ステップ、四つ。
何か声をかけてやりたいが周りに聞こえてしまうので内心で励ましの言葉を送るしかない。
伯爵が食中酒を選んだためテーブルに寄る。
ずんぐりむっくりなボトルのコルクをポンと抜き、グラスへ注ぐ。
「どの料理も美味しくて目移りしてしまいますわね」
話しかけられた伯爵はにこやかに返す。
「では、あちらなど
「まあ、本当! アルマン卿もお召し上がりになりまして?」
「ええ、勿論。そのつもりです」
寄ってきたバディット男爵夫人の従者に先に料理の皿を譲ると恐縮した様子で取り分け皿に移す。
夫人は何も言わないが従者は若いながらも料理の盛り付けのセンスが良く、この場に連れて来るのも頷けた。
次に受け取ったわたしも魚を中央に、周りにソースを丸く広げる。具には魚だけでなくイカなどの他のものも混ざっており、トマトの良い香りがした。一緒に合わせるパンは輪切りにされている。傍らにすりおろしたチーズとニンニクの香りのするソースがあったので、それらをパン皿とバター皿へ移す。
全てを終えて下がろうとすると男爵夫人と目が合った。
人畜無害そうな笑みと共に一礼して下がる。
「アルマン卿の従者はお可愛らしいですね。お幾つかしら?」
どうやらわたしのことまで気になり出したらしい。
「あれでも十七で成人ですよ」
「十七歳? どうしたらあんなに若々しくいられるのでしょう?」
「そういう人種だと言っておりましたよ。異国の生まれで、その国の者は他国から見ると小柄で童顔で実年齢よりも若く見られるのだそうです」
「なんて羨ましい。私も何時までも若々しくありたいわ」
「バディット男爵夫人は充分お美しいですよ」
寒い、寒いぞ。伯爵と男爵夫人との間の温度差が凄い。
伯爵に秋波を送る夫人に、にこやかに微笑みながらも決して受け取らない伯爵。
変装もせず、こんなに柔らかな笑顔を浮かべる伯爵は何だか怖いな。
この屋敷に来てからはこの調子なのでこれが社交界向けの顔だと分かっていても怖い。
そうして口直しにスパイスケーキ、牛肉を赤ワインで煮た料理、デザートにミルフィーユ、最後に食後の紅茶と共に一口サイズの焼き菓子やチョコレートなどが別に供される。
立っているか料理を取り分けるかという動作以外は基本的にない時間とは疲れるものだった。
余程気に入ったのかバディット男爵夫人は自分の横に座る父親よりも伯爵に話しかけてばかりいて、わたしが料理を盛るために近付くと遠慮なく顔を見つめられるのは少し戸惑ったが、それに気付くと可愛いものを愛でるような視線に変わったので更に心境は微妙である。
従者のわたしにさえこれなのだから、正面切って秋波を送られる伯爵は内心で辟易としていることだろう。その柔らかな笑みが一ミリも崩れないのが逆に恐ろしい。
晩餐を終えると今度は女性は小サロンへ、男性はシガールームを兼ねた遊戯室へ向かう。
わたし達従者は用がない限りは控えの間にて待機することとなった。
従者用の控えの間と言っても豪華で椅子も革張りで長時間座っていられそうだ。待つ時間の長いわたし達にはありがたい。固い椅子だと座っているよりも立った方がラクなのだが、それはそれで足が棒になってしまう。
漸く椅子に腰掛けることが出来て人心地ついていると、
「あの、先ほどはありがとうございました」
まだ気落ちした風であったが少しは持ち直したようだ。
「いいえ、わたしもこういった場は初めてでとても緊張しておりましたから、あなたのお気持ちも分かりますよ」
似たようなものだと暗に告げれば従者も安心したのか肩の力を抜いた。
わたしより年下かもしれないと思うと「この人も大変そうだな」と同情心が少し湧く。
「そうなんですか。すみません、意識し過ぎて力が入ってしまいました……」
「ですが他の招待客の皆様は話に夢中でいらしたようですし、そう心配されることもないかと思いますが」
「……招待客の皆様ではなく、奥様の方が……」
そこまで言いかけた従者はハッと我に返ると「……いえ、何でもありません」と言葉を濁した。
……今が攻め時かな。
座っていた向きを若い従者の方へ動かす。
俯いて猫背になりかけている背にそっと触れる。
「事情は分かりませんが、とても苦しそうですよ。もしかして何か困ったことがあるのでは?」
相手の顔を覗き込むようにやや顔を近付けて小首を傾げてみせる。
わたしはこの国ではかなり童顔な部類なので、彼は同年代ほどだと思っているに違いない。
自分と歳の近い者というのはそれだけで警戒心が薄れるのだ。
ましてや助けられた相手に優しい言葉をかけられて何も感じない人間はそういないだろう。
若い従者は
「ああ、すみません、勿論言いたくないことを言う必要はありません。ただ、心の内にずっと溜め込んでいると倒れてしまいますよ。わたしは異国出身でして、この国に慣れた頃に疲れが出て倒れてしまったことがあるのです。あなたの思い詰めた顔を見たら心配になってしまって、つい……。不愉快にさせてしまい申し訳ありません」
意識して悲しげな顔を作ると若い従者が慌てて「そんなことありませんっ」と顔を上げた。
わたしが身を引いた分だけ若い従者が寄る。
「不愉快だなんて……そうじゃないんです」
一瞬、躊躇う素振りを見せた若い従者にわたしはもう一度首を傾げてみせた。
それで踏ん切りがついたのか、周囲を見回して他の従者がこちらを見ていないことを確認し、口を開いた若い従者は声を落として話し始めた。
「実は、奥様は酷い癇癪持ちなのです。使用人がミスをするとそれはもうお怒りになられて、他の誰も手を付けられないというほど、物を壊したりミスをした使用人に当たるのです」
「……考えるだけでも怖いですね……」
「ええ、僕も初めてそれを目にした時は恐ろしくて、ただただ息を殺して奥様の怒りが鎮まるのを待つしかありませんでした」
微かに震える背中を擦ってやると微笑が返される。
これで相手が女性ならば手の一つも握って更に信頼を得たいところだが、何分相手は男だ。
男は同性同士で必要以上の触れ合いを嫌う傾向にあるそうなので、励ますように軽く背を擦るだけに留めておいた。あまりやり過ぎて恋愛感情を持たれても困る。
この国は同性の恋愛も異性の恋愛同様に自由なのだ。ただし結婚は出来ない。これは同性愛者の結婚が増えることで子供の数を減らさないための措置であり、同性愛者の恋人同士が養子を引き取ることは公的に許されている。この場合、内縁関係の配偶者である証明書が養子縁組の証明書と共に発行されるのでどちらかの子という立ち位置となるらしい。
「……でも、奥様が恐ろしいのは癇癪なんかじゃありません……」
伏せられた瞳が仄暗い色に沈む。
自分の手元を見ているはずなのに、どこか焦点の合わない瞳。
こういう目は今まで何度も見て来た。嘆き、絶望し、全てを諦めた、そんな目だ。
「奥様は若い異性がお好きなのですが、少々度が過ぎておられるのです。見目の良い奴隷を買ったり、貧民街で拾ってきたりした少年を相手に口に出すのも憚られる……そういうことをなさいます。そして拒絶すると鞭や火掻き棒で容赦なく叩きます。時には同じ境遇の少女の前で行為を強要されることも……」
それは自身の経験も混じっているのか、若い従者は服の上から左腕の上部を擦った。
そこにバディット男爵夫人に負わされた傷の跡が残っているのかもしれない。そしてそういった行為を強要されたことも。
「その、それは犯罪では……?」
この国には未成年の少年少女に性行為を行うことが法律で禁止されている。
処罰は金銭だけで済む場合もあれば、悪質だと鞭打ちや手の切断といった重い罰が下される場合もある。
若い従者の言葉は噂の通りで、そうだとすれば最も重い手の切断もありうる。
彼は擦っていた腕を掴んだまま小さく頷いた。
「はい。でも、男爵家の使用人は皆、怖くて言い出せないのです。僕達はバディット男爵家で働いておりますが、雇っているのは奥様の御実家なので告発すればクビになってしまいますし、その後にどんな折檻が待っているかと思うと警察へ駆け込む勇気も出ません……」
なるほど、暴力を含んだ完全なるパワーハラスメントが出来上がっているのか。
使用人など女主人の一言で簡単に辞めさせられてしまう。
例えばこの若い従者が孤児や貧民街出身であればクビにされても行く当てなどない。
元奴隷であればまた売り飛ばされるか、最悪、折檻の末に――……なんてこともないとは言い切れない。
「それは
若い従者の顔が小さく歪む。
泣き出しはしないが、掠れた声は震えていた。
「……はい……」
誰かに気付いて欲しい。胸の内の苦しみを聞いて欲しい。
吐き出せない苦しみは棘のように内側から体を、心を蝕んでいく。
その痛みをどうにかして欲しい。助けて欲しい。
それらの感情が触れた背中から手の平を通してわたしへ流れ込む錯覚さえした。
「大丈夫ですよ。もし帰った後に不安を感じるのでしたら、わたしと親しくなったと奥様に申し上げてみてください。どうやらバディット男爵夫人は旦那様とわたしに興味があるご様子。……恐らくわたしとの繋がりをチラつかせれば晩餐の時のミスは許されるか、多少なりとも折檻は減ると思うのですが……」
「え? ですが、宜しいのでしょうか……? きっとご迷惑をおかけしてしまいます」
目を丸くして戸惑う若い従者に微笑み返す。
何時も行き当たりばったりでやっている訳じゃあない。
「大丈夫ですよ。旦那様は夫人よりも上位の貴族でおられます。使用人はその家のもの。いくら男爵夫人と言えども自分よりも上位の貴族の使用人をおいそれと傷付けることは出来ないでしょう」
もしわたしが何らかの理由で折檻されれば伯爵が出て来る。
折檻を受けなければならないほど重大な失敗を犯したのであれば兎も角、気に入らないという理由などで受けたとなれば、それを元に過去の動向を調べ上げる理由をこじつけられる。
それでなくとも行き過ぎた折檻は貴族社会では問題である。
使用人は家の
痛いのは嫌いだが、こちらとしては願ったり叶ったりな展開とも言える。
「そう……そう、ですね」
上げた瞳には光が戻っていた。
「ですから、気にせずわたしを使ってください。わたしはセナ・シェパード=ソークと申します。セナとお呼びください。あなたは?」
「僕はバート=ウィレスといいます。バートと呼んでください、セナさん」
「ええ、よろしくお願いします、バートさん」
互いに握手をして仲を深める。
その後はもうこの話題には触れず、互いに従者あるあるで少しばかり盛り上がったのだった。
ちなみにバートさんは十五歳でわたしの二つ下だと判明した。
わたしが十七だと答えたら、零れ落ちてしまいそうなほど目を見開いたバートさんに「嘘、ですよね?」と半笑いを返されたので「事実です」と答えたらこう呟いた。
「……世界って広いんですねえ……」
あまりにしみじみと言うものだから、わたしは吹き出してしまった。
* * * * *
「と、いうように従者のバート=ウィレスさんより告発文にあった使用人への過度な折檻や虐待、性行為の強要などは事実であると認められます。ただし殺人が行われたかどうかは不明のままでした」
書斎で机の向こうにいる伯爵へ報告する。
時刻は日付が変わって少しばかり針が進んだ頃だ。
声量を落としていても相手の声が聞こえるほど、屋敷の内外は静けさに満ちている。
「そうか。それが分かっただけでも充分な収穫だ」
どこか疲れた表情で話を聞いていた伯爵の瞼が開く。
「伯爵の首尾はいかがでした?」
「夫人の個人的な茶会に誘われた。晩餐会の礼もしたいので是非お前も連れて来て欲しいとも言われたな。一応聞いておくが、行く気はあるか?」
「当然お供させていただきます」
これで行かないという選択肢はない。
「だろうな。明日にでも夫人に手紙を送る」
はあ、と息を吐く音が室内に響く。何時にも増して溜め息が長い。
面と向かって聞いた訳ではないが、今までの様子からして伯爵は気の強い女性や肉食系のグイグイ来る女性が苦手なようなのだ。恐らくお淑やかで控えめな女性が好みなのだと思う。
バディット男爵夫人は完全に肉食系なので相手をするのも億劫なのだろう。
無表情というより仏頂面に近い表情でハーブティーに口を付ける。
リラックス効果のあるハーブだ。今夜の精神的な疲労も多少は和らぐと良いのだけれど、また会う約束を取り付けなければならないので暫くは紅茶ではなくハーブティーを出した方が気持ちも穏やかになるかもしれない。本人が良いと言えばそうしよう。
「それにしても、お前は本当に他人と親しくなるのが上手いな」
わたしの報告を聞きながら内容をメモした紙を見て、伯爵が言う。
「お褒めに与り光栄です。これも心理術を使っておりますよ」
「ああ、あの『男女の心を掴む方法』か?」
「それもありますが、今回は相手の罪悪感に付け込ませていただきました。晩餐会の場で失敗したところを助けたでしょう? あれのお蔭で警戒心は薄かったので簡単にお話を聞けました」
「相変わらず
使用人から話を聞いて来いと言ったのはそっちじゃないか。
わたしだって罪悪感はあるが、仕事と割り切ってやっているのだ。
「詳しい話は返事が来たらする。今日はもう下がれ」
「畏まりました。伯爵もあまり御無理はなさらないようお願い致します」
「ああ。……そうだ、これを返しておく」
冷めた温石を返されたので受け取った。
僅かにほんのりと温かいのは伯爵の体温が移ったのだろう。
その温もりが少しばかり手に馴染んで心地好い。
一礼して「おやすみなさいませ」と声をかけたら退出する。
さあて、この堅苦しい服を脱いでわたしも休もう。
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