと顔を上げた。


 そのくすんだブルーグレーから透明な雫が一滴、零れ落ちた。






* * * * *






「――……クロード……!!」




 ハッと目を開けるとわたしは天井へ向かって手を伸ばしていた。


 見慣れた天井だ。私の自室の天井だ。


 それに思い至ると急に涙が込み上げてくる。


 部屋の暖炉には火が灯り、見慣れたわたしの部屋を暖かく照らす。


 ……帰って来れた。ちゃんと伯爵家にわたしはいる。


 顔を毛布へ押し付けて泣き声を押し殺す。


 夢は鮮明に頭に残っていた。


 震える体を毛布で覆い隠し、泣きながら思う。


 どうして夢の中の伯爵は泣いたのだろう。








# The eighth case:Weight of the life.―命の重み― Fin.



* * * * *

 ・題名について


# The eighth case:Weight of the life.―命の重み―


これは瀬那がヘレン=シューリスを殺めてしまい、そのことで人の命の重みを改めて知り、人を殺める責任と苦悩を痛感するという意味と、この世界の人間ではなく神々の世界より来た人間(この世界で言えば)であることから瀬那自身の命の重みは他と違うという意味でした。

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